第八十三話 拳、決断、一撃必殺
「御神苗様っ!!」
大太刀を引き摺って敷地の中に戻った和穗は、屋根の方から聞こえてきた轟くような叫びに驚いて顔を上げた。
葵だ。
葵が、直紹の部屋の窓から身を乗り出して叫んでいる。
何事かと首を傾げた和穗は、しかしすぐに葵の腹のあたりに赤い液体が付着しているのに気付いて、顔を強張らせた。
まさか。
グッと地面を強く踏みしめて、勢いよく、高く跳ぶ。
帳や宗一郎のように垂直に高くは跳べないが、それでも一階の屋根に上がるには十分な高さに、和穗は一気に直紹の部屋の近くまで走る。
部屋の下でもう一度跳べば、窓まではそう高くない。
何度も母に「はしたない」と悲鳴をあげられた特技が、こんな形で活かされるとは。
「直紹が、深神霧子に連れて行かれたっ……!」
「なんですってっ!」
「外の結界にはほころびはない。中から……灯守を持った時に直紹を媒体に発動するように術式が仕込まれてたんだ」
「さいっあく! 性格悪すぎよ!」
大好きだった霧子さんの姿が、和穗の頭の中でガラガラと崩れていく。
だが、その手段は的確で、間違いがなくて──だからこそ余計に、腹がたった。
こんな状況だ。灯守を失った直紹に新しい灯守を、というのは誰だって考えることだろう。
だがそんなこと、霧子にはお見通しだったのだ。
葵は、自分が無理を言って家紋を刻んでもらった角灯を握りしめながら歯を食いしばる。
「アンタ、そのお腹は?」
「直紹に刺された」
「刺っ……!?」
「だが、治された。意識はある状態で刺されて……それで、すぐに治した、のだと」
「意識ある状態で刺させる方が悪趣味だってのよっ」
それはその通りだ、と、葵は苦笑した。
確かにもう腹の傷は塞がって、少し突っ張るくらいの感覚しかない。
しかしこの腹を刺した直紹の手にはまだ刺した感触が残っているのだろうし、手には葵の血が残ってもいるだろう。
腹を撫でて、葵は舌打ちをする。
霧子の灯守は、なんてことのない雑魚だった。
腹に一撃、顎に一撃食らわせればストンと意識を失って、今は床に伸びている。
今は意識を失っているだけだが、正直に言えば葵はこの女も殺してしまいたかった。
この女がいなければ、直紹を連れ去られる前に何とか出来たかもしれない。
情けないのは己だが、この女はここで殺されても仕方がない事をしたのだ。
「うっ、さっむぅ!」
「また気温が下がってきたな」
「市街に出てる刀持ちたちは避難所に市民を集めてるみたいだけど、そろそろこっちにも来るかも……でも、もうすぐ夜住の出る時間よ」
「さっき一体倒しただろ」
「そうね。ハルの結界に入れなくて影に潜んでたのを、祓ったわ」
今現在、御神苗の灯守であるハルはこの屋敷の中央部で屋敷全体を覆う結界の保持をしていることだろう。
屋敷全体に敷かれている結界は、灯楼の明かりと屋敷自体にかけられている古い古い術式で出来ていると聞いている。
ハルはその結界を、屋敷だけでなく敷地全体に広げた上で強化しているのだ。
自分の家の灯楼がある場所ならともかく、他家の敷地での結界強化は、相当に神経を使う。
彼が外に出てくることはきっと、難しいだろう。
「あ、見て」
「ん?」
「真っ黒い波みたいなのが見えるわ。夜住になる、黒いモヤよ」
言われて、葵は窓から身を乗り出して市街地を見下ろした。
黒いモヤ、と言われて、一瞬どれがモヤなのかが葵には分からない。
しかししばらく家々の屋根を見つめていると、段々と真っ白い吹雪の中に黒い影が浮かび上がって見えてくる。
黒いモヤは、夜住が出現する前兆だ。
あのモヤの何処かにすでに死んでいる人間が居て、その死体を黒いモヤが食らうことで夜住になっていく。
死体でなくてもいい。
人間の負の感情、呪詛、怨嗟──そういったものを黒いモヤが吸収していき、夜住という形になるのだ。
葵はゴクリと生唾を飲み込んで、腰に下げた角灯に触れた。
今優先すべきことはなんだろうかと、考える。
葵の中だけで言えば、当然直紹の奪還は最優先事項だ。
しかし和穗の言う通りこの黒いモヤがすべて夜住になるのであれば、帝都を空けるわけにはいかない。
ここで自分までここを出てしまえば、和穗が1人であの夜住の対処をすることになるのだ。
それはもう──直紹が無事に戻ってきても、ビンタ一発では済まないだろう。
「アンタは、直紹さんを助けに行くんでしょ? 場所は……」
「……いや、行かない」
「はぁ? え、なんで?」
「……深神霧子の狙いがオロチの復活なのなら……行く先には必ず、あの2人が居るだろ」
あの2人、と言われて、和穗はハッと息を呑んで──笑った。
オロチの寝床。
そこには今、和穗たちが最も信頼を置く者が2人揃って行っているのだ。
もしもそこで霧子と接敵したとしても、もしも直紹がそこに連れて行かれていたとしても。
彼らならば、きっと奪還して、霧子の思惑をへし折ってくれるはず。
言葉には出さない信頼に、葵と和穗の視線が交差する。
本当なら、葵とて今すぐに霧子の後を追いたい。
だが、直紹が戻って来る場所を守るのもまた、大きな役目のひとつだろうと思うのだ。
「もし今夜ここが危ないのなら、俺は動かずに屋敷を守る。それが、一番良い判断だろう、と、思うんだが……」
「もぉ!なんで最後自信なさそうかなっ」
「灯守として、それが正しいのかはわからん。なりふり構わず主を助けに行くのが灯守であるのなら、きっと俺の判断は間違っているんだろう」
葵は、胸元にそっと触れてあの写真に触れた。
守りきれなかった笑顔、失われてしまったその感情を取り戻すのに、自分の判断が合っているのか自信がない。
どれだけ口を達者に動かそうが、今日灯守になったばかりの新参者だ。
その心得も、多彩な術式も、主の感情も、きちんと教わったわけじゃない。
だが、葵の迷いを打ち払ったのはバチンと高い音をさせて背中に叩きつけられた和穗の平手だった。
葵の巨体すら揺るがすその一撃は相当に痛くって、ジンジンとする背中を手の甲で必死にさする。
「直紹さんはお小言魔人だもん。どんな判断しても怒られる時は怒られるって」
「いやまぁそれは……」
「なら、後悔しない選択肢を選んで叱られよ? わたしは、灯守が1人残っててくれる方が心強いっ」
ニッと、女性らしからぬ口の開き方で笑う和穗に、葵はしばしぽかんとしてから口角を上げた。
頭にこびり付いていた、腹を刺された時の熱さだとか、直紹が連れて行かれる時の衝撃だとかが、消えていくような心地になる。
生きていれば、ここが残っていれば、彼のお小言を聞くことが出来る。
そう思うと、それが一つの指針になったような気がして、葵も顔をくしゃりと潰して笑った。
「空が真っ暗になってきたわ。夜住が見えにくくなる」
「おぅ。なら、この角灯の出番だな」
窓枠に足をかけて、主不在の部屋から身を乗り出す。
明け方までが、勝負だ。
生きるか死ぬか。
生かすか殺すか。
2人は、炎が煌々と照る中庭を見下ろしてから、市街地に目を向けた。
まずはここに残って防衛するか、夜住をこちらから討祓するか──
さてどちらがいいか、と考えながら、和穗と葵はほぼ同時に部屋の中に向けて拳を放った。
葵の長い腕から繰り出される術力のこもった拳と、和穗の身の丈ほどの長さのある大太刀が、ほぼ同じ場所に直撃する。
顔面にその一撃を食らったのは、霧子の灯守の女だった。
逃亡のためにこちらを狙ったのか、それとも窓辺に居るならば背中を押せば転げて死ぬとでも思ったのか。
どちらかは分からないが、とにかく勢いよく起き上がって身体ごとぶち当たろうとした女に、2人は容赦しなかった。
殺さなくてもいい人間は、確かに居るだろう。
だがこの女は、別に殺してもいい方の女だ。
「んじゃ、私たちは色々動くんで! 皆さんも他の医療官に合流して下さいね~」
「後は頼みます」
「は、はい……」
もんどりうって倒れる女の顔面を見もせずに、突然起き上がった女の速度に驚いていた医療官2人と、宗一郎の両親に片手を上げる。
和穗と葵は、もう躊躇も後ろを振り返りも、しなかった。




