第八十二話 策略、殺意
ドンッ、と、屋敷全体を揺らすような巨大な音に、葵は顔を上げて窓に走った。
窓から外を見れば、正門に集まっていく屋敷警護の刀持ちたちと、夜住が祓われた黒い煤が舞っていくのが見える。
その煤を、ふわふわと浮いていた火種が吸い込むように食べていった。
おかげで煤は広がらず、火種が少しだけ勢いを強めただけだ。
葵は、眼の前まで飛んできた火種に驚きながらも、慌てて角灯を開いて迎え入れる。
ゆっくりとその中に収まった火種のあたたかさに、葵は胸がグッと押しつぶされるような心地になる。
いくら刀主たちに代理認証を貰っても、己の手の中に入るとは思っていなかった神風の火種。
それが今、眼の前に居る。
葵は、今は亡き先達たちの姿を思いながら、目を閉じた。
《此処に在りしは、風の御子──》
角灯を掲げながら直紹の枕元に座り、もう何度読み返したか分からない神風の祝詞を読み上げる。
ずっと持ち歩いていてくしゃくしゃの紙は、手汗が滲んだせいか文字も読みにくい。
それでも、もう何度も読み込んで、単語はすべて頭の中に入っていた。
《翔ける灯よ……迷いを祓い、道を示し、我が灯を以て穢れを散らせ》
ぼんやりと、火種が明かりを強める。
青白さを通り越して紙のように真っ白になっていた直紹の寝顔をほのかに赤く照らした光は、部屋の中すらもあたためて葵の指先に熱を灯した。
傍に控えていた明神宗一郎の両親が、息を呑んでその神秘的な光景を見つめている。
一般市民である彼らは、術式はまだしも灯守の祝詞を聞いたことは無かったのだろう。
我が子を手放して戦場に送り出すというのは、どういう気持ちなのだろうか。
葵は、かつて自分の家族が灯守として選ばれ、直紹の手を取ったその日を思い返す。
あの時、自分はどんな気持ちだっただろうか。
誇らしかっただろうか、羨ましかっただろうか、妬ましかっただろうか。
もう10年以上前のその日を、葵はすでに思い出すことが出来ないでいる。
「……ぅ」
「!」
「神風様っ」
グッと角灯を握りしめる手に力を込めると、弱々しく直紹の喉が鳴った。
ただ息を吐き出しただけにも思える、力のない声。
だが確かにその喉から吐き出された呼気は声帯を震わせ、ゆっくりと瞼が上がっていった。
宗一郎たちが「日向子が居る間は大丈夫だった」と言っていたのは、本当だったのだ。
その安堵感と同時に、自分が灯守に認められたという感動が胸の中をじわじわと浸食する。
直紹が目覚めたことよりも己が認められたことが嬉しいだなんて、灯守にあるまじきことだ。
だが、天秤に乗せれば並行になるだろうどちらも選べない気持ちの重さに、葵はため息を吐く。
「あ……おい……?」
「おはよう、直紹……目が覚めて、よかった」
「その……らん、たん……」
「……あぁ、すまない」
直紹の目は、開かれた瞬間から状況を把握しようと忙しなく動き、そして葵の持つ角灯で止まった。
火種の入っている、神風の角灯。
角灯の外角には、御神苗と明神、そして神守の家門が不器用に刻まれている。
その意味を瞬時に理解したのか、直紹の顔がぐしゃりと歪んだ。
きっと自分は、彼にとっては残酷なことをしているのだろうとわかる。
わかるが、それでも譲れないものだったのだと、フラフラ伸ばされた手をぎゅうと握った。
途端に、直紹の爪がグッと肌に食い込んで、苦笑する。
今の彼に出来るほんの少しの意趣返し。
肌に痕すら残らないかもしれないソレでも、今の直紹にとっては精一杯の「馬鹿野郎」という叫び。
葵は苦笑して、直紹の手を自分は優しく、握り返す。
「この状況で動かねぇのは、男じゃないだろ」
「……この、ばか……」
「バカでいい。馬も鹿も、好物だ」
「はらを、こわしてしまえ……」
「はは」
身体はまだ熱を持っているし、嘔吐したせいか喉は酷く痛そうで何度も咳き込んでいるのが痛々しい。
だが今、直紹が目を開いていることが嬉しくてたまらない。
葵は、医療官から吸い飲みを受け取ると直紹の背中を支えながらゆっくりと水を飲ませた。
その間に、今の状況を説明する。
明神の番がオロチの下へ向かったこと、御神苗の番がこの屋敷を守っていること。
深神霧子が明日動く可能性があると、帳が言っていたこと。
ごくごくと水を飲んでいた直紹は、何度か飲むのをやめながらも黙って葵の話を聞いていた。
彼の顔に浮かぶ苦渋は、そんな大事な時に動けない我が身を憎んでのことだろう。
自分の家の刀持ちの指揮をとることすらままならない。
そんな身に、ただただ苛立っているのだ。
「お前が死ねば、神風の火種は消える。今のお前は、生きていることが仕事だ」
「……わかっているよ」
「分かっているやつは、そんな顔しねぇだろ」
「うるさいな」
フラフラとしている直紹の頭を支えながら、もう一度布団に寝かせようと上半身と頭を支える。
少しでも反撃したいのか腹のあたりを引っ張る直紹の手に、苦笑がもれる。
しかし、すぐに直紹の身体がビクリと震えて葵の身体を押しのけようと腕に力が入った。
もちろんそんな力では葵をのけることなんかは出来ないが、驚いて少しだけ、身を退く。
「あおいっ……!」
悲鳴は、誰のものだったのか。
葵は、己の腹に感じた熱さと、熱を持っている直紹の手の熱さ──そのどちらの方が熱いだろうかと、一瞬考えてしまった。
だがすぐに腹の熱さは痛みに変わり、宗一郎の父が膝を立てる。
直紹の手が、真っ赤に染まっていた。
「あら、案外早かったわねぇ」
直紹の手が葵から離れていき、彼がどこに隠し持っていたのかもわからない小刀が畳の上を跳ねて落ちた。
咄嗟に傷口を手で抑えながら直紹を見れば、血で染まった己の手を見つめながら身体が震えている。
その背後には──今まで居なかった影が、ある。
馬鹿な、と、唇だけが動いた。
誰も居なかったのだ。
誰も入らせない結界を張ったのだ。
なのに何故、ここにこの女が居るのか。
葵は、痛みに呻きながらも目の前の女を睨み上げた。
「明日頃になるかと思ってたわぁ。思ったより早く、灯守を作ったのね。意外だったわ」
「……っ」
眼の前の女が──深神霧子が、直紹の頬に触れる。
途端、目覚めたばかりの身体がガクリと力を失い、葵の血で真っ赤に染まった手が布団に落ちた。
その身体を、葵ではなく深神霧子が支える。
「まさか……」
「ふふ、新しい灯守を持ったら発動する術式。仕込んでおいて正解だったわね」
「貴、様……!」
「それにしてもまさか、本人の意志を無視して灯守になるなんて……あはは、おっかしい! 自分たちで猶予を短くするなんてっ!」
直紹の腕を掴んで無理に身体を引き上げながら、霧子が高らかに笑う。
葵は己の腹の傷をぎゅうと抑えながら、自分の浅慮に顔を歪めた。
葵は、今すぐにでも、直紹のために灯守になるべきだと考えた。
日向子が居る間は発動していなかった、直紹に仕込まれた術式。
それをまた発動させないためには、誰かしらが彼の灯守になるのが一番だと、そう信じて疑っていなかったのだ。
盲目的だった。
直紹に術式が仕込まれているというその意味を、この女の狡猾さを、もっと深く考えるべきだった。
だが、
「じゃあ、後は頼むわよ」
「お任せ下さい、霧子様」
霧子の背後に渦巻く霧の中から、刀を持った女が出現する。
その首筋にある刻印は、灯守のものだ。
深神霧子の灯守。
葵は、一歩を退いて女と距離を取ると、即座に霧子に向けて術式を放った。
彼女に抱えられた主を、幼馴染みを、番を、何としても取り返さねばならないと、幼い頃から指導されてきた風の刃を放ったのだ。
しかしその風は、真っ白い霧を裂いて終わった。
霧子の姿はもうそこにはなく、霧子の灯守だけがこの場に残る。
直紹の姿も、もう無かった。
「霧子様の邪魔はさせません」
「退け! 女っ!!」
立ち上がった葵の腹からは、すでに血は溢れなかった。
刺された。そう理解した瞬間に流れ込んできた僅かな熱が、ほんの少しの時間差をつけて傷を塞いだのだ。
間違いなく、直紹の治癒の術式だ。
彼は、理解していた。
己が葵を刺したことを。
己の身体が、何者かに好きにされていることを。
だから、即座の判断で治癒の術式を流し込んだ。
おそらく、自分の手についた葵の血を媒体にして、咄嗟に。
「退けと言っている!!!」
葵の拳が、女の腹に食い込む。
驚愕に目を見開いた霧子の灯守は、部屋の反対側まで飛ばされて血を吐いた。
だがまだ、死んでいない。
葵は、ジリジリと熱を持つ首筋の刻印に手を当てながら、初めての殺意を女に向けていた。
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