第八十話 天の灯、救いの緋
「よし、やるかっ」
パンっと両手で頬を叩きながら、御神苗和穗は神風屋敷の中をパタパタと走った。
御神苗の屋敷でこんな風に走っていたら、すぐに叱咤が飛んできそうな速度。
だが今は、誰もがこのくらいの速度で走っているから、気にする者なんかはそう居やしない。
『頼んだ』
兄と呼び慕う人が自分に任せてくれたこの役目を、和穗はなんとしてもすべて、完璧にこなすつもりでいた。
日はまだあるが、これからどんどんと寒くなる。
ハルが神風屋敷の結界の根本に行ってくれているから結界は大丈夫だとしても、寒さは結界を貫通してくるものだ。
直紹の所には、葵が居る。
その周囲には、たくさんの刀持ちが侍っている。
なら自分が行くべき場所はここだと、和穗は神風屋敷の中で最も高い場所──灯楼へと向かっていた。
灯楼は、どの屋敷でも一番高く造られるのですぐに分かる。
問題は入れてくれるかどうかだが、それは大丈夫だという妙な確信が、和穗にはあった。
何しろ今の自分の肩には、たくさんの刀主たちの希望が乗っている。
これで入れてくれない灯楼は、それこそ深神に浸食されている灯楼なんじゃなかろうか、と。
正直に言えば、和穗は深神霧子が裏切り者であると聞いた時「そんなわけないじゃん」と思っていた。
霧子は和穗にとっては大好きなお姉さんで、実の母よりも近い大人の女性だった。
和穗に稽古をつけてくれて、力をつけるにはどうすればいいかという相談にものってくれて。
和穗がまだ幼い頃から刀主会議の場に連れて行ってくれたおかげで、今だって和穗は刀主として動くことが出来ている。
そんな人が裏切り者だと聞いてすぐに受け入れられる程、和穗は情の薄い者ではなかった。
ただ、その情を向ける先が霧子よりも宗一郎の方に傾いていただけのこと。
和穗は、燈老の前に立ってグッと生唾を飲み込んだ。
『信じたくないことを信じなければいけない時には、取捨選択から始めるものだよ』
和穗にそう教えたのは、帳だった。
和穗の母があまりにも「女とは」とか、「女らしくない」と言うから落ち込んで、自分がどうすべきか分からなくなった時。
あの美しい人に相談をして、話を聞いて。
そうして和穗は、取捨選択をしたのだ。
この刀を、決して手放さない、と。
何があっても己が師と仰ぐ帳と、想い慕う宗一郎の言うことだけは信じる、と。
和穗の母は和穗に「女の子はお淑やかに」だとか「女が刀を持つだなんて」だとか、そんなことばかりを言う人だった。
和穗が野袴を履いて帳に稽古をつけてもらいに通い始めた時、母は悲鳴をあげたものだった。
良家の子女がそんな格好をしないで、と。
ブーツを履くことも、馬に乗ることすらも嫌った母は、最終的に和穗ではなく姉と妹にかかりっきりになった。
和穗の姉は美しく、背は高いが病弱で、いつも部屋で本ばかりを読んでいる。
反対に活発な妹は、髪が美しく淡い着物がよく映えて、母の理想の「深窓の令嬢」だった。
だが2人とも、和穗が刀を持つことや明神家に出入りすることを止めやしなかった。
妹は最初こそ「はしたない」と言っていたが、和穗が本気で刀と向き合っているのを知ると、「母様を見返してやって」と笑った。
きっとこの三姉妹の性格は、父に似たのだろうと和穗は思っている。
帳も、「お父さん似だねぇ」なんて言っていたから、間違いない。
その父も、ハイカラな人だ。
外国人のハルの母親を使用人として、お腹にいたハルごと受け入れた。
きっと外国の血を引く灯守なんてハルが最初だろうと笑ったのも、父だった。
勿論母は嫌がっていたし、伝統がどうのなんて言っていたけれど、父は関係ない顔をしていて。
そんな両親が今生きているのかどうか、和穗は知らない。
姉妹も、ハルの母親のことも、分からない。
薄情かもしれないが、和穗は家が焼けたと聞いた時真っ先にハルの母のことを考えた。
自分の母よりもよっぽど、日本人ですらないあの人の方が和穗に寄り添ってくれたからだ。
「お願い……火種の所に、行かせてっ」
真っ白な、入口の切れ目すらも分からない灯楼。
煤を焚べる白服たちが入れる、煤入れ口のある場所までは誰だって入れる。
だがその先──火種そのものに近付くための両開きの扉を開くのは、こんなにも難しい。
煌々と空を照らす大きな火種が屋敷を照らし、今はそれが唯一の導となっていた。
生きているならばこの灯を見よ。
死しているならこの灯で消えよ。
まるで両腕を広げるように帝都を照らす火種に、和穗は祈った。
「帝都が寒いの! 直紹さんも、凍っちゃいそう! お願い、もっと火をわけて!」
直紹がいれば、彼の灯守が居れば、この壁はあっさりと口を開くことだろう。
だが今は、どちらもここには居ない。
直紹は今、必死に己の身の内に巣食う毒と戦っているし、灯守となったばかりの葵はまだ、ここを開けない。
日向子ちゃん
日向子ちゃん
和穗は、目尻からぽろりと落ちる涙を拭わなかった。
外から入り込む強い風が、和穗の馬の尾のように長い髪を巻き上げていく。
長い髪が女っぽくて嫌いだった和穗が、この長い髪を受け入れているのはまさに、馬のようだからだ。
力強く、気高く、賢く、忠実な美しき獣。
馬のように大事な人達を守れる力を持てたならと、何度思っただろう。
「お願い! 灯をわけて! アイツに、負けたくないの!!」
日向子ちゃん
日向子ちゃん
今はもう居ない、この扉を開くことの出来た少女を思う。
年が近くて、妹みたいに可愛かった女の子。
なんで霧子は彼女を殺したのだろう。
なんで、この帝都を凍らせようとしているのだろう。
わからない。
わかろうと、思わない。
和穗が分かるのは、今ここに日向子が居れば、彼女は絶対にここを開いてくれるということだけ。
「ひなちゃん……っ!」
刀主も、灯守も、どちらの立場でも恋なんてものは遠い世界の甘い蜜だ。
愛する人が居ても、家の力でねじ伏せられるかもしれない。
好きな人が居ても、女らしくないと嫌われるかもしれない。
恋をしたって、自分が死ねば相手には通じさえもしない。
でも1度だけ、日向子と和穗は自分たちの恋心を「内緒ね」と言って語ったことがあった。
立派な刀主として立っている人。
刀を真っ直ぐに見つめて、研鑽を積んでいる人。
その背中を追って支えられたらと、語り合った夜があった。
日向子はもう居ない。
彼女は、愛する人を守って、果てた。
なら自分も、この手が焼け焦げても戦って死のう。
そう決めて、誓って、約束して。
和穗は今、ここに居る。
「開けなさい!! わたしは、御神苗の刀主よ!!」
バグン、と音を立てて扉が開いた瞬間、和穗は驚きと共に泣きたいような気持ちになって歯を食いしばった。
彼女はもうここに居ない。
でも、彼女が居た記憶はまだ、ここにある。
奥に向けて開いた扉に転げてしまいそうになりながら、和穗は鼻をすすった。
ここからは、天をつく螺旋階段だ。
その天辺に、火種がある。
オロチの世──まだこの地上に神々が居た頃に灯ったとも言われる、神風の火種が、待っているのだ。
「待ってて……わたしも、戦うから」
階段を一段、また一段と飛び越えて、和穗は上へ上へと走り出した。
もう夜がやってくる。
それまでに神風屋敷の周囲だけでも火種を増やして、人々が少しでもあたたまれる環境を作るのだ。
そして、出来れば、直紹にも火種を持って行く。
今は空の角灯しか持っていない葵に、火種を渡すのだ。
和穗は、自分にできることを数えながら、大太刀の尾で階段を叩きながら天へ向けて走った。
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