第六十二話 神風の灯守
「直紹、大丈夫?」
大旦那様、と呼ばれる程の男を蹴落としても、先生はさして意識も向けずに神風さんの近くに寄る。
すでに神風さんは、周囲に居た看護師の女性たちに顔に氷を当てられたり、血の始末をされてはいる、けど。
彼は俯いたまま、時折殴られた所に触れるだけだ。
その様子に、先生がぎゅうと拳を握りしめる。
俺の近くに居た火種は、くるくると俺の顔の周囲を光の緒をひきながら動いてから、神風さんの近くに寄った。
火種が、他家の刀主を案じるように動くなんて、初めて見た。
普段は角灯の中でゆらめいているだけだからかもしれないが、神守の屋敷に行ってからこの火種はますます意思を持っているように勝手に動く。
俺がその様子に困惑していると、神風さんは僅かに手を動かして、ほんの少しだけ、火種に触れた。
あの火種は、なんというか、変な奴だ。
俺は火種というものはアイツしか知らないけれど、ただの炎の欠片ではなく、生き物のように感じる瞬間がある。
今も、あの火種は間違いなく、神風さんを慰めようとしていた。
心をボロボロにされた魂を慈しむように、傷ついた彼の顔を優しく撫でているような。
そんな、光景だった。
「みんなここに居たのか。なんか外凄いことになってるけど……いいのか、アレ」
「おはよーハルくん。いいのよ、アレは」
恐る恐るに戸を開いて、ハルと葵が治療室に顔を出した。
途端に外から聞こえてくる悲鳴は、あの伯父のものだろう。
神風の刀持ちたちは、厳格だ。
殺しはしないだろうが、主を傷つけたものをそう簡単に逃しはしないだろう。
その光景を見てしまったのだろうハルと葵は、和穗がキッパリと切り捨てても困惑顔だ。
しかし、中に足を踏み入れて神風さんを見た瞬間に、一瞬呼吸を止める。
彼らの表情には、即座に「理解」の色が滲んだ。
「直紹、様……」
ハルの横をすり抜けて、葵が神風さんの前に膝をつく。
神風家では珍しく洋服をまとった葵のズボンは、随分と質が良さそうなものに見える。
それでも、己の膝が血で汚れても、出来るだけ神風さんの近くに──主を隠すように、葵は外に背を向けていた。
その背には、怒りが滲んでいるのが、わかる。
さっきの先生と同じ、大事なものを害された者が発する殺意にも似た怒りだ。
だが今、あの体躯の男が神風さんの伯父を殴ろうものなら本当に死んでしまうかもしれないと思って、俺はそっと外への戸を閉じた。
あの伯父の身を案じたわけじゃない。
これ以上神風さんに近しい人間が死ねば、神風さんがまた何か言われるのじゃないかと思ったからだ。
高そうな背広に、汚れ一つなく乱れてもいない髪。
あの男は昨日の戦いにも参加しないで、奥部屋に居たのだろうと想像するのは簡単だ。
だから余計に、腹が立つのだ。
「ねぇ、この部屋の人たちって今すぐに治療は必要? 今すぐ死んじゃいそうって人居たら僕が治すよ」
「い、いえ。もう大丈夫です」
「昨夜から、直紹様がつきっきりで居て下さいましたので……」
「ご自身もお辛いのに、ずっと」
「我々が怪我などしなければ……」
先生の声に、即座に看護師と怪我人たちから声が上がる。
それは今まで心に抱いていた罪悪感を吐き出すような、苦しみの交じる声だ。
彼らは神風家を守るために戦って、傷を負った。
神風さんも、それが分かっていたから夜を徹して彼らを治療し続けたはず。
だがその彼らの声も、今の神風さんには届いていない。
葵に支えられて奥の部屋に消えた神風さんを、看護師たちが追おうとして、やめる。
ここには、先生が聞いた通りに今すぐ死ぬような者は居ないかもしれない。
でも、彼女たちが手助けすべき怪我人は、たくさん居るのだ。
「あぁ……そうか、あの時の数」
そしてふと、俺は思い出した。
俺が源一郎様から試練を与えられた日。
神風さんと日向子が俺に持ってきた「今すぐ動かせる神風の刀持ち」の数は、全体の三割にも満たなかった。
やっとわかった。
あの数は、「神風家」という家の中で抑圧され続けていた神風さんが動かせる精一杯の数だったのだ、と。
あぁもう、嫌になるな。
気付きたくなかった現実に気が付いて、溜め息を何個分も固めた息を吐き出してしまう。
もしかしたら神風家には、アイツ以外にもあぁいうタイプのジジィが結構居るのだろうか。
他の家のことなんか知らなかったことを、嫌でも思い知らされる。
「……先生。この日記、神風さんと読んで大丈夫かな」
「うーん。まぁお母さんのだしね……本人も読む権利はあるけど……」
「え、それ神風さんのお母さんの日記なの? 大丈夫?」
流石に、和穗も心配そうに顔を歪める。
もしもこれで日記にさらに神風さんの心に傷を与える内容が書かれていたらと思うと、踏み切れない。
先生も眉間をグイグイと揉んでから、長い長い息を吐いた。
状況をいまいち理解していない和穗とハルも、先生の様子を見て心配そうな表情になる。
「しゃーない。葵にだけちょっと言って、隣の部屋で読もう」
「葵って、さっきのデカい奴すよね。なんでアイツに?」
葵、と聞いて、俺達は揃って首を傾げた。
先生は俺達の状況を見守っていた刀持ちの一人に葵への伝言を頼むと、すぐ隣の部屋の襖をあけて移動してから、奥の部屋へさらに移動する。
中庭に面している廊下を使わないのは、まだ外が騒がしいからだろう。
目の見えない先生には、外の音は余計にうるさく感じるのかもしれない。
奥の間は、直接は繋がってないがさっき神風さんたちが消えた部屋のすぐ隣の部屋だ。
怪我人の居る治療室から一歩出れば、襖で仕切られただけの部屋は酷く寒く、体温を奪う。
隣の部屋にも人は居るはずなのに、何の気配も伝わってこないことに少しばかり不安になる。
ハルがすぐに角灯の火種を強く燃やして部屋をあたため始めたが、そこそこの広さがある部屋はすぐにはあたたまってはくれなかった。
「和穗ちゃんとハルくんには、神守であったことは話せてないんだよね。うーん、どこから話そっか?」
「どこから……ですかねぇ」
部屋の隅に重ねられている座布団を勝手に借りて、四人で身を寄せ合って火種の熱をわけてもらう。
そういえば、明神の火種はどこに行ったんだ、アイツは。
「とりあえず、深神が敵になったのは理解してるよね?」
「うん」
「はい」
「でね、霧子は直紹くんが欲しいみたいなんだよね」
「……恋的な意味で?」
一気に真剣な表情になった和穗に、俺と先生は思わず笑ってしまった。
その発想はなかった。
そう言って笑うと、和穗も「だよねぇ」と少しホッとした顔になる。
「人の恋路邪魔すんのは嫌だもん~」
「そういう問題か?」
「他に軽いところから話すと……うーん、そうだねぇ」
先生が腕を組んで天井を見上げる。
俺は、あえて口を挟まなかった。
どこまで先生の身体や過去のことを話していいのかも分からない、からだ。
下手なことを言って先生に嫌がられたくない、というのもある。
でも、あそこであったことは。
きっと俺にとってもとても繊細で、とても重いことばかりだったんだ。
「あぁ、そうだ。聞きたがってたよね。日向子ちゃんは死んだよ……僕たちを守ってね」
だが、先生が出来るだけ平静を保って放った言葉には、流石に拳を握ってしまう。
和穗は黙ってその言葉を受け止めていたが、ほんの数瞬のあとに唇を噛み締めた。
ハルは先生の言葉に困惑した顔をしたが、やはり何も言わなかった。
もっと聞きたいことはあるだろう。
俺だって、あの瞬間のことを──日向子がこの日記を託してくれたことを、ちゃんと話したい。
「んで、さっきの葵は日向子ちゃんの前の、直紹の灯守の実の弟。本来なら、直紹は今めちゃくちゃ葵と顔を合わせんの気まずいんじゃないかな」
「うぇ」
「げっ」
「それもっと早く言ってくれませんか!」
そう思っていたのに、先生がまた放り投げてきた爆弾に、思わず立ち上がってしまう。
流石に「話す順番おかしいでしょ!」と叫んだ俺の声は、隣の部屋には聞こえていたかもしれなかった。
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