第五十六話 無題
喉に、徐々に切っ先が食い込んでくるのが分かる。
皮膚が沈み、切れ味のいい刃物が皮膚を潰して血があふれる、感覚。
何故か横薙ぎに斬られた肩よりも喉の方が痛みが強くて、圧迫されたせいか呼吸が苦しい。
少しでも動けば、殺される。
それは分かる。
が、同時に頭はぐるぐると回転して、この場でこの女の好きにさせない方法を必死で考えていた。
日向子は棚に突っ込んで動かない。
先生は床に伏して、床に爪を立てている。
神風さんは──弓を落として、恐らく今自分が動くべきかどうかを思案しているように見えた。
どういう意図で霧子が神風さんを欲しがっているのか、わからない。
だが、最期の瞬間に霧子の陰謀を阻止した彼の母の姿を、俺は視た。
きっと神風という存在は霧子にとっては大きな穴になる存在なのだろうと、なんとなくは分かってる。
だからきっと、ここで彼を連れて行かせてはいけない。
問題はどうやって、今を切り抜けるか──
徐々に刃が喉に食い込んでくる苦しさに思わず呻くと、視界の端で先生がゆっくりと頭を上げるのが見えた。
こっちを見て……笑ってる?
「術式で俺に勝てると思ってんのか? 舐めんなよ、クソガキ」
「──!!」
上半身を持ち上げた先生の足元に、何かの文字が浮いている。
そう認識した瞬間、俺は強い風に背中を押されてよろめいた。
刃が。
一瞬だけそう思ったが、俺がよろめくよりも前に沙弥が刃を引いて後方に跳んでいる。
喉を切り裂かれた感触はあったが、傷が開いたと思ったのと同時に、傷は塞がっていた。
思わず動く手で喉元に手を当てると、ぼんやりとそこだけ光っている。
先生の治癒の術式。
ハッとして俺も後方に退き、沙弥と距離を取る。
彼女が薙刀で切り裂いているのは、六本腕の大蛇だった。
大きさこそ俺達が戦った時の半分もないけれど、右側の腕で体重を支えながら、左側の三本で沙弥に攻撃を繰り出している。
ゴォンッ
床を割り土煙を散らす凄まじい音に、一瞬耳の奥がキィンと鳴った。
「先生!?」
「ソウちゃんは直紹と日向子ちゃんを!」
急げ、と叫ばれて、先生の言葉に馴染みのない強さが滲んでいるのに気付く。
まるで20年前の先生のような、少しだけ乱暴な声。
ただそれだけなのに背筋がゾワッとして、俺は先生に言われた通りに神風さんに駆け寄った。
鎖骨ごと斬られたのか、左腕は上手く動かず、右手には刀を下げたままだ。
今にも倒れそうな彼の背を膝で支えてやることしか、今は出来ない。
神風さんの顔は真っ青で、多分さっきの幻惑の時にぶつけたのだろう傷が頭部に残っている。
幻惑なのに、傷が出来るとは。
なんだか、心理用語だか医学用語だかで脳を勘違いさせて傷を作らせるとか、そういう実験の話を聞いたことがあるが、こうして自分で実感すると酷く恐ろしく感じる。
怪我をした、と勘違いするだけで、傷が出来る。
つまりは、死んだと思い込めば、死ぬんだ。
それが出来る術式を、深神は持っている。
その攻撃なら、直接斬り合わなくても、先生を殺せてしまうんだ。
「み、明神、さま……」
「日向子! 無事かっ」
「はい……!」
自分の上に降り落ちていた棚の残骸や物資を放り散らしながら、日向子が力強く起き上がる。
しかし、彼女の口元を汚す血の痕跡が受けた衝撃を物語っていた。
彼女を包んでいる治癒の光は、神風さんのものだろう。
先生といい神風さんといい、反射で自分以外の人間に治癒を飛ばせるのは流石だ。
だがそれが今、彼の体力を削っているのは、間違いない。
ゴゴンッ
何かが壁に激突する大きな音に、思わず身構える。
大蛇が沙弥に放った拳が回避され、床に埋め込まれたのだ。
その拳は、もうふたつしかない。
この短時間で一本吹っ飛ばしたのかと思うと、焦りで額に汗が滲んだ。
「明神様、直紹様を、お願いできますか」
「あぁ、それは……だが、日向子、お前」
「へへ……わたし、探し物って得意なんですよ」
これは、明神様にあげます。
そう言って一冊の本と腰に下げていた角灯を俺の膝に置いて、日向子はにっこりと笑った。
神風さんの背中を支える膝に、日向子がそっと手を乗せる。
その手は小さくて、少し震えていて……いつもの日向子だって、思った。
一生懸命に何かを書き付けて、必死に覚えようとしていた日向子。
すぐに立ち上がったそんな彼女の目は何かを決めた目をしていて、乱れた神風さんの髪を整えた手は、優しくて。
そんなにも優しくて、いつも通りだったから。
緩んでいた拳鍔の固定を縛り直す手に、何かを持っていることにも。
大きな術力を感じるそれが何なのかも、俺には分からなかった。
「帳さんっ、すみませんっ!」
「えっ」
日向子の動きには、揺らぎはなかった。
さらに2匹の大蛇を召喚して立ち上がっていた先生に背中からしがみついたかと思うと、身体を捻りながらこちらに放って来たのだ。
自分よりも小さな女の子に放り投げられたことを理解出来なかったのか、沙弥を睨みつけていた先生の顔が驚きに染まる。
俺と神風さんもぎょっとして、揃って手を差し出して先生を受け止める以外の行動をとれなかった。
だから、先生の胸元に強力な転移の術式の仕込まれた術具が突っ込まれていた事にだって、気付いたのは数回の瞬きの後。
「この……小娘っ!」
「駄目です!」
俺たちが先生を受け止めた瞬間に発動した術式に気付いた沙弥が、大蛇の間を縫って此方に駆けてくる。
間に立ちはだかったのは、日向子だ。
沙弥の薙刀を拳鍔で受け止めて、がら空きになっている腹部に拳を叩き込む。
だがそれは咄嗟に薙刀を離していた沙弥の片手で防御され、生々しい音をたてる。
嘘だろ。
立ち上がろうとした先生の身体が、手の先からバラッと解けていく。
転移術が稼働しているんだ。
このままでは、日向子だけがここに残されてしまう。
だが、折ったままの膝を、立てる事が出来ない。
このまま神風さんと先生だけを転移させて俺がここに残れば、消耗している二人をどこにともわからない場所に放り出す事になる。
一瞬でも先生から離れて術式の範囲から離れれば、それまでだ。
日向子か、先生と神風さんか。
それを、選ばないと──
「明神様! 直紹様をお願いします!」
俺の迷いを吹っ切ったのは、日向子の声だった。
沙弥の攻撃を弾いて、先生が召喚した大蛇に背を任せながらいつもの笑顔を、こちらに向ける。
わかってる。
迷うところじゃないくらい。
自分の番と、神風の当主──その二人と、日向子を天秤にかけてどちらを選ぶかなんて、そんなのは。
先生もそれが分かっているのか、己の胸元の術具を握りしめながらも術式を止めるでもなくただただ、歯を噛み締めていた。
「直紹様!!」
今俺たちがするべき事は、ここを離脱する事──
「日向子は自信を持って、灯守として戦います!」
──神風さんの番を、犠牲にしてでも。
「あなたの! 灯守だからっ!!」
日向子。神風さんがやっと絞り出した声が、転移の術にほどかれて消えていく。
彼女の声は俺達に確かに聞こえていたのか、それとも幻聴だったのか──白く染まった光の向こうでは、わずかに動いた彼女の口元しか、わからない。
日向子、日向子。
何度も何度も、神風さんが日向子を呼ぶ。
差し出した手はもう消えていて、声が解けて、身体がどこかへと引っ張られていく。
日向子、日向子、日向子。
それでも精一杯の声で吐き出された名前は、無情にもさっきまでは見えていなかった、悲しいくらいに綺麗な星空に溶けて。
先生が地面に己の角灯を叩き付けた音が、高く遠くまで、響いた。
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