第五十一話 信用、信頼、真実
先生の表情は、基本的には動かない。
あんまり馴染みのない人は「いつもニコニコしてるね」だとか「朗らかな人ね」なんて言う。
けれどその笑顔こそが先生の仮面なのだと、それを知っている人はどれだけ居るだろう。
俺は、珍しくぽかんとした顔をしている先生を眺めながら、なんだか得をしたような心地になっていた。
こんな表情をする先生は、本当に珍しい。
いつだって頭を動かして、冷静に、時にやかましく俺に指導をしてくれる人だ。
そんな人が、こんな鳩が豆鉄砲を食らったような顔をするだなんて。
俺は首を傾げて、先生を見る。
「そんな変なこと言いました?」
「あー……いや、ソウくんが思ったよりやる気でびっくりしただけ」
「やる気、とは」
「だって、僕の言うこと少しも疑ってないじゃない、君」
ようやく、先生の表情が溶けた。
今までの表情が氷漬けにされた表情であるなら、これは氷漬けに日光を当てたような表情だ。
そんな顔をしているのに、先生の言葉にはまだ剣呑さが残っている。
もしかして先生は、俺が先生の言葉を疑うとでも思っていたのだろうか。
「ねぇ、ソウちゃん。なんで君は僕が霧子を陥れようとしていると、疑わないの」
先生が長い睫毛を震わせて目を閉じ、またゆっくりと開く。
頬にわずかな影を落とす眼はもう何も映していないのだろうけれど、それでも、怯えのようなものを揺らめかせていた。
俺としては「なんで」と言われても、という気持ちだ。
最初から先生が嘘を言うなんて、思ってもいなかった。
先生が俺や神風さんを殺そうとしているとも、考えてもいなかったんだ。
「僕は今ここで、君たち全員を殺せるんだよ」
「そうですね」
「神守の封庫だって変なトコでしょ。君たちを閉じ込めて、あの大蛇みたいなのをけしかけてくるかも」
「でも、しなかったでしょ」
「君たちを騙そうとしているだけだったり」
「本当に騙そうとしてる人は、そんなこと言わないよ」
「僕は本当はオロチの仲間で、バケモノなのかもしれない」
「そんな人が、仲間の弱点を明かしたりしません」
「でも、」
「帳さん」
なんでそんなに必死なんですか。
そう言いたくなるくらいに、先生は両手でぎゅうと己の白絹の羽織を握りしめながら、話すのを止めない。
その言葉の全部は、自分で自分を貶めるものばかりだ。
もしかしたら過去に言われたことがあるのかもしれない、ボロボロの声。
何度も先生を傷つけてきたのかもしれない、触れ続ければ指が落ちてしまいそうな、氷漬けの言葉だ。
否定して欲しい。
先生の言葉の裏の感情が、水面下で誰かが表面の氷を破ってくれるのを待っているような。
苦しみと痛みを吐き出している。そんな姿だ。
「もし先生がそんな事をしてても、俺はそれには理由があるんだろうなって思うよ」
「……なんで」
「俺はちゃんと、知ってるから」
俺だけじゃない、神風さんも、日向子も──今はここに居ない和穗もハルも、源一郎様だって、ちゃんと先生のことをわかってる。
特に源一郎様は、俺にこの試練を与えた時に先生にも何かを言ったんだろうと思う。
あの時先生が一人、源一郎様の所に残ったのは、きっとそういうことだったんだ。
あの時は状況の把握に一生懸命で、ただただ先生と源一郎様のことで苛立ってばかりだった。
けど、今なら。
事情を知った今なら、先生の言葉をちゃんと、否定してあげられる。
「先生は絶対俺たちに嘘を言わないって、俺は知ってる。化け物になるわけがないのも、わかってる」
「なんで言い切れるの……」
「本物の化け物なら、人間を育てることは出来ないよ」
これは、先生に育てられた俺だから、言える言葉だ。
明神に連れてこられた時、俺はまだ10にも満たない子どもだった。
突然両親と引き離されて夜に愚図る俺を抱き締めてなだめたのも、勉強を教えてくれたのも──ご当主様には内緒だよ、と、手を繋いで時折こっそり両親の所に連れ出してくれたのも、先生だ。
今では先生は灯楼で、俺は屋敷で眠っているけれど、時々先生の子守唄が聞きたくなることは、未だにある。
真っ直ぐに、優しく育ったねぇ、と。
大きくなったねぇ、と、俺の幼い頃を知っている人は俺を褒めてくれる。
でもそう育ててくれたのは、この人だ。
「アンタは嘘を言ってない。世界中が嘘だと断じても、俺だけはそう信じ続けるよ」
己の羽織を握りしめていた先生の手をすくい上げれば、冷えて震えている指がほろりと、ほどけた。
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