第三十二話 空白の地図、空位の座
「先生」
中腰になって、畳を擦るように先生に近付く。
俺の声に気付いた帳先生は顔を上げたが、やっぱり少しだけ視線が合わなかった。
こちらを見ていないのではなくて、目で俺をとらえられていないような、そんな視線の上げ方だ。
先生は、俺が隣に座ってようやく俺を見上げる。
不思議そうな顔をしているが、触れそうなほど近くに居る先生の肩は、いつもよりひやりとしているような気がした。
いつもなら、いつもならと、昨日の夜からの先生の変化をつい、意識で追ってしまう。
ゆっくりと、決して急がずに視界に入るように手を上げて、先生のうなじに触れる。
刻印に指先が当たった時にピクリと反応した先生は、少し難しい顔をしてから俺を見た。
今度はちゃんと、視線で俺の顔を見ている。
「なぁに、どうしたの」
「饅頭でも食べましたか。口元が汚れてます」
「うっそ。気付かなかった」
「急いで口に詰め込みすぎたのでは?」
「美味しかったよ」
「いや、そうじゃなくて」
そのまま、刻印から指を滑らせて唇から少し離れた、頬に近い位置にくっついている茶色い饅頭の皮をとってやる。
濃い茶色の薄皮は、先生の真っ白な肌の上ではやけに目立っていて。
甘い物好きな先生が饅頭を食べるのには違和感を持たないが、頬についていたカスに気付かないのはやはり、違和感だった。
けれど、隣に座っていつものように刻印に触れていると、段々と先生の身体から力が抜けていくのが分かる。
今度こそ身体を支えていられなくなったのか背中を壁に預けて、けれど足はスルスルとたたまれた。
俺は、冷たい壁に預けられた背中を己の方に引き寄せて、支えてやる。
やはり疲れが出ていたんじゃないか。
さっきまでのは、強がりだったのだろう。
「……帳さん、やはり今日は休んだ方がいいのでは」
「だめー。早めに行かないと、これ以上後手には回れない」
「なんの話です」
「これから行く先の話~」
「先生めっちゃ疲れてんじゃないの?」
「んー、なんか、ソウちゃんが来たら元気出てきたかも」
ぽかぽかだよねー、なんて言いながら身体を預けてくる先生に、また違和感を覚える。
そうだ、ソウちゃん。
俺が二十歳を越えた頃からは「ソウくん」と呼んでいたのに、さっきから先生は俺のことを「ソウちゃん」と呼んでいる。
子供の頃の、呼び方。
気まぐれな先生なら好き勝手呼んでいても不思議ではないのに、何故かそこがひっかかる。
「ど、どこに行かれるおつもりですかっ。わ、わたしも行くん、ですよね?」
「そうだよ~。日向子ちゃんも行くの」
ふら、と、先生が指先を日向子に向けた。
空中でふわふわ動く指先は、やがて胸元にしまわれていた紙に触れ、広げられる。
何かと思えば、地図だ。
この間見たのと同じような、等高線も描かれている、帝都の地図。
先生はふわりとその紙をちょうど全員の中央に流れるように落とすと、頭を俺の肩に乗せる。
「行くのは、その地図のなかの、四家の領地じゃない隙間だよ」
「隙間、って……」
「ご、五家目の領地だったっていう、噂の……!」
ハルと日向子がググッと地図に近付き、神風さんは居住まいを正した。
先生は俺の肩にグリグリと頭を押し付けながら、
「そーだよ。僕の実家っ」
そう言って、その言葉に固まる俺たちをくすくすと笑った。




