第三十話 神守と帳
「お疲れではないですか」
ぼんやりと外を眺めていた帳は、ふと声をかけられて視線を室内に戻した。
鼻をくすぐるのは、質のいい抹茶だろうか。
あたたかな湯気を感じるそれは、帳のすぐ近くに置かれたようだった。
「直紹くんこそ、疲れてるんじゃない?」
「もう、慣れております」
「そっかぁ」
最近は働き詰めだろうねぇ。
いつもより少しばかりのったりとそう言って、帳は自分の近くに置かれた茶碗にそっと触れた。
これもまた高そうな、手触りの良い茶碗だ。
指先にサリサリとかかる感触は、神風家らしい目利きを感じさせる。
一口いただけば、冷えていた身体に仄かな甘味のある抹茶がスッと滑って落ちていった。
いい香りだ。
帳はほぅ、と吐息を吐き出して、喉から胃に落ちていく熱をさする。
そういえば、昨夜この屋敷に来てからろくなものを口に入れていなかった。
ぬるくなってしまった緑茶や、口に押し込んだだけの羊羹。
どちらも、最低限身体を動かそうとするためだけに詰め込んだものだ。
それは、直紹も同じだろう。
ずっと和穗に巻き付けた呪符に術力を流し続けていた彼なんかは、水を飲む暇もなかったかもしれない。
抹茶を元の位置に戻せば、指先にほんのり冷たい丸いものが触れた。
ツンツンとつつけば、それがまんじゅうであることがわかって無言で手に取る。
包装もなにもついていないのは、このまんじゅうが神風家で作られたものである証左だ。
「神守さん」
パクリと、まんじゅうを一口いただくと、ふわっとした黒糖の香りと上質な小豆の甘さに舌鼓をうった。
直紹の声には、チラリと視線だけを向ける。
帳の視線の先には、正座をしてこちらを見ている直紹の術力が、ふわふわと宙に浮いていた。
「明神を、領地へ連れてゆくおつもりですか」
「うん」
「……大丈夫ですか」
「出来れば君と日向子ちゃんにも来てもらいたいところではあるかな」
指先に少しだけついたあんこを舐めて、つまめるほどの大きさになったまんじゅうを口に押し込む。
やはり黒糖は好きだ、なんて帳は思う。
濃い茶色の皮に、紫がかった黒のあんこなんて、僕とは真逆の色じゃあないか、とも。
直紹は少しばかり居住まいを正して「わかりました」と躊躇もなく頷く。
「ごめんね。君は戦うのが得意じゃないのにね」
「……神守の領地には、大事なものを隠しておいでなのでしょう?」
「うん。僕もまだ見えるうちに、取りに行かないと」
でも、踏ん切りがつかなかったんだぁ。
膝を抱えながら言えば、膝の上に置かれていた直紹のてのひらがグッと握り込まれたのがわかった。
視界には入らない、意識の外で感じ取れる動作。
──帳にはもうほとんど、視界がない。
宗一郎はまだ気付いていないだろうが、真っ白な目が何かを映しているなんてことは、そうありはしないのだ。
まだ帳が刀を持って夜を駆けていた時、この目は色を失った。
元々赤にも染まらなかった瞳だ、惜しくもない。
だが、色を失った日に見つけた少年が段々と成長していく姿を見守れなかったのは、今でも少しだけ悔しかった。
「段々と、目が冷えてるのが分かる。アイツが起きようとしているんだね」
「帳さん」
「大丈夫。すぐには脳までは凍らないよ。そのためにずっと灯楼に住んでるんだし──でも、明神のお館様には気付かれてたんだなぁ」
「だからこそ、あんな試練を明神に与えたのでしょう」
「うん、わかってる」
本当は、隠しておけるなら隠しておきたかった。
色を食われた眼球から徐々に身体が凍りついていくにしても、その前に死ねば宗一郎にはバレやしないと思っていたのだ。
だが帳は案外しぶとくて、生き残ってしまっていて──宗一郎も、どんどん強くなった。
「でも多分、この試練はそれだけじゃなくなってきてる」
宗一郎が明神の当主になるための試練。
しかしこれは、この帝都に住む四家が探し求めている謎の答えを究明するのと同じ意味を持っていた。
寒冷の原因を究明し、夜住の大量発生の謎を追うこと。
言葉で言えば簡単だが、この地に住む刀持ちたちが、その謎を追うためだけに何人死んでいったことか。
「敵が大蛇だけなら、話は簡単だったんだけどね」
ふぅ、とため息を吐きつつもう一口抹茶を頂いていると、パタパタと軽い足音が近付いてきていることに気が付いた。
帳に一拍遅れて、直紹も気付いて顔を上げる。
日向子に頼んで連れてきて貰った宗一郎とハルだろう。
本当は和穗にも話をしたい所だが、彼女はまだ眠っているから無理だ。
それに、彼女には──自分がいなくなった後の事を頼みたい。
帳は、いつも宗一郎に触れて、触れられている己のてのひらを見た。
さて彼らは、今まで言わなかった事を語られて怒るだろうか、それとも僕を厭うだろうか。
そんな事を考えながら、戸が開くのを待つ。
「直紹様、帳様。明神様とハルさんをお連れしました」
「入りなさい」
帳は、抹茶の茶碗を置いてから汚れていやしないかと、指先で己の口元を探った。




