第三話 黒い壁、疱瘡の呪詛
《此処に在りしは、土の御子──》
どこからか聞こえて来た祝詞が、和穗の刀に乗る。
御神苗の祝詞だ。どうやら、和穗の相棒は身を隠して追ってきているらしい。
これは恐らく、和穗の指示だ。
この少女ときたら、相棒が年上だろうが関係ないくらい『守る』という意識が強い。
まったくもって、当主向きの性格で──彼女は、相棒が近くに居なくても、まだ凍らない。
《礎の灯よ、夜を塞ぎ、道を築き、我が灯を以て穢れを鎮めよっ》
祝詞が刀に巻き付くと同時に、俺のものよりも長く太い大太刀が周囲を照らした。
自分の身の丈ほどもある刀を、よくもまぁこんなに軽々と振り抜けるものだ。
感心しながら、彼女の攻撃範囲に入らないように少しだけ走る速度を落とす。
刀持ちたちの上に立つ者は、年齢性別問わずに刀に選ばれた者が指名される。
和穗が刀に選ばれたのは、確か16になって半年ほどしてからだった。
あの刀を振ることができるようになるまでも、一年ほどはかかったはずだ。
刀が主を選ぶ基準は、未だにわからない。
少なくとも俺は、自分の刀があのサイズの大太刀でなくて良かったとは思っているが。
何より、大太刀は目立つ。
この刀に火種が寄ってくれば、自然と相棒の居場所だってバレてしまう。
だから和穗は、己の相棒を隠している。
自分から姿を晒して積極的に夜住を狩るヤツなんて、当主以外では帳先生くらいのものだ。
だからつい、先生が勝手にどこかに消えていないかと何度も所在を確認してしまう。
いつぞや見た、あの人が死にかけている姿は、絶対に見たくはない。
それに、先生が視界の中に居ないと、俺の身体は勝手に凍っていくような錯覚を覚えるのだ。
「来たよっ! 怪我人は下がって!」
和穗が、地面を削りながら振り上げた刀の切っ先で、土を巻き上げる。
氷混じりの土は空中で固まってジットリと飛び散り、周囲に散っていた夜住の煤を叩き落していった。
土は黒い煤を叩き落すだけでなく、周囲に散っていた凍りついた雪と霜を剥がし、足元にわずかな乾いた地面を作り出す。
夜住の煤を周囲に散らさないようにと斬り合っていた刀持ちたちは、俺と和穗の到着にようやっと顔に安堵の色を浮かべた。
その瞬間が、油断だ。
俺は、倒れた仲間を助け起こそうとしていたまだ若い刀持ちの後頭部を掴んで、そのまま地面に叩き伏せた。
直後、鎌状の夜住の手が若い刀持ちの頭部があった部分を薙ぎ払っていく。
俺の刀が弾き返し、甲高い音をさせたその攻撃に、若者の顔色が一瞬で白くなった。
刀持ちたちの死亡率が高いのは、自分たちよりも強く、夜住への有効打を持っている者が辿り着いたその瞬間だ。
助かった、と、一瞬でも思うから、死ぬ。
俺たちの眼の前で、「助けられた」と思った瞬間に、その命を氷塊のようにバラバラに砕いて食われるのだ。
「下がれ、死ぬぞ」
「は、はいっ」
死ぬぞ、というのは、何も夜住に殺されるぞ、という意味ではない。
この程度の広場では、和穗の振り回す刀から逃れられないからだ。
実際、コイツより年嵩の刀持ちたちは和穗の姿を見た瞬間に逃げを打っていた。
あんなモンをブンブン振り回されたら、周囲の人間の方が難儀する。
「和穗。壁は見えるか?」
「……真っ黒いなんかなら見える。なにあれ、壁?」
「わかった。お前は周囲の雑魚を頼む」
俺は、和穗の刀の風圧で巻き上げられる煤を避けて、その切っ先の届かぬ先へ進んだ。
ここは確か、かつては診療所があった廃墟の庭だ。
あの壁は、この奥にいる。
だが和穗も、周囲の刀持ちたちも、まだ誰も明確にその夜住を視認できていない。
眼の前にいる黒い煤を撒き散らすものを見て「そこに夜住がいる」ということはわかっていても、「ソレが夜住である」と理解はできていないのだ。
恐らく今この場でそれが視えているのは──俺と、帳先生だけだ。
存在を隠すものを引き剥がしても、闇に隠れる夜住を視認するのは、それほどまでに難しい。
『あ"ぁぁあ"あぁぁ"ぁ……コロスコロス……コロス……』
凍った垣根を越えて、更にその先の真っ黒い壁へ跳ぶ。
真っ黒い壁は、先生の角灯の灯を受けても黒いままで、よくよく見れば蠢いても見える。
──いや、これは、蠢いてるわけじゃない。
黒い壁一面に浮かんでいる、疱瘡のようなブツブツが──人間の顔が、呻き叫んでいるのだ。
真っ黒い壁に人間の顔面の一部が貼り付いている様は、不気味というよりもおぞましい光景だ。
ある者は血走った眼球だけが貼り付いてぎょろぎょろと人間を睥睨し、ある者は顔面の右半分だけ押し潰されている。
顔面全てがそこにあるわけではないというのが、一時期流行した疱瘡病の患者を思わせた。
ザリザリと地面を擦るように動くたびに、足元の顔面が押し潰されて血と煤を撒き散らしているのもまた、気色悪い。
大きな壁に対して疱瘡ほどの大きさの人間の顔は、呻きながら呪詛を吐く。
呪詛は黒い吐瀉物として吐き出され、ビシャビシャと地面を汚した。
これがなんとも……臭い。
夜住の煤は大体にして人間として生きていた頃の肉体組織の匂いをさせていることがあるが、この吐瀉物は最悪だ。
吐瀉物と汚物と血液が全部混ざったような、胃袋の奥が不快になる匂いがする。
次々と吐き出されて広がっていく呪詛を横っ飛びに回避して、とにかくあの顔面からの攻撃を封じるために足元に刀を叩きつけた。
そのまま地面を転がり、片手を後ろに向けて先生に「これ以上先に来るな」と示す。
帳先生に、こんな穢いものを一滴たりとも付着させるわけにはいかない。
「……待ってろ、今、終わりにしてやる」
赤く灯った刀を壁に向ければ、壁は大きくたわむように動いて吐瀉物を更に広範囲にぶちまけてきた。
攻撃方法が汚すぎる。
顔を歪めながらも、とにかくあの顔面からの攻撃を封じるために足元に刀を叩きつける。
刀がスルリと入り込んだ溝から、次の瞬間にはどろりとした粘液が溢れて湯気をたてた。
こんな形状の夜住に、足なんてものはない。
だが身体を支えている部位は、ある。
そこを傷付ければ、廃墟の屋根にまで届く巨体でも揺らぐだろう。
二振り目。一度傷をつけた部分に寸分の違いもなくもう一撃、攻撃を加える。
傷口からブシャリと吐き出される粘液の正体は、煤だ。
この夜住は、人間の顔面がいくつも付着している。
つまりコイツは、「元人間」だ。
斬れば人間を斬るのと同じようにドロドロとした組織液が溢れ、混ざった煤が汚泥のようになる。
夜住の素になったものがある場合、こうして斬ると交じるのは、嫌な気分だった。
しかも、コイツの黒い吐瀉物は厄介だ。
数回地面を蹴って、吐き出された吐瀉物を回避する。
ドロドロの煤混じりの組織液は、汚染されるだけでなく足をとられたり滑る可能性もある。
動けないくせに、面倒なヤツだ。
俺は舌打ちをして、刀を構え直した。
広範囲にぶち撒けられる煤は、夜住憑きを大量発生させる可能性もある。
夜住の煤に触れただけで感染する可能性のある夜住憑きは、ただの人間にとっては不治の病だ。
それこそ治癒の力を持っている当主たちでもなければ、祓うこともできない。
──あぁそうか。この建物は、そういう人間を隔離していた場所だったのだっけ。
ふと思い出して、この巨大な壁の出現した理由に思い至る。
ならば余計に、コイツが誰かを夜住憑きにしてしまう前に祓ってやらねば。
刀を持つ者の役目は夜住を煤にして火種の餌にすること、だけじゃない。
人間を人間として、夜住になる前に見送ってやることだ。
少なくとも俺はそう、あの人から教えられた。




