第二十七話 選ばれ、見失う
先生、と、口先だけで先生を呼ぶ。
日向子は白い布を開くのを躊躇しているようだったが、神風さんが手を振って促すとその先に消えていった。
なんで、霧子さんはダメなんだろう。
問いたくて、じっと先生を見る。
先生は障子で閉じられた窓辺に寄りかかりながら俺を見ていて、にんまりと笑うと、自分の懐を指でトントンと示して見せた。
なんだ? と、俺も自分の胸元に手をやって、そこで指先に触れたものに少しだけ驚いてしまった。
胸元に何も入れていなかったはずなのに、という気持ちと、やらかした、という気持ちと。
それらが一緒くたになって、サーッと頭から血の気がひいていく。
「す、すみません神風さんっ。俺、急いでて封庫から本を……!」
「あぁ、やはりそれは封庫のものか。見覚えがあると思ったんだ」
「すみません。これを見てて、考えてる時に、」
考えている時に、霧子さんが呼びに来たんだ。
続けようとした言葉が、喉の奥に詰まる。
そうだ、霧子さんが来た。
本来は神風の当主と灯守しか入れない、特別な場所に。
胸元に押し込んだままだった本に手を当てて、ぐっと頬の内側を噛む。
閉ざされた封庫にやってきた霧子さん。
霧子さんが去った先には誰も居なくって、渡り廊下の雪は誰かが踏んだ気配もなかった。
庭にも、廊下にも、誰かが歩いた痕跡はなくて……霧子さんは、治療室の前に居た。
考えないようにしていた謎が、波のように押し寄せてくる。
考えたくない、という感情が一瞬波をひかせるけれど、それでもまたすぐに戻って来るのだ。
だって今──今、先生は、霧子さんをここに入れるなって、言った。
ハルだけで、って、先生が、言ったのだ。
「和穗っ!」
「はるくん」
「あぁ、もう心臓に悪い……良かった、良かったなぁ」
「ごめんね、失敗しちゃった」
ドクドクと心臓が跳ね回っている俺の視界は、ハルが転げるように入ってきても少しも落ち着いてくれない。
チカチカして、目の奥で火が燻っているみたいで、頭が熱い。
戻ってきた日向子も、白い布を整えながら何かを考えているようだった。
当たり前だ。
彼女も、あの霧子さんを、見ている。
先に違和感を持ったのも、彼女だ。
「明神。持ってきた本は、何の本だい」
「え、あっ……」
「怒っているんじゃない。あの封庫は、必要な本を必要な者に差し出すんだ」
チカチカとしてくる視界を少しでも閉じようと、右目を手で覆う。
と、神風さんが俺に手を差し出してきた。
まるで──まるで、神風さんも霧子さんをこの部屋に入れなかったことに、違和感を持っていないような、顔で。
「な、直紹様、あの」
「いいんだよ、日向子。あそこは少々特殊でね。封庫がお前を弾かなかったのなら、お前も入るべき時だったんだ。そして明神には、その本が必要だったのだろう」
「マジで、あの封庫意味わかんないよねぇ。好きだけど」
「当家に来るたびにあそこにこもりますからね、貴方は」
「あったかくってきもちーんだもん」
あははー、なんて笑う先生と神風さんのいつも通りの姿に反して、俺と日向子だけが緊張している。
神風さんが俺を安心させようとすればするだけ、ワケがわからなくて頭がぐるぐると混乱した。
「ハル、霧子さんは、まだ、廊下に?」
「あぁ、居ると、思うけど……」
目の奥が熱を持っているのがわかる。
俺は目をおさえていた右手をそのまま頭まですべらせて前髪をかきあげると、本を懐から出して神風さんに渡す。
それからすぐに立ち上がって、白い布をまくりあげた。
日向子が一瞬、俺を止めようとしたのが、わかる。
しかし俺はその手を無視して三枚の布を開いて、戸自体がひんやりしているように感じる廊下との境をグッと掴んだ。
額に汗が滲む。
かきあげた前髪が少しずつ落ちてくる。
少し息を吸って、吐いて。
吐くのと同時に戸を開け放つと、そこには誰も、居なかった。




