第二話 白い片割れ、火種の子犬
俺が刀にまとわりついた煤を振り払うと、地面に僅かに黒い墨が散って、残った。
身体や着物には残らないのに刀にだけ残る煤は、まるで夜住どもの血液のようで不愉快だ。
しかし、地面に煤が落ちればそれも火種が食って取り込んでくれる。
俺は火種をそっと撫でて、ほんのりと熱を持っている不可思議な存在で指先をあたためた。
今はもう、コイツを可愛いとは思わない。
だが時折意思があるように見えるのが、厄介だとは、思う。
ふぅ、と身体の中にくすぶっていた熱を吐き出すように息を落とすと、白い装束の人間がそろそろと近付いて来て、同じように真っ白な袋を先生に差し出した。
真っ白な面隠しに、真っ白な手袋。
肌が出ている部分は目元しかないのに、彼らは震えながら袋を持ち、頭を下げている。
怯えているようにも見えるその姿は、無防備に火種と遊んでいる先生とは恐ろしいくらいに対照的だ。
「先生、煤を」
「はいはーい。今日はソウくんまだ働く気?」
「動けるうちは、動きます」
「そのうち凍って折れちゃうよぉ」
「その程度であれば、先生や神風さんならくっつけるでしょ」
「もー、可愛くない! なんでこんな可愛げのない大男になっちゃったんだろ!」
「アンタに育てられたからですよ」
先生と同じような真っ白い装束の者たちは、火種が回収した煤を持ち帰るだけの役目の者だ。
俺と同じように刀を持って夜住と戦うわけではなく、煤以外で装束が汚れることもない。
彼らの装束が白いのは、煤が身体に付着して夜住に取り憑かれるのを防ぐためだ。
俺たちや先生のような火種に近い者は煤に憑かれることはないが、普通の人間は煤が憑きすぎれば心臓が凍って夜住になってしまう。
彼らの役目もまた、命がけのものだと言ってもいい。
だからって先生にまで怯えるな。
こっちは守ってる側なのに、腹が立つ。
こうして集められた煤は、帝都の四箇所に設置された火種の燃料になり、帝都の気温を一定以下にはならないように保ってくれる。
日本から熱が奪われてから、もう何代も続いてきた戦い。
帝都が帝都と呼ばれるようになる前から、当主を筆頭とした刀持ちたちが背負い続けてきた呪いだ。
それを──じきに俺が引き継ぐ。
明神家の人間でもない俺が、ただ火種と帳先生に気に入られたという、ただそれだけの理由で。
ふぅ、とため息を吐いて現場に背を向ければ、また音もたてずに先生が飛んだ。
ぽぉんと空気を踏みつけるようにして空に浮いた先生は、角灯を前に差し出して俺の行く道を照らした。
彼の角灯の先には、いつだって夜住がいた。
俺は、先に体を動かす。悩むのは、その後。
戦場では、先生が示すままに、夜住を退治していく方が楽だ。
けれどきっと、明神家の当主になればそれだけではいられなくなるのだろう。
それが少しばかり憂鬱で──少しだけ、怖い。
先生との関係性が、俺の地位の変化で何か変わってしまうのじゃないかと、不安になる。
「ソウくん、向こうに大型のがいるよ」
「刀持ちたちは?」
「気付いてない。なんだろ……見える?」
「どっちですか」
「あっち。廃墟の方」
わかりました。
それだけ言って地面を蹴れば、地面が少しだけへこんで霜と泥の混じった土が舞った。
密集した家々の隙間を縫って、泥が着物の裾を汚すのも気にせずに、走る。
煤は俺の着物を汚さないが、溶けかけた霜がゆるくした泥は容赦なく身体を汚していく。
だが、そんなものは無視だ。
泥で死にはしない。
だが俺は──先生が居なければ、彼の熱がなければ、死ぬ。
どれだけ早く走っても、視界の先には先生の角灯の灯りがあるのが、頼もしい。
口では強そうなことを言っても、胸中に沸き起こるのは不安ばかりだ。
今日みたいに寒い日は、余計に悪い考えばかりが浮かんでは消えていく。
それでも帳先生の声のひとつで、言葉の一文字で、精神が落ち着いて地面を駆ける力が湧く。
この人だけはどんな状態の俺も見捨てることはないと、わかっているからだろうか。
あまりにも単純な己の脳に呆れてしまうが、今の俺は先生に褒めて欲しくて尾を振る犬のようなものだ。
さっきの火種を、笑うことなんかはできない。
「ソウくんっ」
「はい」
ほんの数秒先で、煤が雪煙のように舞い上がっているのが見えた。
その奥には、壁みたいな、デコボコとした表面の巨大な夜住。
俺がその存在を視認したのとほぼ同時に、刀持ちたちの悲鳴があちこちから聞こえ始めた。
霜をはらんだ煤が吹き上がるたびに、悲鳴と共に赤い血飛沫が舞う。
まだ距離があるというのにはっきりと見えるその光景に、俺は眉間に深いシワを刻んだ。
ズン、と足元が揺れて、壁にしか見えないアイツも動くのだと、わかった。
先生が言った通りの大きさなのに、近付かなければ視認できなかったことに少しだけ、驚く。
まだ距離があるのに、こんなにも大きい。
なのに、先生すら見抜けず、刀持ちたちに何もできずに殺されている。
速度を緩めずに睨みつければ、雪の降りそうなくもり空に滲むように巨大な壁があるというのに。
「先生、壁だ。眼の前にいるから、逆にわからなくなってる」
「壁?」
「そのまま照らしてて」
こんな大きなものと見落とすなんてことは、普通では有りえない。
夜闇に紛れていたのか、そう見えるように人間の認識を阻害していたか、だ。
真っ先に犠牲になったのは、この壁の近くに待機していた刀持ちたちだろう。
突如出現したように思えるアイツは、実際には最初からそこにいて、誰かが〝認識した〟途端に化けの皮が剥がれたのだ。
逆に言えば、出落ちの隠密術。
認識してしまえば、そう難しい相手ではないはず。
「俺が、斬ります」
──そういう、壁だ。
怪異にありがちな、己を隠すことに特化した面倒なタイプ。
だが俺は、そういう手品には慣れている。
しかし、壁の周囲に他の夜住の気配があるのが厄介だ。
寒さに強い俺にはわからなかったが、どうやら今夜は、いつもよりも冷え込みが強かったらしい。
そのせいであちこちで、新しい死体が夜住に変質しているのだ。
刀持ちたちの驚愕の声が徐々に悲鳴になり、濁った断末魔が上がる。
真っ黒い壁の根本に赤い飛沫が滲むのを見て、俺は思考を切り捨てて走り出した。
この惨状を、一秒でも早く止めなければ。
見上げれば、先生はまだ角灯を差し出して真っ直ぐ前を見ている。
赤い光に支えられるように宙に立つ先生は、夜闇の中では文字通り浮いて見えた。
時折揺れる角灯の灯りは、「冷静であれ」と言っているようで、心が落ち着く。
冷え切った夜の空気に奪われた体温が戻ってきたような心地さえ、あった。
これなら迷わずに、真っ直ぐ進める。
こんな状況でも、自分がやるべきことを間違えるなんてことは、しない。
「お兄ちゃんっ! やっと来たっ」
「和穗……またウチの部隊に紛れてたのか」
「最近また基音が下がってるもん。そりゃ出てくるって」
先生の白い影を追いながら駆けていると、横道から俺よりも頭一つは小さい少女が合流してきた。
御神苗和穗。
俺と同じ、じきに正式に刀を継ぐ御神苗家の次期当主だ。
だが彼女はまだ17に達したばかりの子供。
女学校にも通わず、俺たちと共に刀ばかり振って、すっかり行き遅れ気味だというのに。
そんなことも気にせずに、彼女は己の身の丈ほどの刀を器用に抜き払ってみせた。
自分よりも5つばかり年下の少女。
しかし彼女の刀が灯りを灯し始めているのを見て、俺は頼もしさに僅かに口角を上げた。
和穗の言う通り、最近とみに帝都の気温が下がってきている。
特に、夜に。
平均気温の低下と、それによる夜住の活発化──及び、多発。
いざ目の前で人が死に、その始末をした後だと、その実感に頬の冷たさがチリリと痛みに変わった気がした。




