第十四話 擬態の街、凍れる残響
陽が落ちる。
青から朱へ移り変わり紫になり藍色から黒に落ち着いていく時の流れ──それは帝都が「人」から「夜住」へと、その支配権を明け渡す合図だ。
人々は、空が紫色になってくると慌てて商店街を駆け回り、その夜に必要な物を買い込んで家に戻る。
同じ頃、街中の灯楼にも火種が灯る。
白服たちが忙しなく祈りを捧げる中、俺と帳先生は明神の領域へと繰り出した。
帝都の中はいつものように街灯でぼんやりと明るくて、けれど、何かがいつもと違った。
今夜の空気は、おかしい。
いつもなら火種に焼かれた煤の匂いが微かに漂うはずなのに、今夜はただ、鼻の奥が痛くなるような無味無臭の冷気だけが支配している。
鼻呼吸をするだけでツンと痛む鼻を擦って、俺は一歩後ろに居る帳先生を振り返る。
「静かですね」
「そうだね。静かすぎて、自分の心臓の音が聞こえちゃいそう」
帳先生はいつものように飄々とした足取りで隣を歩いている。
けれど、さっきから一度も、彼の帯に結ばれた「鈴」が鳴っていない。
トトト、と軽い足音を立てて歩いているのに、あの大事な鈴が、死んだように沈黙しているのだ。
音がするのは、時折先生が鈴に触れた時。
響きはせず、カラコロと転がるだけの音だけが、俺の眼の疼きをさらに加速させていた。
「た、助けて……っ」
不意に、暗い路地の奥から、聞き覚えのある「音」がした。
それは鋼が石畳を削る音と、荒い吐息。
冷え切った空気で肺に空気が上手く入らないのか、ヒッヒッとおかしな呼吸音になるのは、夜住と戦っている者によくある音だった。
俺が反射的に太刀に手をかけ、路地の奥へと駆け込むと、そこには一人の男が倒れ込んでいた。
「……御神苗の、刀持ちか?」
見覚えがある家紋の羽織に、足を止める。
顔にも、見覚えがある。確か、今回の警邏で先遣隊として出したはずの男だ。
男は右腕を不自然な角度で曲げ、黒い着物を鮮血でさらに濃く染めながら、必死に俺へと這い寄ってくる。
男の背後からは、ゆらりと、不定形の夜住の「煤」が立ち上っていた。
「逃げ……っ、明神様、逃げて……!」
俺を逃がそうとする御神苗の男には申し訳ないが、襲われている者に背を向けるなど、刀主の恥だ。
すぐさま太刀を抜き放ち、男を庇うようにして夜住へと対峙した。
眼の疼きが最高潮に達する。
見ろ、見逃すな。俺の「眼」がそう叫んでいる。
だが──
見えない。普段であれば、不定形の者でもじっと見ればそのうち形が見えてくるのに。
何も、視えない。ただの、モヤのようで、形にならないのだ。
だからといって、後ずさるわけにもいかない。
眼の前の煤の塊を斬り伏せようとした瞬間、疼きは「恐怖」へと変わった。
眼の前のユラユラと揺れる煤の形が、変わらない。
ただのモヤ、黒い霧、燃えカスの煙。
それどころか、ただの煤の塊だと思っていたそれが、鏡のように、俺の姿を映し出した気がした。
真っ黒な俺が、真っ黒な眼で俺を──見つめている。
「……っ、先生! こいつ、おかしい!」
叫んだ瞬間、背後で倒れていたはずの「男」が、信じられない力で俺の足首を掴んだ。
縋り付く手の感触。それは、血の温かさではなく、氷そのもののような冷たさだった。
ビキリと、触れられた箇所に痛みが走る。
「ひ……ひ、ひひっ」
助けを求めていたはずの刀持ちの顔が、ゆっくりと、肺が割れるような音を立てて「笑う」。
眼、鼻、口。
人間としての造作がぐにゃりと歪み、その中から、ドロリとした黒い煤が溢れ出してきた。
眼球が落ちる。鼻がもげる。口が歪む。
どうしてかその光景を見つめてしまった俺は、地面に落ちたそれらが黒い汚泥になっていくのを、見守ってしまった。
「あ」
理解したときには、遅かった。
俺が守ろうとしたのは夜住で、俺が敵だと思っていた夜住も、また夜住だった。
二体の化け物に挟まれ、退路を断たれる。
しかも今夜の冷気は、これまで出会ったどの夜住よりも重く、肺を凍らせるほどに鋭い。
「ソーウくん、駄目でしょ~」
帳先生のいつも通りの声。
けれど彼が懐から取り出したのは、いつもの護符ではない。
見たこともない、鈍い銀色に光る一振りの刀、だった。




