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六章 追跡





翌朝、和也はその寒さで目を覚ました。

店もしばらくは閉めているので、目覚ましを掛けて寝る事も無い。

しかし、いつも起きる時間よりも早く、目を覚ましてしまう程の気温だった。


そしてBGM代わりにテレビをつけて、キッチンに置いた食パンをオーブントースターに放り込み、いつも使っている色の変わってしまっているマグカップにインスタントコーヒーを適当に入れてお湯を注いだ。

昨日の夜、夕飯も食べずに寝てしまい、とにかく腹が減っていたのだった。


トーストが焼き上がった音がして、コーヒーと一緒にそれを持ってテーブルの前に座る。

一緒に持って来たマーガリンをトーストに塗ると、口に入れた。


ふと、テレビの画面に目をやると、画面に映っていたのは、聞き覚えのある声だが、緊迫した表情のアナウンサーだった。


「昨日未明、市内の水路で男性の刺殺体が浮いているのが帰宅途中の男性により発見され、通報されました。遺体は市内の警察署に勤務する岡本潤一郎警部補と確認されました……」


え……。


和也はテレビの液晶画面に視線をやり、その映し出された映像をじっと見つめる。


「現場の状況から、怨恨に寄る犯行の可能性も視野に入れて警察は捜査を進めています」


岡本刑事……。

昨日、店の前で会ったばかりのあの男。

佐倉悦子の存在しない「情報」に苛立ち、真理子の事件を追っていた刑事。


和也は味のしなくなったトーストを食べながら、じっとテレビの画面を見つめていた。

しかし、その事件のニュースはそれで終わり、どうでも良い街のグルメ情報が始まっていた。


真理子と岡本。

あの女の話をした後に二人とも死んでいる……。


和也は少し身震いした。

そして熱いコーヒーをすする様に飲む。


もし、あの女が殺したとすれば、自分を排しようとした者、自分に関わる真実に近付こうとした者を排除している事になる。

でじたる堂のオーナー、真理子の事故。

そして刑事、岡本の刺殺……。

科学的、論理的な裏付けを持たない筈の女が、現実に物理的な殺人を犯す……。

そんなリスクを冒すのだろうか……。


和也は血の気が引くのを感じた。


和也は恐怖に打ち震えながらも、ある衝動に駆られた。


警察へ行かなければならない。

昨日、岡本と会って話した内容を伝えなければならない。

そうしないと佐倉悦子に関する捜査が途絶えてしまう……。


和也は食べ終えた食器を持って立ち上がった。






和也は着替えて顔を洗うと、警察署へと向かった。

商店街の傍から出るバスで警察署へは行く事が出来る。


警察署内の待合室は岡本刑事の死という非常事態にも関わらず、妙に静まり返っていた。


「お待たせしました……」


と一人の刑事が和也に頭を下げた。

そして取調室へと連れて行かれる。


不思議な空間だった。

取調室は何も悪い事をしていないのに何処か重い空気を感じてしまう。


「いや、岡本とは同期でしてね……。私の方が一つ歳は上なんですけどね」


その刑事はそう言って微笑む。


「はあ……」


和也は吐き出す様にそう言うと視線を膝の上に落とした。


「で、昨日の夕方、岡本に会われたという事でしたね……」


その刑事は調書を開くと、安いボールペンをその調書に走らせる。


「ええ……。商店街の店の前に立っておられて……」


「商店……街の……、店の前……。ああ、あなたはあのでじたる堂の店員さんですね」


和也はコクリと頷く。

刑事は調書にまた書き込む。


和也は昨日の事を洗い浚いその刑事に話した。

佐倉悦子の事、シャッターに貼られた貼り紙の事、そして彼女が戸籍にも存在しない「幽霊」の様な女である事……。

そして岡本刑事がその佐倉悦子の事を調べていた事も。


その刑事は和也の話を半信半疑で聞いていた。


「岡本がその幽霊の女に殺されたと……」


刑事は溜息を吐きながら和也に訊いた。


「いや、それはわからないのですが、岡本刑事がその女の事を調べていたのは事実です……」


和也の言葉にその刑事は頷く。


「わかりました。いや、情報ありがとうございました……」


刑事は和也に頭を下げた。


「岡本とは週末に飲みに行こうって約束してましてね……」


その刑事は鉄格子のはまった明り取りの窓を見つめて言う。


「寂しい酒になりそうです……」


刑事はゆっくりと立ち上がる。


「あなたも何かありましたら警察に連絡下さい」


そう言った。

岡本は名刺を渡してくれたが、この刑事はそれも無く、ただ連絡しろと言うだけだった。


二人は取調室を出て警察の入口まで送ってくれた。


「今日はわざわざありがとうございました」


刑事は和也に頭を下げて、署内に戻って行く。

その時、和也の背筋に再びあの冷たい「気配」が走った。

それは背後から発せられる情報的な重さで、まるで何億ものデータパケットが一か所に集中して存在しているかの様な密度の濃い感覚だった。


和也は反射的に振り返った。


警察署の前を足早に歩く一人の女性の後ろ姿が見えた。


佐倉悦子だ……。


彼女は何も無かったかの様に人混みに紛れながら堂々と街の中を歩いていた。

和也にとって彼女は殺人の容疑者であり、自分を恐怖の奈落に陥れた存在でありながら、白昼堂々、警察署の前を闊歩していた。


「あいつだ。あの女だ」


和也は叫ぶ様にして警察署の表へと走り出た。

その和也の声にさっきの刑事は振り返り、和也の後を追う様に表へと出て来た。


「待て、佐倉悦子」


和也はそう叫ぶが、街の喧騒の中に佐倉悦子の姿は無かった。

彼女はまるでネットワークから接続を切断したかの様に一瞬で姿を消していた。


和也はその場に立ち尽くした。


「大丈夫ですか……」


さっきの刑事が和也に言う。

なかなか冷静さを取り戻せない和也に呆れた様に首を振ると刑事は警察署の中に戻って行った。


ふと、和也は我に返り、警察署の中に入る刑事の背中を見た。

そして今一度、街を歩く人達の流れに視線を移す。


もう誰も信じられない。

警察も、理屈も、科学も……。

俺の知っている全てがあの女の「ウイルス」に浸食されている……。


和也は警察に頼る事を諦めた。


この異常な事態に終止符を打つには、俺の持つ力を使うしかない……。


和也はそう悟った。


佐倉悦子が自分の領域に侵入するのであれば。俺も彼女の領域に侵入する……。


和也は警察署を後にして、そのまま閉鎖中のでじたる堂へと向かった。






閉め切られた「でじたる堂」の店内は薄暗く埃っぽい。

数日空気を通さないだけでこんな風になってしまうのかと和也は思った。

そして店内の明かりをつける。


和也は机の上に散らばったパソコンの部品を薙ぎ倒す様にして避けると、生前真理子が使っていた灰皿と無造作に置かれた岡本刑事の名刺があった。


和也は店のパソコンの電源を入れて、佐倉悦子のパソコンを調べた時のデータを探した。

データは直ぐに見つかり、そのデータを机の上にあったUSBメモリにコピーした。

預かったパソコンの型式、シリアルナンバー、そしてネットでの検索履歴に至るまで、全ての情報をコピーした。

顧客の情報をこんな風に使う事は契約上違法で、和也もそんなデータを見るのは初めてだった。


戸籍に存在しないだと……、二十年前に死んだ……。

ならば情報の世界で追い詰めてやる……。


USBメモリへのコピーを終えると、和也はパソコンの電源を落とし、でじたる堂を出た。

そして足早にアパートへと帰った。






部屋に戻ると、和也は自分のパソコンを出して、電源を入れる。

彼は極度の興奮と疲労の中で、まるで何かに憑りつかれた様にキーボードの上に指を躍らせる。


ハッキング……。

それは和也にとって本来はタブーの行為だった。

しかし今は生存のための唯一の手段だった。


ます悦子のパソコンのシリアルナンバーからメーカーのデータベースをハッキングし、パソコンの出荷情報を辿った。

その情報は彼女とも、彼女が書いた住所の持ち主とも全く関係の無い別の会社名義だった。


和也はその情報から更にネットワークの深部へと潜って行く。

佐倉悦子のパソコンには遠隔操作の痕跡はなかったが、逆にそのクリーンさこそが偽装である可能性を秘めている。

そんな微かな可能性も和也は掘り下げて行く。


和也は朝まで掛かり、睡眠も休憩も取らず悦子のパソコンの情報を逆手に取り、ネットの検索履歴等から彼女が関わったネットワークをハッキングし続けた。

コーヒーと疲労、そして迫り来る恐怖だけが、彼を突き動かしていた。


そして、夜明け前、彼の画面に一つのIPアドレスが浮かび上がった。

しかしそのIPアドレスも佐倉悦子のパソコンが最後に接続していた場所ではない。

彼女が情報を「転送」するために一時的に利用していたサーバの所在地を示していた。


そして更に一晩を費やし、和也はそのサーバの所在地から物理的な接続場所を突き止めた。


それは先日、和也が訪ねた廃墟の様な佐倉悦子の家とはまったく別の場所だった。


和也はハッキングを終えたパソコンもそのままに、立ち上がった。


もはや警察に連絡するという選択肢は無かった。

彼の頭の中にはこの情報を自らの手で駆逐するというただ一つの目的しか無い。


彼は部屋を出て、歩き始める。

夜明け前の冷たい大気の中を佐倉悦子の居所へと急いだ。






佐倉悦子の居所。

和也が調べ上げたその発信元はこの町の山の手にある高級住宅地の大きな一軒家だった。

和也はその町並みを眺めながら調べた住所を手に歩く。

朝靄の中、大きな家をじっと見つめる。

どの家もガレージには高級車が並んでいた。


「此処か……」


和也は一軒の家を見上げる様に見て、息を吐く。

そしてその家の傍にある生垣の陰に身を顰める。


こんな暮らしをしているのに何故……。


彼が頭の中で混乱していると、その家の玄関の鍵が開く音がした。

そして中から出て来たのは佐倉悦子を名乗った女だった。

しかし、和也の記憶の中に居る、青白い顔をした常に怯えている悦子ではなかった。

彼女は夫と思われるスーツ姿の男と制服を着た娘を幸せそうな家族像として普通にニコニコと笑顔で見送っていた。


「行ってらっしゃい」


「気をつけてね」


と二人に優しい聲を掛け、完璧な妻、完璧な母親のそれだった。

彼女の笑顔は和也の知るモノではなく、何のノイズも無い、完璧な「日常」に溶け込んだ女だった。


和也はその光景を記憶の中の彼女とのギャップに息をするのも忘れてじっと見つめていた。

ハッキングで調べた場所を間違えたのかと本気で思った程だった。


夫と娘を見送った佐倉悦子は和也の隠れる生垣を一瞥し玄関のドアを閉めた。


和也は生垣から出るとその家の前に立つ。

表札には「山名」と書いてあった。


「山名……」


何故、彼女は山名ではなく佐倉悦子と名乗ったのだろうか……。


和也は再びその家を見上げる。

そしてその家に乗り込もうと身構えた、その時、玄関の鍵が開く音がした。

和也は咄嗟に再び生垣に身を隠す。


すると、さっきとは表情の違う佐倉悦子が玄関から再び出て来た。

今度は店で何度も見た、彼女の姿だった。

顔色は青白く、瞳の奥には極度の焦燥と警戒心を宿していた。


彼女は周囲をキョロキョロと見回しながら、ゆっくりと歩き出す。

その挙動はまるで絶えず周囲の環境を警戒し、情報としてスキャンしているかの様に不審だった。


和也は彼女に気付かれない様に生垣から這い出し、その挙動不審な佐倉悦子の後をつけた。


彼女はまるで町に設置されたカメラを避ける様に大通りを避けて裏道を選びながら町を歩く。

そして山の手の高級住宅地から下り終えると、和也が働く商店街の近くの古びた路地裏へと入って行く。


何処へ行くんだ……。


少し離れて歩きながらも和也はしっかりと彼女の姿を見ていた。


彼女が入って行った裏路地に和也もゆっくりと入る。

その奥へ進むと、其処は行き止まりになっていて、佐倉悦子が立っていた。

そして其処に立つ和也をじっと見つめる。

悦子の瞳は冷たく、深く、そして、まるで和也がハッキングで覗き込んだ無機質なサーバに羅列されたログ画面の様に見えた。


「だから言ったでしょ……」


久しぶりに聞いた悦子の声だったが、和也の中では常にこの声がリフレインしていた。


「だから、言ったでしょ……」


悦子は同じ言葉を繰り返した。

悦子のその声はやけに静かだった。

しかし、悦子の声は和也の脳内のノイズを一瞬で鎮圧する決定的な情報を含んでいた。


「私はコンピュータウイルスに犯されてるのよ……」


佐倉悦子は手に持っていた紙袋からキラリと輝くナイフを取り出して、その切っ先を和也に向けた。


その瞬間、和也の脳裏にかつて剥がして捨てた貼り紙の文字がフラッシュバックした。


「私は感染している。私を助けて」


それは佐倉悦子が和也に送った最後のメッセージではなく、和也自身が今、発した悲鳴だった。


和也の眼球の奥で、かつて修理したパソコンの画面の様に、青白い光がチカチカと不規則に点滅し始める。

和也は周囲を見渡す。

其処に付けられた蛍光灯が点滅し、自分の視界が欠け、そのあらゆる箇所にノイズが走っているのがわかった。


何だ……。

どうなっているんだ……。


和也は二つの眼球を慌ただしく動かしながらその視界を自分のモノとして取り返そうとした。

しかし、そのノイズはいつまでも戻る事は無く、ただナイフを構えたまま自分に歩み寄って来る佐倉悦子が映っていた。


止めろ……。


そんな言葉はもう声にはならない。

ただ和也の脳内に響くノイズとなるだけだった。


佐倉悦子のナイフがノイズで欠ける視界の中で和也に振り下ろされた。








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