五章 不可視
それから数日後。
でじたる堂は静かに営業を再開していた。
昨日、真理子の葬儀が行われ、和也もそれに参列していた。
和也は一人、店番をしながら残された修理を淡々と片付けていた。
彼の心はオーナーである真理子の突然の、そしてあまりに不自然な死によって深く沈んでいた。
ある日の夕方、シャッターを半分閉めた店内で、和也は真理子の父親と商店街の会長と向かい合って座っていた。
カウンターの脇の真理子がいつも咥えタバコで立っていた場所には小さな献花が置かれていた。
「真理子を失ってしまって、この店を続ける気力はもう無い……」
真理子の父親は疲れ切った顔で静かに言う。
「和也君の腕は真理子からも聞いて知っている。君に任せて続けたいのは山々だが、この歳でまた責任を負うのはな……。この店は閉めようと思うんだ……」
しかし、その言葉に商店街の会長は直ぐに異論を唱える。
「それは困る。でじたる堂はこの商店街の特色でもある。今や、和也君の修理の腕を目当てに、この商店街に来る客も多い。何とか存続してくれんか……。この地域のIT関連はこの店に掛かってるんだ……」
真理子の父親と商店街の会長の間で交わされる「存続」か「閉鎖」かの議論を、和也はただ黙って聞いていた。
彼は修理の技術者であり。
雇われの身だ。
この店の運命を決定する権利は彼には無かった。
会長は熱心に説得を続け、真理子の父親は頑なに首を横に振る。
そのやり取りはまるで遠い場所で繰り広げられる演劇を見ているかの様に、和也の意識から遠ざかっていった。
そして半分開けたシャッターの向こうからしゃがむ様にして店内を見る者の姿が和也の眼に入る。
閉店後の薄暗い商店街のアーケード。
その柱の影に佐倉悦子の姿が見えた。
彼女はじっとでじたる堂の店内を見つめていた。
その視線は和也に向けられているのか、焦点の定まらない様な視線にも見えた。
和也にはその佐倉悦子の輪郭ははっきりと確認出来た。
しかし、真理子の父親と商店街の会長はその視線にはまったく気付かない。
二人は熱心に店の存族について話を続けている。
和也は恐怖と動揺で顔が引き攣るのを感じた。
またか……。
このタイミングで……。
真理子の死後、刑事の岡本に佐倉悦子の事を話し、警察も警戒を強めていた筈だ。
警察が捜査している筈なのに、何故彼女は平然と此処に現れるのか。
そして、何故同じ店の中に居る二人は彼女に気付かないのか……。
和也は二人の会話が途切れるのを待たずに立ち上がる。
「すみません、ちょっと……」
和也は真理子の父親と商店街の会長にそう言うと店の裏口から外へと飛び出した。
「佐倉さん」
和也は商店街へ出ると、そう大声で彼女を呼んだ。
そして彼女が見えた柱の影に駆け寄る。
しかし、其処には彼女の姿は無かった。
誰も居ない。
ただ冷たい風がアーケードの下を吹き抜けて行くだけだった。
和也は店の外壁にもたれかかり、呼吸を整えた。
あの女は一体どこから現れ、何処に消えたのか。
彼女の存在はまるでネットワーク上に一時的に発生し、直ぐに切断されるデータの様だ。
店内に戻ると、真理子の父親と会長が訝し気に和也を見ていた。
「どうしたんだ、和也君……」
と会長が和也に尋ねる。
「あ、いえ……、何でもありません……」
和也は彼らが気付かなかった事を確認し、胸を撫で下ろすと同時に、強烈な孤立感を覚えた。
自分だけがこの店の、この町の「ノイズ」を見ている……。
それからしばらくの間、でじたる堂はシャッターが下ろされたままになった。
真理子の父親は一旦閉店を決め、遺産整理と店をどうするかを考える為に時間を置く事にした。
その間、和也はアパートに引き籠った。
日中は店から持ち帰った修理途中のパソコンを弄る事で現実から逃れようとした。
そんなある日、和也の私物のパソコンに異変が起こる。
差出人不明のメールが、一日に数十通、多い日には数百通という単位で届き始める。
差出人のメールアドレスは全てランダムな英数字の羅列で、開いても内容が無いモノもあれば、たった一言だけメッセージが書かれているモノも有った。
「たすけて」
それは佐倉悦子の言葉の様に感情の無い、しかし切実な一言の様にも見えた。
メールはブロックしても次々に新しいアドレスから届く。
それは正に、データが自己増殖しているかの様だった。
「これ以上は……、ダメだ……」
和也はでじたる堂に出ずに引き籠っている事が、この見えない恐怖に蝕まれている様に感じたのだった。
そして和也は、この恐怖の源を自らの手で突き止める事を決心した。
それが真理子への追悼にもなると考えたのだった。
翌日、和也は閉めているでじたる堂へと向かう。
裏口を開けて、薄暗い店内に入ると、カウンターの引き出しから修理品の預かり伝票を取り出した。
そして佐倉悦子が記入した伝票を見付けた。
そしてスマホを取り出すと、その伝票に書かれた佐倉悦子の住所と電話番号を写真に撮った。
和也はスマホをポケットに入れるとでじたる堂の裏口のドアの鍵を閉めて、自分のアパートとは逆方向の佐倉悦子の住所に歩き始める。
和也の行動は理性を失った衝動だった。
もはや、佐倉悦子がウイルスに侵された被害者なのか、それとも真理子を殺した加害者なのか、そのどちらもなのか……。
そんな事はどうでも良かった。
ただ、この目に見えない情報という武器での、一方的な侵略を止めなければならないと言う強迫観念に駆られていた。
佐倉悦子の伝票に書かれた住所は、この町の隅に有る高級住宅地とは対照的な古くからの住宅地だった。
伝票に書かれた番地を頼りに辿り着いた場所には、古い木造の家屋があった。
しかし、その家は壁は剥がれ、窓ガラスは割れ、庭には雑草が生い茂っていた。
明らかに人が住んでいる様子はなかった。
和也はその近所に住む老婦人を見付け、佐倉悦子の事を尋ねた。
「すみません。あの家に住んでおられた方の事を伺いたいのですが……」
老婦人は訝し気に和也を見てから、その古い家屋を一瞥した。
「ああ、あの家かい。あの家の住人はね……」
老婦人は少し考えて思い出すかの様に、空を見た。
「確か、もう二十年くらいになるかねぇ……。一家全員が事故で亡くなってね……。それ以来、ずっと放置されてるんだよ……」
和也の耳の奥で、耳鳴りの様なノイズが走った。
「亡くなった……。全員が……」
「そうさね……。詳しくは知らんが、何か大きな事故だったらしいよ。まあ、二十年以上も前だからね。若くて綺麗な奥さんが居たんだけどね……。何て名前だったかね……。それ以来、誰の出入りも無いよ」
和也は二十年以上も前に亡くなった筈の「佐倉悦子」に修理の台帳を書かせた事になる。
彼女は……、佐倉悦子は一体何者なんだ……。
彼女には実体がない。
考えてみると、伝票に書く名前なんて嘘でも気付かない事が多い。
それだけ希薄な関係が世の中には蔓延しているのだろう。
佐倉悦子に関しても同じで、彼女が伝票に書いた名前を「呼び名」として和也と彼女が使っただけの事。
そんなモノはこの世の中には多く蔓延っている。
少なくとも「佐倉悦子」はこの町の情報には存在しない人間だった。
和也は何の成果も無く、商店街へ戻る事しか無かった。
でじたる堂の前に着くとシャッターが閉まったままの店の前に一人の男が立っているのが見えた。
刑事の岡本だった。
和也は岡本に頭を下げて、彼に小走りに歩み寄る。
今日知った事を岡本には話さなければいけない気がした。
「刑事さん……」
和也は岡本の前に立ち、今一度頭を下げる。
「和也さん……。お店、閉まっているんですね」
と岡本は言うと傍にあった自販機で缶コーヒーを二本買い、一本を和也に渡した。
和也は礼を言うとその缶コーヒーで冷えた手を温める様に握った。
「オーナーが亡くなって、オーナーの父が「一旦閉める」と決めまして。おかげで引き籠ってます」
和也の言葉に岡本はクスリと笑った。
そして、表情を一瞬で険しくした。
「あの佐倉悦子という女の件ですが……」
岡本は缶コーヒーを開けてそれに口を付ける。
「まったく足取りが掴めないんです。それどころか戸籍にも住民票にもそれらしい人物が見当たらないんです」
和也は岡本を見て頷く。
「まるでこの世に存在しない人間の様です……」
和也は二十年以上前に一家全員が亡くなったという、さっき聞いた老婦人の話を飲み込んだ。
岡本は続ける。
「ですが、誰かがあのトラックのロープを切ったのは間違いない。その人間は存在します。それが誰であれ、この不可解な女を見付け出すのが、事件解決に一番近い気がしています」
岡本はそう言うと和也に微笑んで、肩をポンポンと叩いた。
「では、また来ます……」
岡本は一例して商店街を重い足取りで去って行った。
和也はその岡本の背中を見送ると、でじたる堂に寄るのを止めて、そのままアパートへ帰った。
彼は店の鍵を開けて、今一度、存在しない筈の女の痕跡に遭遇する事があまりにも恐ろしかった。




