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四章 崩壊





アパート三階まで駆け上がり、息を切らしながら自室のドアを閉めて、鍵とチェーンロックを下ろした。

和也は部屋の真ん中に立ち尽くし、初冬のこの時期に全身から汗が噴き出しているのを感じた。


背中に感じた気配。

点滅する街灯。

そしてあの女の囁き。


「あれはただの偶然だ。街灯の故障だ……。俺の疲労とあの女の妄想が重なってそう聞こえただけだ……」


和也は声に出してそう自分に言い聞かせた。

突き飛ばしてシャッターを閉めた事への罪悪感が、幻聴を聞かせているのだと……。


和也はシャワーを浴びて落ち着こうとした。

シャワーの温水が冷たい恐怖で強張った筋肉を僅かに緩める。

しかし、どれだけシャワーを浴びても背中の粟立ちは消えなかった。


九時を過ぎた頃、和也は簡単な夕食を済ませて修理で使う専門書を広げた。

和也にとってこの時間が最も落ち着く事の出来る時間だった。

文字と理論の世界に没頭する事で外界のノイズを遮断する事が出来る。

その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。


コンコン……。


規則正しく静かな音だった。

こんな夜遅くに訪ねて来る人間は居ない。

大家ならもっと遠慮なくドンドンと叩く筈だ。


和也の全身から血の気が引くのを感じた。

彼の全身の体毛が一斉に逆立つのがわかった。


コンコン……。


再びその音は繰り返された。

強くもなく、弱くもなく、まるで定期的に送られてくるデータ信号の様な正確さだった。


和也は音を立てない様、絨毯の上をゆっくりと歩き、ドアへ近付いた。

息を殺してドアスコープを見た。


そこに立っていたのは、やはりあの女だった。


佐倉悦子は、和也のアパートの玄関の前に平然と立っていた。

その表情は闇夜に溶け込んでいる様ではっきりとは読み取れない。

ただ彼女の眼がドアスコープを通して覗く和也の視線を正確に捉えている様な気がした。


コンコンコン……。


今度は三回。

規則正しいノックは和也の鼓膜ではなく、彼の脳内に直接響いていた。


「どうして此処が……」


和也は恐怖に声が出なかった。

彼女自身に自分の住所を教えた覚えはない。

預かり伝票に彼女の住所は書かせたが、和也自身の住所等何処にも無い。

それに、もし住所を知っていたとしても、何故この時間にこんな風に此処に立っているのか……。


和也の頭の中で、昨日までの「科学的にあり得ない」という理性の壁がガラガラと音を立てて崩れて行く。

彼女は情報を手に入れる術を知っている。

彼女の言っていた、「空気中を彷徨うウイルス」が本当に彼女に情報を与えているのか……。


コンコン……。


再びのノックに和也は我慢できずに震える手でスマートフォンを握りしめた。


「警察だ……」


和也は小声で囁き、急いで110番に電話を掛けた。


「あ、あの、不審者がアパートの前に……、女性で変な事を言い出すんです。助けて下さい……」


警察が状況を尋ねる声に、和也は必死に状況を伝えた。

電話の向こうで、


「直ぐに向かわせます」


と言う声を聞いて和也はわずかに安堵した。

彼は電話を切らずに再びドアスコープを覗いた。


警察が来るまで、あと数分、数分だけ耐えればいい……。


しかし、ドアスコープの向こうに立っていた筈の女の姿は既に無かった。


和也は恐る恐るチェーンロックを外し、鍵を開けてドアを僅かに開いた。

アパートの廊下は真っ暗で異様な程静まり返っていた。

アパートの階段にも、その下にも、前の通りにも佐倉悦子の姿は見当たらなかった。

まるで彼女の存在そのものがデータ消去された様に、一瞬で消え去っていた。


数分後、アパートの前に静かにパトカーが到着した。

和也はやって来た二人の警官に事の経緯を説明した。

ストーカーの被害に遭っているのでないか、と。


「周囲にはもう誰も居ませんね。念のため周辺をパトロールしますが、あまりにご不安であれば、明日にでも警察署にご相談にいらして下さい」


警官の事務的な言葉は和也の恐怖を解消してはくれなかった。

何故なら和也は知っていた。

警察官が来た時、誰も居なかったのではなく、警官が来る直前に彼女は意図的に姿を消したのだと……。






翌朝、和也は睡眠不足で重い身体を奮い立たせてでじたる堂へと向かった。

本当は休みたかったが、溜まっている修理もあり、どうしてもそれを片付けなければならなかった。


商店街のシャッターを眺めながらでじたる堂が見える所まで近付くと、その前に人影が見えた。


どうしたんだろうか……。


和也が店の前に来ると、店の前に立つのが、商店街の会長だという事がわかった。


「おはよう。和也君」


会長はそう言うと和也に手を挙げる。


「おはようございます」


和也は頭を下げて挨拶をすると、会長はでじたる堂のシャッターを指差す。


「何か、変な客に憑りつかれてる感じだな……」


和也は、昨日自分が荒々しく引き下ろしたシャッター一面に貼り紙がしてある事に気付いた。


「私はコンピュータウイルスに感染している。私を助けて」


そうマジックで殴り書きされた貼り紙が其処には貼ってあった。


和也はその貼り紙を睨む様に見て、一枚一枚剥がして行く。


「最近、少しおかしな事を言うお客さんが来てましてね……」


商店街の会長はその貼り紙の一枚を剥がして手に持った。


和也はシャッターに貼られたすべての貼り紙を剥がし終えて、会長が手に持っていた最後の一枚を受け取る。


「自分がコンピュータウイルスに感染しているって言うんですよ」


和也は力なく微笑むと、会長にそう言った。


「コンピュータウイルスが人に……。そんな事あるのかい……」


和也は会長を見て首を横に振った。


「あり得ませんね……」


和也の言葉に会長はうんうんと頷いた。

そして会長は自分の店の方へと歩いて行った。


和也は裏手に回り、店の鍵を開ける。

そして店の中に入ると、剥がした貼り紙をゴミ箱に突っ込む。

床に転がった貼り紙を手に取って広げた。

走り書きだが、規則正しくコンピュータのフォントの様な文字。

これは佐倉悦子が書いたモノに違いないと和也は確信していた。

そして其処に書かれた文字も、彼女が昨日最後に発したメッセージだった。

そして昨日の夜に彼女がこの店に来たという確固たる証拠でもあった。

和也は手に持ったその紙を机の上に置いて丁寧に皺を伸ばした。


すると裏口のドアが突然開き、咥えタバコのオーナーが入って来た。


「何かあったらしいな……」


とオーナーの真理子がいつもの様に不愛想な顔で和也に訊いた。


「オーナー……」


和也は真理子に言うと机の上の皺を伸ばした貼り紙に視線を戻した。

オーナーの真理子も和也の横からその貼り紙を覗き込む。


「頭のおかしい客なんだって……」


真理子の言葉に和也はコクリと頷く。

真理子はその机の上の紙を手に取ってクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り込んだ。


「こんな奴は適当に追い返して相手にするな……。こんな奴相手にすると碌な事にならないよ……」


オーナーはそれだけ言うとまた裏口のドアを開けた。

そして傍にある吸い殻入れにタバコを放り込んで、また店の中に視線を戻した。


「変な女なんだろ……。向かいの店の人が何度も見たって言ってたよ。何時間も店の中に居るって」


和也は何も言わずに小さく頷く。


「和也……。あんたその女に惚れられてるのかい」


真理子はそう言うとニヤリと笑って、裏口のドアを閉め、自分の店の方へと戻って行った。


和也はガラス戸の鍵を開けて、重いシャッターを引き上げる。

ガラガラという金属音が静かな商店街の中に響き渡った。

アーケード街の明かりが店の中に差し込んだ。


「和也君」


と和也を呼ぶ声がした。

和也は立ち上がってその声の方を見た。

すると、商店街の会長が息を切らしながら和也の方へと足早に歩いて来た。


「どうしたんですか……」


和也は会長の身体を受け止める様に手を添える。

会長は顔を真っ青にして肩で息をしながら膝に手を突いて身を屈めた。


「あんたのところの社長が事故に……」


その言葉に和也は社長の店の方を見た。

アーケードの屋根の終わる辺りに鋼材を積んだトラックが見えた。

そしてその荷台の鋼材は崩れて道に散らばっているのが見えた。


「オーナー……」


和也は商店街を走り、トラックの見える場所まで向かった。

既に人だかりが出来ていて、和也はその人混みを掻き分ける様に前に出た。

その崩れ落ちた鋼材の下に、さっき見たばかりの真理子の長いスカートの裾が見えていた。


「こりゃ、助からんぞ……」


「突然積み荷が崩れたんだよ」


「救急車は呼んだか」


そんな声が周囲から聞こえて来る。


呆然と立ち尽くす和也の肩を誰かが叩く。

其処にはさっき知らせてくれた商店街の会長の姿があった。


「さっき、社長と会って、貼り紙の話をしたところだったんだ……。別れた瞬間、大きな音がして、振り返ると下敷きになってた……」


和也の頭の中は真っ白だった。

さっき話したばかりのオーナー。

「頭のおかしい客は相手にするな」と言われたばかりだった。

その直後、この事故が起こった。


和也は会長の肩を叩いて、


「一旦店を閉めて来ます……」


と言って、俯きながらゆっくりと店に戻った。

ふと立ち止まり、事故の現場を見つめる。


多分、オーナーは助からない。


和也にもそれはわかった。


その人だかりの中に和也はあの女、佐倉悦子の姿を見た様な気がした。


「佐倉……悦子……」


そして視線を人だかりに戻した時にはその姿は無かった。


「まさかな……」


和也は店へと歩いた。






その後、直ぐに救急隊員と警察が来ていた。


オーナーの真理子は救急車に乗せられたが、既に息は無く、同じ商店街で店をやっている真理子の父親が付き添って病院へと運ばれて行った。


和也は店に戻ったが、ガラス戸に鍵を閉めて、「臨時休業」の貼り紙を貼った。


商店街の入口には真理子が流した黒い血がアスファルトを染めていた。

それを思い出し、和也は顔を顰める。


ふと、顔を上げると店のガラス戸の向こうにくたびれたスーツ姿の男が覗き込んでいるのが見えた。


和也は立ち上がり、ガラス戸の傍に立った。

すると男はポケットから警察手帳を出してガラス戸越しに和也に見せた。

和也はガラス戸の鍵を開けた。


「この度はお悔やみ申し上げます」


その刑事は店に入るなりそう言うって頭を和也に下げた。


「この店の従業員の方ですか」


和也は何も言わずにコクリと頷いた。

刑事は厳しい表情で話を続けた。


「どうも即死だった様です……」


「はあ……」


和也は店内の椅子を差して刑事に座る様に促し、自分も向かいの椅子に座った。


「積み荷のロープがナイフの様なモノで切断された形跡がありました……」


その言葉に和也は顔を上げた。


「え……、どういう……」


刑事は手帳を出すと、其処に書かれたメモを見る。


「事故ではなく事件として捜査しております」


ロープが切られていた……。


和也の耳にその言葉が重く響く。

その時、和也の脳裏に、店のシャッターのあの貼り紙と、昨日、自分に突き飛ばされながら睨み付けていた佐倉悦子の冷たい視線が同時にフラッシュバックした。


「ありきたりな言葉に申し訳ありませんが、社長と誰かがもめていたなどと言う話は聞かれた事ありませんか……」


和也は視線をテーブルに落として首を横に振った。


「最近、何か変わった事などは……」


和也は視線を落したまま少し考え込む。

そして、顔を上げると、


「関係ないかもしれませんが……」


と立ち上がってカウンターの中に入る。

そしてゴミ箱に入った、今朝シャッターに貼られた紙を一つ取り、刑事の前でその紙を広げた。


「今朝、こんな張り紙がこの店のシャッターに……」


刑事はその紙を見て眉を寄せ、一瞬にして表情が強張った。


「私はコンピュータウイルスに感染している。私を助けて……。これは……」


刑事はその走り書きを読み上げて和也を見た。


「少し前からこの店に訪ねて来る様になりまして、コンピュータウイルスが空気中を漂っているのが見えるなどと言うんです……」


和也の言葉に刑事は険しい表情のまま頷く。


「異常者ですか……」


「異常者と言うより、病んでるのかもしれません……」


刑事はじっとその皺の寄った貼り紙を見つめていた。


「詳しく教えていただけますか……」


刑事はペンを出して手帳にメモを書き始める。

和也も彼女が店に来た経緯や彼女が訴えていた内容、そして昨夜彼女を突き飛ばして追い返した事、夜中に家を訪ねられ警察を呼んだ事などを話した。

そして、修理の預かり台帳を持って来て刑事にその女の名前と住所、そして電話番号などを見せた。


「今の段階では何とも言えませんが、少し調べてみます。またこの女性、佐倉悦子が店に来たら直ぐに警察に連絡して下さい」


刑事はそう言うと手帳を閉じて立ち上がった。


「あ、この貼り紙、預からせていただいてもよろしいですか……」


和也は頷き、


「ええ、まだいっぱいありますので……」


そう返した。


刑事は頷くとその貼り紙を折りたたみポケットに入れた。

そしてテーブルの上に名刺を置く。

名刺には「岡本」という名が記されていた。


刑事、岡本は頭を下げると店を出て行った。


和也はガラス戸の鍵を閉めて、店内を振り返る。

残っている修理待ちのパソコンの山をみる。

オーナーの真理子が死んだ今、彼は一体何をすれば良いのか。

和也はそのパソコンの山をじっと見つめた。








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