三章 浸食
佐倉悦子は和也の言葉に納得しなかった。
翌日、彼女は再びでじたる堂へやって来た。
昨日よりは暖かい日だったが、彼女の顔の青白さは昨日と何も変わらなかった。
彼女は来店するなり、昨日追い返された事など何も無かった様に話し始める。
「昨日はごめんなさい。でもやっぱり私、監視されているんです。家のテレビの画面から、電子レンジから、エアコンからも。家のモノ全てがウイルスに感染していて、盗撮されているんです……」
和也は客から預かっていたデスクトップパソコンの電源ユニットを交換していた手を止めた。
「佐倉さん……」
和也は顔を上げる事も無く、手を動かしながら声を発した。
「不安なのはわかりますが、それは科学的に不可能です。テレビなどの家電は基本的にパソコンの様な高度なOSは搭載されてませんし、外部のネットワークに接続されていても、あなたが言う様なウイルスに感染してカメラでも無いモノが盗撮する事は科学的にあり得ません。もしそれが出来れば、データを物理的なモノに変換して外部に送るという画期的な技術です。ノーベル賞だって取れますよ……」
和也は専門家としての知識を総動員して、彼女の訴えを論破しようとした。
論理と科学で目の前の狂気を完全に鎮圧出来ると思っていた。
しかし、悦子は和也の言葉に意を介さない。
「でも、本当なんです。夜中に勝手にテレビが点いたり、エアコンのランプが不規則に点滅したりするんです。あれは、ウイルスの活動のサイン。誰かが私を見て、情報を集めているんです……」
彼女はそう言うと店内の椅子に座り込んだ。
あんたなんて盗撮して誰が得するんだよ……。
和也はそう言いかけて言葉を止めた。
彼女は自分が家で遭遇したという不可解な出来事を延々と和也に話した。
電子レンジが温め過ぎた食品、自動で設定が変わるタイマー、夜中に聞こえる微かなクリック音。
どれもよくある家電の不具合や、生活音と解釈出来るモノばかりだった。
悦子の口から語られると、その全てが「監視」と「情報収集」のための不気味なシグナルに聞こえて来る。
和也はそんな話を聞き流しながら、ただ黙々と修理を続ける。
時折、「ああ」「なるほど」などと相槌を打つだけで、反論はしなかった。
反論してもまた彼女の話がエキサイトするだけだという事を悟ったからだった。
彼女はもはや、現実の理論とは異なる領域に生きている。
数時間、そんなやり取りをしていると突然彼女は店を出て行った。
やれやれ……、やっと帰ったか……。
和也は胸を撫で下ろし、進まなかった修理を続けた。
閉店時間。
和也がシャッターを下ろそうとエプロン姿のまま店の外に出ると、アーケードの柱の陰に悦子が立っているのが見えた。
「ま、まだ居たんですか……」
和也は苛立ちを隠せずに声を張り上げて言う。
悦子はその和也に近付く。
二人の間にカウンターが無いとパーソナルスペースと言うモノが欠落している彼女が居た。
「家のインターネットの回線から侵入されて、家電のあらゆるモノがウイルスに感染してるんです。お願いです。和也さん、私を信じて」
名前を初めて呼ばれた事に、和也は驚く。
彼女は伝票に名前を書き込み、預かり証を渡しただけの関係。
和也の名前等知る由も無い。
おそらく商店街の誰かに聞いただろう。
自分の名前がこの異常な女の口から発せられた事に、和也は強い不快感を覚えた。
和也は深い溜息を吐く。
彼の疲労と苛立ちは限界に達していた。
「わかった、わかったよ」
和也は投げやりに言った。
「そこまで言うのなら、後で一度だけ見てやる。それで何も無ければもう二度と店には来るな」
和也は力任せにシャッターを閉め始めた。
鉄製の思いシャッターがガラガラと大きな音を立てて店の入口を隔てて行く。
その音に怯えるかの様に悦子はアーケードの奥へと引っ込んだ。
次の日も、その次の日も、佐倉悦子は店にやって来た。
彼女は店内の椅子に座る事も無く、常にカウンターの前に立っていた。
時にカウンターの中に入ってこようとするのを和也は止めた。
そしてその次の日、彼女はいよいよ核心に触れる様な常軌を逸した事を語り始める。
「和也さん、わかったんです。もうパソコンや家電だけじゃない。空気中を彷徨う様に浮遊するコンピュータウイルスが私には見えるんです……」
和也は流石に呆れて、手に持った工具を机の上に置いた。
そしてカウンターの前に立つ悦子をじっと見た。
「佐倉さん……。いい加減にして下さい」
和也は昨日までの冷静な対応を捨てた。
彼の声には抑えきれない怒気が含まれていた。
「そんな事は絶対にあり得ない。あなたの言っている事はもはや物理の法則を無視している。コンピュータウイルスとは「0」と「1」の数字で構成されているモノなんです。そんなモノが空気中を浮遊する訳がない。一度、病院へ行ってください。もうそれ以外にあなたを救える方法はありません……」
悦子は和也の言葉に顔色一つ変えず、ただじっと和也の眼を睨み付けた。
その眼には昨日までの様な焦燥や怯えは無く、其処にあったのは凍り付く様な強い非難の念だけだった。
「あなたも信じてくれない。私が嘘を付いていると思っているのでしょ……」
その口調は今までの弱々しいモノではなく、何処か断定的な強い口調だった。
まるで和也を試しているかの様にも思えた。
和也が自身を抑えていた理性の糸がプツリと音を立てて切れるのがわかった。
「嘘もへったくれも無い。頭がおかしいんじゃないのか。あんたの相手をしている暇は俺には無いんだ」
和也はカウンターを回り込んで、其処に立つ悦子の肩を強く突き飛ばした。
悦子はバランスを崩し、傍にあったテーブルに手を突いた。
「二度と来るな」
和也は怒鳴りつける様に言い放つと、無理矢理彼女を店の外へと押し出した。
そして昨日よりも更に力を込めて重いシャッターを力任せに引き下ろし、ガラス戸の鍵を閉めた。
重い鉄の壁が視界を塞ぐ。
和也と悦子を隔てるモノが出来た事で、和也は安堵した。
これで彼女との関係は完全に断ち切られた。
店の明かりを落し、和也は裏口から出るとドアの鍵を閉め、その鍵をポケットに入れる。
いつもの様に総菜屋で既に食べ飽きた揚げ物を幾つか買った。
商店街を抜けて、人通りの少ない裏道に入った時だった。
和也は背中に気配を感じる様になった。
それは特定の誰かの視線と言うよりも、空気の密度の変化の様な数値的な重さに似ていた。
気味の悪い感覚に和也は足を速めた。
家路の途中、近道になる暗い公園の中を横切る。
公園内の古びた石段を下りた所でふと立ち止まった。
その時、頭上にあった街灯が点滅し始めた。
蛍光灯特有のチカチカという不規則なノイズと共に光が途切れ、また蘇る。
故障かな……。
こんなタイミングで……。
和也がその街灯を見上げていると、背後から微かな、そして、聞き覚えのある声が聞こえた。
「ほらコンピュータウイルスが広がっている……」
その声は佐倉悦子のモノだった。
和也はぞっとして振り返る事もせずに、心臓が爆発しそうな程の速さでアパートへ向かって走り出した。




