二章 パソコン
天気予報は見事に当たり、朝から初冬の冷たい雨が町には降り注いでいた。
商店街のアーケードの下を歩く人々の足取りも重く、でじたる堂の店内も心なしかいつもより薄暗く感じた。
和也は朝一番で持ち込まれた近所の不動産会社の会計ソフトのデータ復旧に没頭していた。
昨日の不可思議な女の事は直ぐに記憶の隅に追いやる事が出来た。
彼にとって客の奇行は日常の一部であり、申告に考えるべきは目の前のパソコンの不具合だけだった。
和也は客のパソコンから外したハードディスクを繋ぎ、店のパソコンにデータをサルベージしていた。
「これでデータさえ吸い上げる事が出来れば……」
そんな独り言を言いながらマウスをクリックすると、モニタにゲージが現れ、客のハードディスクのデータを吸い上げて行く。
「よしよし……」
和也は満足そうな笑みを浮かべてそのモニタを見つめた。
その時、店のガラス戸が開き、チリンと音が鳴る。
和也は顔を上げて、店の入口を見た。
其処には昨日の女がまた店内を見回す様にしながら立っていた。
彼女は昨日、和也が言った通りにどうやらパソコンを持って来た様子だった。
雨の中、レインコートを着てビニールを被せた紙袋を抱えている。
レインコートのフードから覗く髪は今朝から続く雨に濡れて顔に張り付いていた。
その様子が彼女を不気味に映した。
顔色は昨日にも増して青白く、唇は微かに震えていた。
「すみません……、パソコン、持ってきました……」
女はそう言うと今にも底が抜けそうな濡れた紙袋をカウンターの上に置く。
「こうやってパソコンを抱いているだけで、私もウイルスに感染しそうで怖いんです……」
そう言う。
和也はあり得ない事を言う女に苦笑してその紙袋を受け取る。
そして紙袋から女のパソコンを取り出そうとすると、
「すみません……。盗撮されていると嫌なので、私が店を出てから触ってもらえますか」
女はカウンターから少し離れながら言う。
和也は呆れていたが、顔には出さずに、女から預かった紙袋ごと、作業台の上に移した。
そして伝票を取ると、
「わかりました。では、此処にお名前とご住所、電話番号を書いて下さい」
と言って、女にボールペンを手渡す。
和也は冷静に対処した。
彼女が本当にパソコンを持って来るとは半ば予想外だった。
彼女が少し考えながら伝票に名前と住所、そして電話番号を書き込むのを見ていた。
「電話番号も必要ですか……」
女はじっと和也の目を見つめていた。
「修理の預かりの台帳になりますので……。連絡が取れる番号をお願いします」
和也は伝票の電話番号の欄を指差しながら事務的に言った。
女は、コクリと頷くと、携帯電話の番号ではなく、固定電話の番号を書いた。
その文字は震えながら尖り、それでもパソコンから出力されたフォントの様に正確な文字だった。
名前は「佐倉悦子」。
住所は、この商店街から少し離れた古くからある住宅地のモノだった。
和也は全てが書き込まれたのを見ると、その伝票を手に取り、複写になった二枚目の伝票をちぎり、彼女に渡した。
「こちらが控えになります。引き取りの時にお持ち下さい」
その伝票を彼女は濡れた手で受け取る。
和也はカウンターの隅に置いた封筒を取ると、彼女に渡した。
「封筒、どうぞ……」
彼女は震える手でその封筒を受け取ると、カウンターの濡れていない場所で、伝票の控えを丁寧に折り、封筒に入れた。
「では、調べさせていただきます。数日、お預かりさせていただく事になりますが、よろしいでしょうか……」
女、悦子は和也の目をじっと見ていた。
「はい……、お願いします。本当に盗撮や盗聴されていないか、隅々までしっかり調べて下さい」
悦子は和也に懇願する様に言う。
「任せて下さい。プロですからね。データからハードウエアの隅々まで徹底的に調べます」
悦子はまた店内をスキャンする様に見まわすと、肩を窄めながらコクリと頷いた。
そして、今一度頭を下げると、足早に店を出て行った。
和也はその様子を見て、息を吐いた。
そして一度、不動産会社のデータのコピーの様子を見て、奥の作業台の上に置いた、悦子のパソコンの入った濡れた紙袋を手に取った。
紙袋からパソコンを取り出す。
そう古くも無い、ノートパソコンが出て来る。
かなり使い込んでいるのか、パソコンのボディは所々擦り切れ、色が変わっている。
外気で冷えたそのパソコンは冷たく、和也の指先に一瞬、不快な湿度とその温度が伝わった。
一刻も早く、悦子のパソコンに何も無い事を証明したかった。
そうすれば、彼女の「妄想」を科学的に否定する事が出来る。
濡れた紙袋を丸めてゴミ箱に捨てると、作業台の上を拭いて、悦子のパソコンを置いた。
一緒に紙袋に入っていた電源コードを繋ぎ、コンセントに差し込む。
そしてパソコンを開くと、電源を入れた。
まずはOSの起動を確認する。
直ぐにそのモニタに見慣れた画面が表示された。
正常な動きだった。
次にスパイウエア、キーロガー、リモートアクセスツール等の有無を調べる。
ネットワークのログの解析、怪しいプログラム、レジストリの異常、隠しファイルの検索……。
手際良く和也は作業をこなして行く。
ふと顔を上げるとさっきよりも雨脚は強くなっていた。
和也は視線を悦子のパソコンに戻し、作業を続ける。
三時間程が経過した。
和也はじっとモニタを見つめた。
そして息を吐く。
何種類かのセキュリティ対策ソフト、そしてプロ仕様のハッキング検知ツール等を使用して悦子のパソコンを調べたが、結果は「異状なし」。
佐倉悦子が主張する様な悪質なウイルスにも、遠隔操作を可能にするスパイウエアにも一切感染していない、極めてクリーンは状態だった。
強いて言えば幾つかのフリーソフトの残骸がある程度だった。
その残骸を和也はデリートして行く。
今度は物理的な検査を始める。
ノートパソコンの裏蓋の螺子を外し丁寧に開け、内部を確認する。
ハードディスク、メモリ、ネットワークカード。
全てが出荷時のままの状態で、後付けの盗聴器や隠しカメラを仕込む隙など何処にも無かった。
和也はプロとして、このパソコンは何も仕込まれていないと確信した。
「ったく……、人騒がせな……」
和也は数時間ぶりに椅子に座ると、そう呟いた。
そして少し外の空気が吸いたくなり、裏口から外に出た。
其処はアーケードの下でも無い路地で大粒の雨がバチバチと地面を叩いていた。
そしてエプロンのポケットからタバコを取り出すと、狭い軒下でタバコに火をつけた。
タバコの煙も雨粒に叩き落される様に消えて行く。
「あ、昼飯……」
和也は昼食を食べて無かった事に気付き、咥えたタバコを裏口に置いた吸い殻入れに入れて、店のすぐ傍の弁当屋へ走った。
「いやあ、助かったよ」
不動産屋の社長はニコニコしながらカウンター越しに預けたパソコンを受け取る。
「来月の決算、どうしようかって思ったよ」
そう言うと社長は声を上げて笑った。
「まあ、パソコン自体はもう買い替えた方が良いかもしれません」
和也は代金を受け取りながらそう言う。
「ああ、じゃあ、パソコン一台、お願いしても良いか」
社長はそう言うと抱えたパソコンをカウンターの上に置いた。
「和也君が面倒見てくれたら安心だしな。任せるから適当なモノを見繕ってよ」
和也は微笑んで、机の上からタブレットを取ると、社長に見せる。
「これくらいのモノで良いと思うので、注文しておきます。数日で届くと思うので、届いたら連絡します」
社長はうんうんと頷くと、カウンターの上のパソコンをまた抱える。
「ありがとう……。とりあえず、税理士に電話入れとくよ。データは助かったってね」
そう言うと社長は店を出て行った。
和也はその社長の背中に礼を言った。
雨は夕方に止み、商店街にも客足が戻っていた。
和也は机の上に散らばった部品を片付けて、別の預かったパソコンを置いた。
今度は近くに住む、デイトレーダーの老人のパソコンだった。
この客は何台かのパソコンを所有しているため、急ぎの仕事ではない。
デイトレーダーはパソコンが無いと仕事は出来ない。
証券会社に電話を入れて株を買うなど、今はあり得ない。
パソコン一台で数億を稼ぐとその老人は豪語していた。
また入口のガラス戸が開き、チリンと音がした。
「いらっしゃいま……せ……」
和也が顔を上げるとそこには佐倉悦子が立っていた。
「あ、すみません……。近くまで来たので……」
悦子は手に持ったパン屋の袋をカウンターの上に置いた。
「良かったら、これ、食べて下さい」
和也は小さく頭を下げると、
「ありがとうございます……」
と礼を言った。
「どうですか……。私のパソコン……」
悦子はカウンターに手を突いて、作業スペースを覗き込む様に見回す。
「あ、ああ……」
和也は作業台の上に置いた悦子のパソコンをタオルで拭いてカウンターの上に置く。
傍にパソコンが置かれた事で、悦子は一歩後退る。
そしてそのパソコンを恐れる様に凝視していた。
彼女にとっては何か恐ろしい情報でも入っている様に見えているのだろう。
和也は息を吐くと、結論を彼女に伝える。
「佐倉さん。大変申し訳ありませんが、お預かりしたパソコンを徹底的に調べましたが、コンピュータウイルス、スパイウエア、遠隔操作の痕跡、盗撮を目的としたハードウエア、その他全てに置いて感染している事実は確認出来ませんでした」
和也の言葉に悦子の呼吸は荒くなる。
「そ……そんな、嘘でしょ……」
和也はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ……。事実です。これは専門家としての見解です。パソコンは完全にクリーンです。安心して使用して下さい」
和也は悦子を安心させようと優しく諭す様に言う。
しかし彼女は納得しなかった。
それどころか彼女はカウンターを強く叩き、身を震わせながら、なおも訴える。
「でも、私は、私にははっきりとウイルスが見えるんです。今も……、今も、この店の中をウイルスが漂っている……」
和也は彼女を突き放すのではなく、まずはこの事実を理解してもらう事から始めなければと感じた。
「とりあえず、このパソコンをこれ以上お預かりする意味がありませんので、お返しします」
そう言うと店の紙袋を取り出して、彼女のノートパソコンを袋に入れた。
和也の言葉はプロとして現実を伝える誠実な助言のつもりだった。
しかし、悦子にとってそれは自らの訴えを完全に否定される「拒絶」以外の何物でも無かった。
悦子は目を閉じて深く息を吸った。
そして再び目を開いた時、その瞳には昨日よりも一層冷たい光が宿っていた。
彼女はカウンターの上に金を置いて、和也が差し出した紙袋をクシャクシャにして抱かかえる。
そして胸元でそのパソコンを抱いたまま身体を震わせ、和也を睨む様に見た。
「わかりました……。パソコンはもう良いです。でも、スマホは……。次はスマホを調べて下さい。きっとスマホはウイルスに感染している筈です」
そう言うと悦子はポケットから最新型のスマホを取り出して、カウンターの上に置いた。
和也は一度微笑むと、一歩引いて丁寧に頭を下げた。
「申し訳ありません。スマホは専門外でして……。私はパソコンの修理とネットワークが専門でして、スマートフォンのOSや内部の解析の知識がありません。お力になれずすみませんが、これ以上は……」
「専門外……」
悦子は寂しさと怒りが混じった様な酷く乾いた声でその言葉を繰り返した。
そして、
「あなたは、私を助ける気が無いんですね……」
そう声を荒げた。
和也はその言葉に大きく息を吐いた。
助ける気が無い……。
そんな事は無い。
だったら、今日彼女のためにやった事は何だって言うんだ……。
和也は一度目を閉じて、笑顔を作った。
「佐倉さん。心当たりの無い事で不安を感じておられるのはわかりますが……、一度、診療内科などにご相談されては如何でしょうか……」
和也のその言葉に、悦子は目に涙を溜めて、歯を食いしばっていた。
そして何も言わずに店を飛び出して行った。
店の中に雨上がりの冷たい湿気と、和也の胸の中に微かに残る不快な違和感を彼女は残して行った。
「専門外……か……」
和也は残された店の静寂の中で、小さく呟いた。
彼は理路整然とした自分の世界を彼女から守ろうとした。
だが、彼女が去った後も、彼の心の中に、何か実体の無いノイズの様なモノが沈殿している様な気がしてならなかった。




