情愛猫
「おはよう」
柔らかく神々しい陽に照らされた彼女は笑顔で朝を告げた。
日に透けたぱちぱち輝く髪の毛に思わず触れたくなるほどに美しい。
「おはよう。今日も早いんだね」
「ふふん、今日も変わらずやることがあるからね」
居丈高に調子よく返してきた。
彼女の言うように変わらず僕たちには毎日やることがある。
仕事に勉強に、新居だから新しいものも買い揃えなければならない。
「昨日話したとこでいいんだっけ?」
「そうだよ。そうだ、途中のお店で朝ごはん買おうよ」
「了解」
朝の空気を吸い込みながら、もくもくと身支度に取り組む。
ふと見ると彼女は髪の手入れに苦戦しているようだ。
つげの櫛を手に取り優しく彼女のつややかな髪を整えてやる。
「えへへ、ありがとう」
「どういたしまして」
はにかんだ彼女が愛おしい。
今日はフィッシュボーンの髪形にしよう。
魚が好きな彼女だからだ。
彼女の耳に触れたい衝動を抑えなんとか終えることができた。
「よし、できたよ」
「うん!じゃあ準備おっけーだね!」
僕がにこやかに頷くと彼女はたたっと揺れる尻尾とともに玄関までかけていく。
こちらを振り返り止まらない楽しさに溢れた声を発する。
「しゅっぱーつ!運転はお願いね!」
「任せたまえ、満足する結果を捧げましょう」
2人して笑いながら家から出立していく。
いつもどおりに、はじめに彼女の職場に送った後、僕も仕事に向かう。
「じゃあまた夕方に!」
手を振り合って見送る。
にこやかに職場に行く彼女はとても可愛らしい。
尻尾を撫でたい。耳を撫でたい。いやだめだ、朝も耐えられたんだ。明日までの約束だったんだ。耐えよう。
震えながら僕自身も職場へと向かった。
よし、彼女とのイチャイチャ時間のため早く仕事を終わらせてしまおう。
爆速で終わらせた。
華の金曜日だ、こんなに早く終わるのも仕方ない。
「おつかれさま、先に上がるね」
「おう、奥さんによろしくなー」
仲のいい同僚に声をかけ、後ろを向かずに手を振る同僚にこちらも手を振り、帰り道につく。
途中で仕事終わりの彼女も拾い買い物へと向かった。
夕陽に照らされた街中はいつ見ても綺麗だ。
買い物もつつがなく終わらせる。
2人して買い物メモを見ながら
「ここにはある?」「いやないなあ」
だとか、
「あったー!」「見つかってよかった!」
なんて賑やかに買い物を済ませた。
買い物メモを見ながら、最終確認をしていると、何か見つけたのか彼女が声を上げた。
「せっかくだしパフェ食べようよ!」
「いいよ。食べようか」
見ると彼女の視線の先にはパフェの屋台があった。
甘いものを食べるのは疲れた体にはとてもいいことだ。
しかも彼女の喜ぶ顔が見れるならいくらでも買おう。
問題なくパフェを注文して近くのベンチに2人して並ぶ。
互いに今日あったことを話したり、明日はどうするかを話したりした。
「可愛いね。クリームついてるよー!」
「え、うそ」
突然言われて慌てて口周りを拭ってみるが取れた気がしない。
クスクス笑っていた彼女がこちらに手を伸ばした。
そっと柔らかい彼女の手のひらがぼくの頬に添えられた。
そのまま指でクリームを取るつもりなんだろう。
とても暖かくて溶けてしまいそうなほど甘い愛情を感じて幸せな気持ちになり、身を任せる。
「痛い」
バチっと突然背中に痛みが走った。
動くたびに皮膚がちくちく痛んでしまう。
「あぁ、はは。大丈夫...?」
目を泳がせて、絶望したような諦観したような、怯えの含まれた声音で彼女は尋ねてきた。
「あー、うん。大丈夫!大丈夫!なんでもないよ!ありがとう!クリームとってくれて!」
「なら、いい、かな?うん」
彼女が僕の異常に気がついていることに目を塞ぐ。
僕が痛みに苛まれてるのを悟られたら恥ずかしい。
よくわからない痛みだが、早めにバレないように病院に行こう。
「じ、じゃあやることも終わったし家に帰ろうよ!」
「わ、わかったよ。帰ろうか!」
車に乗り、エンジンをかけて帰路を辿っていく。
窓から差し込む日向が心地いい。
道が進むごとに痛みが引いていくと同時にどんどん倦怠感が増していく。
「昼寝してていいよ」
「ごめん、ありがとう」
とうに視界もままならない。
ぼんやり流れる外を眺めて、どうしてか寂しさを感じる一時の微睡に落ちていく。
「今日もダメだったなあ」
乗り物に揺られて遠くから声がした。
声がしたんだ。
乗り物の動きが止まり、到着が告げられる。
ふわふわしながらも瞼を開けて、少しでも脳を覚醒させる。
いつもの家だ。
けれど誰だろう、隣にいるこの人は。
職場の人だったか?送ってくれたのだろうか。
「すい、ません、送って、くれて、ありがとう、ございます」
眠気に負けないようにせめて感謝だけは伝える。
「どういたしまして」
目の前にいる眠気で未だ輪郭の定まらない人は、そっけなく震えた声で答えてくれた。
「まだまだ今日も冷えますから暖かくして寝てくださいね」
そのひとはこちらを気遣う言葉をかけて、家のリビングに行くまで僕が歩くのを手伝ってくれた。
とても親切な人だ。また起きた時にお礼を伝えないと。
「温かい飲み物を作ってきますね」
彼女の声が聞こえた。姿も名前もわからない彼女の声が。
力なく僕は頷き彼女はキッチンに消えていった。
心地よい、かちゃかちゃした音の中、重力に負けてソファに寝転んだ。
締め切られたカーテンからはまだ明るいはずだろうの外の光は見えない。
フッと背中に嫌なものが広がっていく。
もう、全てがどうでもよくなった。
「ひどく、疲れたな」
瞼に腕を乗せる。
背中の痛みと倦怠感から逃げ出すように、重苦しい瞼に身を任せて意識を手放した。
「おやすみ」
心地よい食器の音がトンと止まり、
とても愛情深い声が聞こえた気がした。