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ルヴァイン王国・10日と10年の短編集

失恋するまでの10日間〜妹姫が恋したのは、姉姫に剣を捧げた騎士でした〜

初めてかもしれない短編恋愛小説です。短ければ楽というわけではないことを学びました…。


こちらの物語は短編でシリーズ化します。こちらが第一作です。

ルヴァイン王国連作短編第一弾

◆◆◆◆


 ルヴァイン王国の妹姫エステルは、10日後に失恋することが決まっていた。


 二年に渡り王国を悩ませていた魔獣暴走(スタンピード)が、魔獣の王を打ち倒したことでついに終息を迎えた。国中がこの明るい知らせに沸き、事後処理を終えた討伐隊の凱旋の予定が知らされたことで、王都はお祭り騒ぎの様相だ。


 討伐隊は王立騎士団の団員たちで構成されていた。その中には聖剣に選ばれし英雄である正騎士カーク・ダンフィルがいる。出身は子爵家であるものの、見事使命を果たし国を救った彼を下級貴族と揶揄する者はいない。


 エステルが密かに思いを寄せていた彼が、10日後に帰城する。


 短い褐色の髪の下の、空色の瞳を細めながら、いつものようにエステルの頭に大きな手を置いてぽんぽんと撫でてくれるまで、あと10日だ。


 自分の頭を撫でたその手で、姉姫ソフィアのたおやかな白い手を取り、彼がキスをする権利を得るまで、あと10日。


 その事実につきん、と胸を痛ませる己の心が、長年の片思いに終止符を打つまで——あと10日。



◆◆◆◆



 緑の楽園と称される、ルヴァイン王国。


 もともとは深い森だった土地を拓いて興った国は、広い土地と豊かな土壌のおかげで農業立国として名高い。豊富な水源を活かした水路による物流も盛んだ。労働力となる他国からの移民を積極的に受け入れる施策により混血が進み、肌や髪、瞳の色、文化までもが様々な、異国情緒あふれる豊かな国。


 そんなルヴァイン王国には現在、二人の姫がいる。


 姉姫であるソフィアは、王子のいないこの国で王太女として立っており、未来の女王となることが決まっている。黄金色の髪にルビーのような瞳、麗しい美貌と気品もさることながら、学者たちをも唸らせる知性と教養にまで恵まれた様は、まさしく王太女としての素質に優れた賢姫として名高い。


 対する妹姫のエステルは、明るくて活発な姫君だ。父王譲りの深緑の髪に琥珀色の瞳がくるくるとよく動く様は、リスのようで愛くるしいともっぱらの評判だった。幼き頃よりままごとよりも木登りが好きというお転婆ぶりで、物心ついた頃にはすでに剣と馬が相棒だった。年頃になってもドレスや化粧には見向きもせず、未来の女王である姉姫の剣になるのだと、騎士団の訓練に交ざって毎日汗だくになる始末。娘・妹かわいさに、国王夫妻も姉太女も見て見ぬふりどころか、いそいそと見学にまで出向く始末。


「エステルが男だったらなぁ」


 父王が幾度となくぼやいた台詞は、微笑ましい悩みとして王宮内では語り草だ。


「あら、お父様。私が男だったら男子優先の我が王家で、この私が王太子ってことよ? すなわち私が王になるってことでしょう? そんな未来想像できる?」

「う、ううむ……」


 学問は必要最低限、政治や外交といった腹の探り合いは大の苦手、得意は剣術と馬術。そんな者が上に立つ国など、危なっかしくてしょうがない。


「やっぱりこの国はソフィアお姉様でないとダメなのよ。私が男に生まれてこなくて大正解」

「まぁ、うちのニの姫はなんてことを言うのかしら。エステルはやればできる子なのに」

「お母様の言うとおりよ。あなただってきちんとわきまえた上で学べば、きっと立派な女王になれるはずだわ」

「お母様もお姉様は幻想がすぎるわ」


 王族だというのに自分の家族は娘贔屓・妹贔屓が過ぎる。家族に愛されていることは純粋に嬉しいが、何事にも適材適所はあると自覚する程度の頭脳はあるのだ。


 ルヴァインの至高姫——それがエステルの姉ソフィアの二つ名だ。次期女王の座が確約されている姉姫を射止めようと、各国の王族や高位貴族から持ち込まれる釣書と絵姿はひきを切らず、今ではそれを処理する専用の係まで設けられているほど。対してルヴァインのお転婆姫と名高い自分にはただの一件も舞い込まない縁談話。この時点でもどちらが未来の女王にふさわしいかがわかるというものだ。


 申し込みが後をたたない姉姫ソフィアは、王太女という立場からも早めの婚約、結婚が望まれていた。ソフィア自身もそれを理解しているし、あの山のように積まれた釣書の中からたった一人を選ぶだけでいい。結婚は後となるにしても、せめて婚約だけでもと望む声は国内でも大きかった。


 けれど姉ソフィアは、その美しい(かんばせ)を凛と上げて、議会でも堂々と宣言した。


「私は未来の女王としてまだまだ学ばねばならないことがたくさんあります。それを疎かにした状態で王配を選ぶつもりはありません」


 幼き頃から神童と名高かったソフィアは、十三の年からもう議会に出席をしていた。国内の最高学府である王立大学に飛び級で入学したのも同じ頃だ。ちなみに未来の女王としての帝王学は十二歳までに修めている。両親である国王夫妻も、年若いソフィアにあまりに多くの無理をさせたくないと彼女の発言を支持していたため、姉姫のお相手が決まるのは少なくとも大学を卒業する十七歳を過ぎてからのことになるだろうと、誰もが思っていた。


 国の中枢からの王配決定の圧力が一時的にせよなくなったことで、ソフィアが密かに安堵していたことを、エステルは知っている。


 なぜなら姉ソフィアには密かに思いを寄せる相手がいた。そして相手もまた、ソフィアのことを敬愛し、叶うならその手を取れる立場になりたいと強く望んでいることも、エステルはよく知っていた。


 誰よりも姉と彼の近くにいた自分だから気づけた事実は、エステルがいつも姉の乳兄弟という目線以外で彼のことを追いかけていたからこそ、気づけた真実でもあった。



◆◆◆◆



 カークはエステルの姉ソフィアの乳兄弟だ。年は姉姫よりひとつ上で、エステルとは三つ違い。実家はダンフィル子爵家で、後継となる兄が一人いる。


 長男以外の貴族家の子どもたちは、家が代替わりすれば平民となるため、幼き頃より将来の身の振り方を考えるよう教育されている。男子であれば騎士や役人や学者に、女子であれば女官や侍女、家庭教師などを目指す者が多い。もちろん、貴族の嫡子に嫁入り婿入りする手立てもある。


 ソフィアの乳兄弟であるカークには上記に加えて、姉姫の侍従や小間使いとして終生勤める選択肢もあった。


 しかし彼は騎士の道を選んだ。


 理由はソフィアを守り、ソフィアに剣を捧げる忠誠を誓いたかったからだ。


 彼にとってひとつ下の王家の姫は、生まれながらにして守らなければならない宝物のような存在だった。彼女の傍で侍従や小間使いとして仕えるよりも、物理的に彼女を守る剣となり盾となることを強く望んだ。希望通り十三の年には騎士学校に入学し、三年後には騎士見習いとして王立騎士団に入団、さらに一年後には准騎士に叙勲と、順調に我が道を進んでいる。


 このままいけば十八の年には正騎士となり、熱望していたソフィア王太女に剣を捧げる誓いをすることになるだろうと思われた矢先のこと。


「報告申し上げます! 南部の都市ロータスにて魔獣が発生! 至急騎士団の派遣を要請したいとロータス領主より緊急の伝達です!」

「報告申し上げます! 国宝である聖剣が微かに光り始めました。聖剣の覚醒が近づいているということは、すなわち魔獣暴走(スタンピード)の発生が近づいている予兆にほかなりません!」


 数百年に一度訪れるといわれる魔獣暴走(スタンピード)がルヴァイン王国を襲った。



◆◆◆◆



 魔獣暴走(スタンピード)、それはルヴァイン王国の開拓の歴史と密接な関係がある災害だ。この世界には魔獣と呼ばれる存在がいる。通常の獣と違って刃物で斬りつけても時間をおいて再生し、元の形状に戻ってしまう厄介な存在だ。


 深い森を根城としていた魔獣たちを駆逐し国を切り開いてきたルヴァイン王国は、彼らからすれば棲家を奪った悪役だ。その恨みの念が晴れないためか、数百年に一度、魔獣の王と呼ばれる存在が息を吹き返し、その数を増やして人間を襲う現象が、歴史上何度も繰り返されてきた。


 ただし人間側にも何も手立てがないわけではない。


 ルヴァイン王国には魔獣専用となる聖剣が国宝として受け継がれていた。この剣であれば魔獣を斬っても再生することなく、絶命させることができる。ただし聖剣は使用する人間を選ぶ性質があり、英雄と呼ばれる者しか鞘より抜くことはできない。そして英雄は叙任されている騎士の中から現れるというのが通例だった。


 魔獣暴走(スタンピード)により数を増やした魔獣を、騎士団総出で足止めしつつ、英雄が聖剣で一体ずつ仕留めていく。それを繰り返しながら最奥にいる魔獣の王を引きずり出し、とどめを指す。魔獣の王を殺せばそれ以上魔獣が増えることはない。殲滅が完了すれば、魔獣の王の血は数百年の眠りにつき、聖剣もまた長らくの休息に入る、というのがこの国の言い伝えだ。


 魔獣暴走(スタンピード)が起こる前には、聖剣が少しずつ発光し始めると言われている。その輝きが最高潮に達したとき、英雄となる者が現れ、鞘から剣を引き抜くことができる。


 魔獣の発生の報告と、聖剣が発光し始めた報告と。二つの報告を受けて国王は騎士団に命令を出した。


 聖剣を扱う英雄を、何を置いても探し出すようにと。


 一ヶ月の後、聖剣は誰もが直視することができぬほどに強い光を発するようになった。


 聖剣の準備が整ったことを受け、王立騎士団はまず王都に配属されていた正騎士たち全員に聖剣の抜剣を試させた。だが誰一人として剣を鞘から抜くことはできなかった。


 次の手段として、地方に配属されている騎士たちが試すことになる。ただし王国全土に散らばっている騎士を王都に呼び戻すのは困難な話だった。むしろ聖剣を各地に持っていった先で英雄を探す方が早い。


 かくして聖剣による英雄探しの旅が計画された矢先、過去の魔獣暴走(スタンピード)に関する文献を読み漁って国難に対応していたソフィア王太女が、ひとつの仮説を提唱した。


「叙任は何も、正騎士だけの特権ではないでしょう。准騎士も当てはまります。地方を回る前に、王都にいる准騎士たちにも試してもらった方がいいのではないでしょうか」


 広大なルヴァイン王国を回り英雄を探し出すのには途方もない時間と労力がかかる。どんなに急いだとしても三ヶ月を費やすことになる旅の前に、念の為近くにいる准騎士で試すという案は、例え過去の英雄全員が正騎士であったとの記録が残されているにしても、却下するほどの愚策とも言えない。


 試すだけ無駄ではと多くの者が思いつつも、そう面倒な話でもない。旅の準備を進めながら、ついでの要領で年若い准騎士たちが聖剣の間に呼ばれ、ひとりずつ抜剣を試みた。


 准騎士の中には、二ヶ月後に十八歳の成人を迎える予定のカーク・ダンフィルもいた。


 ソフィア王太女の乳兄弟として、彼女を守る剣となることを公言していた彼が聖剣に触れた瞬間、聖剣が纏っていた光が彼の腕を取り巻いた。


 渦巻くような光をまとった彼の手は、豪奢な鞘から聖剣をするりと引き抜いた。光をまとった剣と、まだ少年と呼べる面影が抜けきれない准騎士の姿に、その場にいた全員が圧倒される。


 ルヴァイン王国に再び英雄が降臨した瞬間だった。



◆◆◆◆



 カークはエステルの初恋の人だ。


 彼は姉ソフィアの乳兄弟として、いつもエステルたち姉妹の傍にいてくれた。エステルにも女の子の乳兄弟がいたのだが、三つのときに重い病を得てしまい、乳母とともに宿下がりをしたまま儚くなって、それっきりとなった。カークの母親であるダンフィル子爵夫人は、乳母の任が解かれた後も姉の侍女としてそのまま王宮に残っていたため、エステルにとってはソフィアとカークが遊び相手だった。


 ルヴァイン王国の王位は男子優先だが、男子がいない場合に限って女子でも国王の座に就くことができる。母である王妃はエステルを産んだ後体調を崩し、これ以上の子は見込めないと医師から診断を受けていた。そのため長女のソフィアは王太女としての教育が始まっており、エステルとはレベルが一味も二味も違う勉強をしていたため、一緒に遊ぶ時間はそう簡単には取れなかった。子どもがほとんどいない王宮で、もっぱらエステルの相手をしてくれたのは姉ではなくカークの方だ。


 三つ年上の男の子であるカークをエステルが真似てしまったのか、それとも生まれたときから活発だったエステルの素地のためだったのかは不明だが、二人は室内で遊ぶよりも庭を駆け回ることを好んだ。外で遊びすぎた功名か、エステルが五歳のときには広い王城の庭の見取り図がすべて頭に入っていた。


「カーク、今日は東の宮殿の中庭に行こう! 藤棚があるところよ」

「いいよ、エステル。でも走りすぎて転ばないでよね。あとで俺が母さんに叱られるんだから」

「そんな間抜けなことしないもん」

「嘘つけ。三日前に膝を擦りむいたの誰だよ」

「それは……っ。でも、カークが怒られたらかわいそうだから黙ってたのに、告げ口したのはカークじゃん」

「当たり前だろう? エステルは王女様じゃないか。怪我したまま放っておけるわけないだろう」

「でも、あんなの唾つけとけば治るって、いつも言ってるじゃない」

「俺は男だからいいんだよ。エステルはそんなでも一応女の子だろう」

「一応じゃなくても女の子だもん」

「じゃぁそれらしく振る舞いなよ。ソフィア様みたいに」


 あの頃、カークは周囲に大人がいない場所ではエステルのことを呼び捨てにし、気安く話しかけてくれていた。けれどソフィアに対してはいつどんな場所でも敬語を崩さなかった。


「ソフィアお姉様は王太女だけど、私は普通の姫だからいいの!」

「普通の姫ってなんだよ。普通じゃない姫なんていないぞ」

「もう! カークってばうるさい! 先行くよ」

「あっ! 待てよ、エステルっ! 急に走るなって言っただろう!」


 あの頃、ソフィアに対しては丁寧に接していたカークが、エステルの前では普通の友達のように振る舞ってくれることが嬉しかった。姉でなく自分が彼の特別になれたようで。


 それがエステルの最大の勘違いと気づくのは、しばらく後のこと。


 あるとき迷い込んだ騎士団の修練所で。騎士の存在を知り、面白がった大人たちに模造の剣を渡され、エステルはたちまち剣術に夢中になった。自分に付き合う形でカークもまた騎士たちと交流するようになった。庭で遊ぶよりも彼らのところに入り浸る日が増え、騎士たちの姿を見聞きしているうちに、身近な彼らの存在がいつしか憧れに変わった。


 正騎士となった彼らは、生涯においてただ一人に忠誠の剣を捧げることが許される。その人を守る剣となり盾となり、その人のために戦うことが彼らの(ほまれ)。現在正騎士となっている者の多くは国王夫妻のどちらかに剣を捧げている。


 女であるエステルは騎士にはなれないが、娘に甘い父王の許可もあり剣を習うこと自体は許された。いっぱしの騎士気取りの自分は、剣を捧げるのなら未来の女王たる姉のためと初めから決めていた。若い准騎士や騎士見習いたちの中にも、姉姫であるソフィアの成人を心待ちにしている者が多かった。


「私はお姉様の剣になるわ。妹としてお姉様を剣で支えるのよ」


 騎士の誓いを公に立てることができなくても、国のために努力を重ねる聡明な姉のために、自分は得意の剣を極めようと、訓練にも力を入れた。


 そしてそれは、エステルだけのことではなかった。


「俺は将来騎士になることに決めた。それで、ソフィア様を守るんだ」


 十歳になったカークはそう宣言し、騎士学校を目指す決意を固めた。転機となったのは姉姫ソフィアの偉業だ。九歳という年齢でとある伯爵家の税務記録からその家の不正を暴き、そこから芋蔓式に王都で幅を利かせていた高利貸しの商会が潰れるという事件があった。高利貸しは裏で没落した貴族子女を娼館や他国に売り飛ばして利益を得ていた事実も発覚した。年端もいかぬ王女の手柄は国中でもてはやされることとなったが、そんな中、取り潰しとなった元凶の伯爵家の一派が、逆恨みでソフィア王女を襲撃するという凶行に走った。幸い護衛の騎士の手によって王女は守られたが、ソフィアが襲われた場面に運悪くカークも居合わせた。


 目の前で乳兄弟である王女が襲われた出来事が、カークにとっては相当な衝撃だったのだろう。


 それまではエステルに付き合う程度の気持ちで騎士団に足を運んでいただけの彼が、このときを境に大きく態度を変えた。騎士学校に入学することを希望し、お遊び感覚でしかなかった訓練にも積極的に取り組むようになった。気楽な妹の立場であるとはいえ、一国の姫であるエステルには決められたスケジュールがあり、一日中騎士団の修練所にいるわけにはいかない。カークはいつでもエステルを優先してエステルと行動をともにしてくれていたのが、空いた時間は別行動をとって、ひとりで修練所に入り浸るようになった。


 カークの変化はそれだけではなかった。それまでエステルと二人のときはぞんざいな態度で接してくれていたのが、ソフィアに対するときと同じ、丁寧な言葉遣いで接するようになった。突然できた距離感にエステルは不満で、何度もカークに言葉遣いを元に戻すように頼んだが、カークは首を縦に振らなかった。


 二人の距離感が微妙に揺らいだまま時間はあっという間に過ぎ、十三歳になったカークは全寮制の騎士学校に入学するため、ひとり王城を去っていった。



◆◆◆◆



 エステルがカークと再会できたのは三年後のこと。彼が騎士学校を主席で卒業し、騎士見習いとして王立騎士団に入団を許されたときだった。


 十三歳になったエステルは相も変わらず騎士団に混ざって訓練に明け暮れていた。さすがに庭を走り回って膝を擦りむく年ではないが、代わりに鍛錬で作った切り傷や打ち身が万年創となっていたので、実質は変わらないのかもしれない。


「カーク? カークよね、久しぶり!」

「エステル……様?」


 騎士見習いの入団式の場で、記憶の中よりも大きくなったカークの姿を見つけて思わず駆け寄った。


「エステル様、ずいぶんと大きくなられましたね」

「それはこっちの台詞よ! カークもずいぶん身長が伸びたのね。もうソフィアお姉様より大きいんじゃない?」

「……騎士学校に入学する前には、もうソフィア様の背を抜いていましたよ」

「そうだった? お姉様、背が高い方だから、カーク負けてたんじゃなかったっけ」


 記憶を辿ろうにも三年以上も前のことだ。身長なんて細かいことまではさすがに憶えていない。


「まぁいいや。カーク、無事騎士見習いになったのね、おめでとう」

「ありがとうございます。エステル様は相変わらず騎士団に出入りされているのですね」

「当たり前よ! 私は将来、ソフィア女王陛下を守る剣になるんだから」

「エステル様、お言葉ですが、それは俺たちの役目です。エステル様がされる必要はありません」

「カークってば、久しぶりに会えたっていうのに侍女や家庭教師と同じこと言うのね。つまんない」


 最近ついたばかりの家庭教師はいい人ではあるのだが、「もっと王女様らしくなさってください」と口をすっぱくして言ってくるのが玉に瑕だ。マナー講師も兼ねているので余計に口うるさくて、今も彼女の目を盗んで抜け出してきたばかりだ。


 ここに来ることは、エステルの父も母も認めてくれていた。姉のソフィアなど、面白がってたまに見学に来るくらいだ。王太女の登場となれば騎士たちの士気も上がり訓練にも身が入る。十五歳という若さながら大学に通っている忙しい姉姫はそう滅多にお目にかかれる存在ではないので、周りの騎士たちからも次はいつ来るのかと矢のような催促を受けることもしばしばだった。


 みんなが自分でなく姉のソフィアのことを心待ちにしている。それが気に食わないわけではないのだが、なんとなく面白くない。


 そんなことまで思い出してしまい、エステルは思わず顔をむくれさせた。


 すると、エステルの頭上にカークの手が伸びてきた。


「俺はあなたがここで頑張っていることを知っています。剣を握るなと言いたいわけではないんです」


 彼の手は二、三度ぽんぽんとエステルの頭を撫でて離れていった。


「エステル様、すみません、集合時間なので俺は行きます。またお会いできて嬉しかったです」

「カーク……」


 彼の目線を追えば、空色の瞳が弧を描いてエステルを見下ろしていた。記憶の中よりも高い位置にある瞳と視線を結ぶには、エステルは首をかなり上げなくてはいけなかった。


 そのまま小さく手を挙げ、カークはエステルの前から去っていった。走る後ろ姿に昔の面影を少しだけ感じる。


 彼に撫でられた頭に手をやれば、そこだけが熱を帯びたように温かかった。髪が乱れているのはいつものこと、それでもほつれた髪に彼が触れたのだと思えば、途端に顔に血が集まるのを感じた。


(カークってば、あんなにカッコよかったっけ……)


 すでにない彼の背中を思い出せば、赤くなった頬の熱がいつまでも冷めず、ひとり途方に暮れる。


 自分の中で長年温めていた気持ちに名前がついたことを、自覚せざるを得なかった。



◆◆◆◆



 カークが入団してから、エステルはますます騎士団の修練所に足を運ぶことになった。さすがに騎士見習いの彼と肩を並べて訓練するわけにはいかないが、同じ空間にいれば自然とカークの姿が目に入り、タイミングが合えば言葉を交わすことはできる。


 騎士学校を主席で卒業したとあって、カークの実力は同年代の見習いたちの中でも頭ひとつ抜けていた。元々王女の乳兄弟として王城暮らしで、小さい頃から遊びがてら騎士たちの教えを得ていた身でもある。本人の素養もあったのだろう、騎士団の最短コースをなぞって、一年後には准騎士に叙された。


「カーク、准騎士おめでとう! すごいじゃない!」

「ありがとうございます。これで夢に一歩近づけました」

「うふふ、カークの夢もソフィアお姉様を守ることだものね。私と一緒だね」

「……まぁ、そうではありますね。そんなことよりエステル様、あそこにあなたの家庭教師の姿が見えますが、ひょっとしてまた勉強をサボって抜け出してきたのでは?」

「げ……! 嘘でしょ、捲いたと思ったのに!」

「相変わらずですね。勉学を通じて姉姫様を支えるのも、妹としてなすべきことなのではないですか?」

「そういうカークだって侍従にならずに騎士になってるじゃない。お姉様の助けになるならそういう道もあったのに」

「俺は別に勉強を苦手にしていたわけではありませんよ。准騎士の試験にはペーパーテストや口頭諮問もありますからね。それもすべて最優秀でクリアしています」

「嘘でしょ、カークって頭も良かったの!?」


 てっきり勉強が嫌いだから、侍従や文官でなく騎士を目指したのだとばかり思っていた。そう告げれば「俺のことをなんだと思っているんですか……」と額に手を当て項垂れた。


「エステル様! やっぱりここにおいでだったのですね! 午後は淑女教育の時間だとご存知のはずですよね」

「うわぁ! ごめんなさい!」


 家庭教師からさらに逃げようとすれば、咄嗟にカークに腕を掴まれ捕獲された。


「ちょっと、カークってば何するのよ。逃げられないじゃない!」

「逃げてはダメでしょう。あなたはルヴァイン王国の王女なんですから。少しは姉姫様を見習いましょうね」

「ダンフィル卿のおっしゃる通りですわ。エステル様には未来の女王陛下の妹君として、完璧なマナーを身につけていただかなくてはなりません」

「だって、あれ苦手なんだもの!」

「苦手だからこそ学ぶのですわ。出来ていたら私だってここまで申しません」

「あんなの全部、ソフィアお姉様がパーフェクトに出来るんだからいいじゃない。私が出来なくても誰も困らないわ」


 口を尖らせてそっぽを向けば、家庭教師に「エステル様、我儘も大概になさいませ」とさらに憤慨された。


 淑女教育など自分には必要ないものとエステルは本気で思っている。ソフィアを剣で支える自分は、誰かと結婚するつもりはない。そんなことをすればソフィアの傍にいられなくなってしまう。


 それは即ち、姉を守るカークの傍にもいられないということ。


 一年前に自分で名付けたこの気持ちは「恋」という。その気持ちが向かう先は、最短で准騎士となり、確実に出世コースを進んでいる空色の瞳の彼だ。この一年でエステルの身長も姉に匹敵するくらい伸びたが、彼もまた一段と大きくなり、ますますその瞳が遠くなった。


 それでも、このままエステルが剣を振るってさえいれば、同じ空間にいるカークの視界に入ることができる。そう信じて毎日のように修練所に足を運ぶのだが。


 自分と家庭教師とカークが話している先が少し騒がしくなったかと思うと、見知った姿が優雅にこちらへと歩んできた。


「ソフィアお姉様!」

「エステル、やっぱりここにいたのね」


 光沢のあるスモーキーピンクのデイドレスを着たソフィアが麗しい足取りで近づいてきた。エステルの横ではカークが騎士の礼を取り、背後で家庭教師が略式のカーテシーをする。


「カーク、それにモリス夫人も、どうぞ楽にしてくださいな。少し時間ができたので久々にエステルの勇姿を見たくて寄らせてもらったの。突然の訪問で申し訳なかったわ」

「いえ、騎士団一同、ソフィア王太女殿下のお出ましとあればいつでも歓迎です」


 顔を上げたカークが、空色の澄んだ瞳をソフィアに向けた。まっすぐな揺るぎない視線の先で、姉ソフィアもまたさらに唇を綻ばせる。


 二人が見つめ合ったのはわずかな時間のこと。ソフィアはすぐに家庭教師のモリス夫人に視線を移した。


「でもモリス夫人がここにおいでということは、エステルのお迎えに来たのかしら。それならエステルの訓練は見られないわね」

「ううん、そんなことないわ。お姉様が来てくれたのなら……」


 このまま訓練を継続すると告げようとした矢先、モリス夫人が「王太女殿下のおっしゃる通りでございます」と割り込んだ。


「エステル様は今から淑女教育のお時間でございまして。お戻りが遅いため私がお迎えにあがったのです。どうぞ殿下からも、妹姫様に午後の予定を恙無く進められますよう、ご助言いただければ幸いにございます」

「ちょっと、モリス夫人、なんてこと言うの!? 私はこのまま訓練を……」

「そう。エステル、事情はよくわかったわ。それで、ルヴァイン王国の二の姫としてあなたが今からすべきことは何かしら」

「それは……」


 姉ソフィアの美しさは見た目だけのことではない。彼女の一言一言が威厳に満ち、聞く者を自然と従えるような強さがある。瞳も唇も弧を描いているものの、それが真の笑顔ではないことは、十五年も妹をしていればわかるというもの。


「……わかりました。戻ります」

「あなたが聞き分けのいい素直な子で私も嬉しいわ」


 ソフィアの恐ろしいところは、これが皮肉でなくて本音なところだ。誰もがもてあまし気味のお転婆姫さえ、彼女にとっては素直でかわいい妹になる。


 そんな姉に乞われてはエステルとしても従わざるを得ない。


「カークも今から訓練なのかしら」

「いえ、自分は剣術の訓練を終えたところです。休憩が終われば、午後は走り込みと筋トレのメニューですので、見学されても面白みはないかと」

「カークが頑張っている姿を見るのはいつだって楽しいわ。でも、先に正騎士の様子を見学しないわけにはいかないわね。あとで覗きにいくわね」

「ソフィア様がお見えになるとなれば、皆のやる気も上がります。ですが、お忙しいでしょうからどうぞご無理なさらないでください」

「ありがとう。では、あとでね」


 姉はルビーのような瞳を二、三度瞬かせ、正騎士の修練の場へと去っていった。その後ろ姿を、カークがじっと眺めている。


「さぁ、エステル様。姉姫様もああおっしゃっていましたよ」

「わかってるわよ。戻ります」


 家庭教師のモリス夫人に重ねて言われ、エステルはカークから目を逸らした。彼はこのまま姉の姿が見えなくなるまで、その背中を追い続けるのだ。自分がここにいる意味はもうない。


 踵を返そうとしたとき、「エステル様」と呼び止められた。自分を見ることなどないと思っていた空色の瞳が、姉の背中ではなく、エステルを見ていた。


「これをどうぞ」

「え……」


 咄嗟に手を差し出せば、エステルの手のひらに飴玉が置かれた。


「午後のお勉強、頑張ってくださいね」


 飴玉を見つめる私の頭上から声が降ってくるとともに、大きな手が近づく気配があった。


 ぽんぽん、と二度繰り返される、優しい感触。


(また撫でられた……)


 その手を名残惜しく追えば、不意に彼と視線が絡んだ。けれどそれは一瞬のこと。軽く礼をしたカークは、そのまま姉とは反対の方向に走り去っていった。


 先ほどまでモヤモヤしていた気持ちが綺麗に溶けて、エステルの胸の中にも清々しい青空が広がったかのようだった。今なら嫌いな淑女教育だって楽々こなせてしまいそうだ。


 飴玉を握りしめながら、ついつい溢れてしまう笑みを我慢することができない。こんなことで簡単に浮上してしまうのだから、恋って本当に厄介だ。



◆◆◆◆



 エステルがどんなに思いを募らせても、カークが剣を捧げる相手は姉。彼はソフィアのことが好きなのだ。


 そしてその思いはおそらく一方通行ではない。姉のソフィアが、学生だからと婚約者の選定を先送りにしている本当の理由を、エステルは知っている。


 姉もまたカークに思いを寄せている。完璧な淑女として名高い彼女の、美しいルビーの瞳は、たまにやってくる修練所でいつもカークを探している。その視線の先に妹である自分がいることが多いものの、それ以上に己の乳兄弟の姿を目で追っている。エステルがなぜ気づいたのかと言えば、自分もまた無意識にカークを見ているからだった。


 様々な視線が混じり合う中で、姉の瞳はいつだって冷静だ。それでもその強さと向けられる数は雄弁だ。


 もしかしたら姉の片思いかもしれない、そう思ったこともある。それにカークは子爵家の次男。未来の王配となるには身分が低すぎた。


 けれどあるとき、エステルは聞いてしまった。カークが同僚の准騎士に打ち明けている言葉を。


「俺には手が届かない方だってわかっている。だから騎士を目指すことにしたんだ。騎士になって武功を上げれば、王女の隣に立てる可能性も出てくるんじゃないかって。万が一の、奇跡のようなことだとはわかってるさ。でもその奇跡が起こせるとしたら、侍従よりも文官よりも騎士だ。俺はその奇跡に賭けたい。彼女に傷の一つつけることがないよう、彼女が守りたいものも含めて、すべてを守ってやりたいんだ。だから俺は正騎士になって、ソフィア様に剣を捧げる」


 エステルに聞かれていたことを、カークは気づいていないだろう。なぜなら彼女はその言葉を聞いてすぐに修練所から逃げ去り、初めて訓練をサボってしまったのだから。



◆◆◆◆



 そのまま季節は過ぎ、無事大学を卒業したソフィアにそろそろ王配の選定をという声が大きくなり始めた矢先、南の領地で魔獣暴走(スタンピード)が発生した。


 国宝たる聖剣が輝きを増し、そして聖剣は、英雄に准騎士カーク・ダンフィルを選んだ。


 准騎士が英雄に選定されるのは異例のこと。しかしカークはあと二ヶ月で成人し、正騎士への昇格も間違いなしと言われていた逸材だ。聖剣の選択は騎士団内でも好意的に受け止められていた。


 魔獣討伐に待ったなしの状況で、即座に英雄に出動してもらうために、前倒しでカークの正騎士の叙任式が開かれることになった。この日はさすがのエステルもドレス姿で列席した。


 正騎士の叙任式では、国王陛下から剣を賜ることになっている。カークの場合、それに加えて聖剣の貸与式も同時に行われることになった。本来であれば国王が執り行うべき一連の儀式は、この日、王太女であるソフィアに委ねられた。魔獣暴走(スタンピード)の発生の知らせに急遽立ち上げられた対策本部の長にソフィアが任命されたことを受けての、こちらも異例の抜擢だった。


 グレーの准騎士の隊服から、ダークグリーンの正騎士のそれへと衣装を変えたカークは、ソフィアから騎士の剣を受け取り、続けて聖剣を授けられた。


 まばゆい光をまとわせた聖剣が鞘ごとカークの手に渡った途端、聖剣の光が彼自身をも取り巻いた。立ち上る光は、聖剣を手渡すソフィアにも降り注ぐ。


 カークは聖剣を受け取ったその手で、すぐさま鞘からそれを引き抜いた。再び跪き、柄の部分をソフィアへと向け、剣先を自身の胸へと当てる。


 正騎士に許される、剣を捧げる儀式だと、誰もが理解するのと同時に目を見張った。ただの騎士の剣ではない、国宝である聖剣を、王太女であるソフィアに捧げたのだ。


 剣を捧げる儀式は、何も正騎士の叙勲の際に行わなければならないものではない。騎士自身がこの人のためにと決めたとき、自由に誓うことが許されている。捧げられる相手は生涯にひとりきり。


 その貴重な機会を、カークは英雄として立ったこの場で、ソフィアを相手に選んで捧げた。


「ルヴァイン王国王立騎士団正騎士、カーク・ダンフィルは、この剣をソフィア王太女殿下に捧げます。生涯に渡り貴女様に忠誠を誓い、貴女様の剣として誇り高く戦います」


 彼の熱意を汲んだかのように聖剣の光が一際大きく揺らめいた。カークから立ち上る光は、そのままソフィアの身体も包み込んだ。一対の荘厳な彫刻(レリーフ)のごとき光景に、その場にいたすべての者が万雷の拍手でもって祝福した。


「あなたの剣と忠誠を受け取ります。カーク・ダンフィル卿、この国難にはあなたの力が必要です。そして必ずやその忠誠を携えたまま、再び私の元に戻ってくるよう、命じます」


 ソフィアの呼吸が珍しく震えていたことを、すぐ傍にいたエステルだけが気づいていた。


 聖剣は魔獣を斬ることができる唯一の剣。故にカークが身を投じる戦いの場所は、魔獣が蠢く最前線だ。誰よりも前に立ち、誰よりも多く剣を振るわねばならない彼には、誰よりも危険な任務が課されるということ。


 それを命じねばらない姉の心の痛みはいかほどか。ただ立っているだけの役割で許されたエステルですら、身が裂かれそうなほど辛いのに。


 慌ただしく出立の準備がなされる騎士団の修練所へ、叙任式が終わってすぐに駆け出さずにはいられなかった。慣れない長い裾のドレスと、履き慣れないヒール靴が煩わしかった。けれど着替える間も惜しいのだ。なぜならカークたちはすぐに城を発ってしまう。


 父王から与えられた黒馬の最終の手入れをしていたカークを見つけるのに、それほど時間はかからなかった。


「カーク!」

「エステル……様っ」


 驚く彼に駆け寄り、軽く息を整える。彼の空色の瞳がふと細められた。まるで何か眩しいものを見ているかのような、見たことのない表情だった。


「カーク、その……」


 こんなときになって、まともな言葉が出てこない。ここを旅立てば魔獣を殲滅するまで帰ってこられない。いくら聖剣に選ばれた英雄だからといって、彼が無事である保証はないのだ。


 周囲には出発の準備に勤しむ大勢の騎士たちの姿があった。今回の討伐隊に参加するのはカークだけではない。騎士たちの剣で魔獣を絶命させることはできなくとも、足止めにはなる。カークが魔獣にとどめを刺しやすいよう、彼らもまた剣を振るう。


 けれど騎士たちとカークの違いは明確だ。彼らは休むことが許されるし、失礼な言い方をすれば逃げることも断ることもできる。けれどカークにはそれが許されない。聖剣の持ち主である彼はこの重責から(のが)れられない。仮に彼が剣を手放すことが許されるとするなら——それは命を散らしたときだけだ。


 その事実に今更ながらに気づいて、エステルは息が止まりそうだった。喉が塞がれてかけらの声も出せない。


 思わず俯いた先に彼が腰に穿いた聖剣が映り、その存在が——憎いと思ってしまった。


(なぜカークでなければならなかったの。なぜ彼を選んだのよ……っ!)


 ルヴァイン王国の姫として、決して抱いてはならない思い。国を守る聖剣に楯突く声をあげるなど、許されることではないとわかっていながら、渦巻く思いを制御することができない。


 目の前にある聖剣を奪って、地面に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。魔獣の暴走から我々を守ってくれる唯一無二の剣を。カークが、エステルが恋する彼が、姉に捧げたその剣を。


 言葉を失ったエステルの頭に、ふと温かな気配が降りてきた。カークの手がエステルの頭をぽんぽん、と撫でていた。


「どうやら俺は、すごく運がいいみたいです」


 彼の手が作る影の先で、空色の瞳が揺れた気がした。逆光になってよく見えない。


「万が一の奇跡を願ってはいたけど、まさか英雄になれるなんて考えてもいなかった。これで俺の夢が叶うかもしれないと思うと……心から嬉しいんだ」


 そして彼は——大きく破顔した。


「だからエステル、俺を笑顔で見送ってほしい」


 何度も見上げた彼の表情の中に、懐かしい景色が見えた気がした。城中の庭という庭を探検して走り回ったあの頃。カークはいつもエステルを後ろを追いかけてきてくれた。


 いつの間にか彼は自分を追い越し、そしてずっと先まで走り抜けようとしている。


(あぁ、そうか……)


 いつかのカークの言葉を思い出す。万が一の奇跡を起こすために騎士になるのだと、そう言った。王女の隣に並び立つために武功を上げたいのだと、そのために彼女に剣を捧げたいのだと。


 最後の願いはすでに叶った。聖剣は姉ソフィアに捧げられ、ソフィアもまた彼の忠誠を受け取った。


 次にカークが願うのは——姉ソフィアの隣に立ち、彼女が導く国ごと、真の意味で守れる存在になること。


 英雄という肩書きは、彼にとって奇跡を起こせる唯一無二の力だ。子爵家という身分では不可能だった彼の夢を、その肩書きが叶えてくれる。


「……わかった」


 今理解したのではない、ずっと前からわかっていたこと。


 彼は姉を愛し、姉もまた彼のことを慕っている。


 エステルは込み上げる思いに蓋をして、唇の端を吊り上げた。


「絶対無事に帰ってきてね、約束よ」

「……あぁ」


 カークの手が伸びて、また私の頭を撫でる。幼い子どもにするようなこの行為が、なぜか今は恨めしい。


 けれどこの手は、ソフィアでなくエステルだけに向けられるものだった。彼が無事凱旋し、その褒賞で姉の婚約者に据えられたら、もう与えられることもなくなるだろう。


 これが最後になるかもしれない、彼の手。自分は今、うまく笑えているだろうか。


 カークと別れ、城のバルコニーから旅立つ騎士団を見送る。最前列で黒馬に跨る彼と聖剣が一際輝いているのを、皆が熱狂的に讃えている。


 隣では姉が凛とした表情で見送りに臨んでいた。彼女の胸中には何があるのだろう。自分の隣に並び立つために、奇跡を起こして英雄となった彼のことを、誇らしく思っているのだろうか。


 エステルの思いを他所に、カークは旅立っていった。そして、二年という長き月日に渡り、国の英雄であり続けた。



◆◆◆◆



 魔獣暴走(スタンピード)を殲滅させた英雄カーク・ダンフィルと聖剣、それに彼を支え続けた騎士団は、熱狂的な出迎えの中、凱旋した。パレードの先頭にいるのは二十歳になったカーク、その人だ。


 この二年の間に彼の体躯は一段と逞しくなっていた。けれど澄み切った青空のような瞳だけは変わらない。帰還式に列席していたエステルは、姉姫の前に膝をつく彼を一心に見つめていた。


 二年も姿を見なかったのだ。自分の気持ちはもう彼から離れ、胸の痛みも和らぐのではないかと思っていた。


 けれどそんなことはなかった。彼への思いは空へと伸びる蔓のようにただ真っ直ぐに、今なお育ち続けるばかりだ。


 嬉しさと、ほんの少しの痛みを抱くエステルの前で、カークは聖剣をソフィアに返納した。役目を終えた聖剣は聖なる光を失い、普通よりも豪奢な剣といった(おもむき)を見せるだけだった。


 受け取ったソフィアが声を震わせる。


「聖剣と英雄であるカーク・ダンフィル卿、それに騎士団の皆様方の帰還を心から祝います。……戻ってきてくれてありがとう」


 この二年の彼らの戦いの情報は最優先で王城に届けられていた。英雄がいるとはいえ戦況は決して楽なものではなく、むしろ過酷な日々の連続だった。南部の都市は魔獣に蹂躙され壊滅状態に陥り、戦線は一進一退の様相を見せた。戦う騎士や巻き込まれた領民の中には、身体の一部を失った者、心を病んだ者、遺体となって戻ってきた者や、遺品しか残されなかった者も多くいる。


 劣悪な状況の中、聖剣と聖なる光をまとったカークは、騎士たちの長として国民の希望として、逃げることなく怯むことなく剣を振い続けたそうだ。彼がいたからこそ討伐隊は戦意を喪失することなく奮起し、彼がいたからこそ魔獣の王は倒され、ルヴァイン王国は救われた。


 そんな英雄に、国はどのようにして報いるべきか。魔獣との戦いに勝利したそのときから、国の中枢で検討されてきた最優先事項。


 この二年の間、適齢期を迎えていた姉姫ソフィアは、婚約者の選定を保留にしていた。魔獣との戦いに敗れれば国が滅びるのだ。未曾有の国難を抱えた状態で、自身の婚姻の話など進められるはずもない。他国からの申し出にはそのような理由を述べてすべて断りを入れている。


 さらに二年に渡る魔獣の討伐に係る戦費は、途方も無い額に上っていた。壊滅状態に陥った南部の復興に割く予算もはかりしれない。さりとて勇猛果敢に戦った騎士たちへの褒賞や、負傷者・遺族への手当を惜しむわけにもいかない。


 しばらくは緊縮予算が敷かれることになるだろう。国民の生活にも皺寄せがいくことになる。彼らが抱く不満を逸すためにも、誰もが熱狂するような慶事が必要だ。


 たとえば、英雄と王女との婚姻。それも、英雄が乞う形でなされれば最適だ。


 話題の英雄と王家との結びつきは、国と国民の心をひとつにし、来るべき厳しい時代にも立ち向かう勇気と熱意を生み出すことだろう。


 そんな策略の元に流布された噂は、当然エステルの耳にも入っていた。



◆◆◆◆



 光を失い、眠りについた聖剣を受け取ったソフィアは、それを父王へと手渡した。国を統べる王は(こうべ)を垂れる英雄に対し、朗々と宣言した。


魔獣暴走(スタンピード)という国難を救った英雄、カーク・ダンフィルよ。その見事な働きに対し、最大の栄誉を与えよう。まずはそなたに侯爵位を授けることと致す」

「有り難き幸せにございます」


 ダンフィル子爵家の次男として、継ぐべき爵位を持たなかった彼に与えられた、高位貴族の称号。それも当然のこと、むしろまだ軽すぎるのではないかと、周囲は期待する。


 まずは侯爵位と言った国王の次の言葉を、誰もが待った。ただエステルひとりだけが、耳を塞ぎたい思いに駆られながら奥歯を噛み締めていた。


「さらに、英雄であるダンフィル卿には今後も国の中枢で、魔獣の被害を得た地域の復興を担うことに助力を願いたい」

「勿論にございます」

「ひいては王家とそなたのつながりをより一層強固にするために、我が娘を娶ることを許そうではないか。幸い王家には二人の珠玉の姫がいる。そなたの望む王女を選ぶがよい」


 王の言葉に周囲がどよめいた。皆の視線が姉妹に交互に注がれる。


 黄金の髪にルビーの瞳を持つ、至高姫と名高いソフィア王太女。


 ルヴァイン王国の象徴である緑の髪に、明るい琥珀色の瞳を持った、剣を嗜むエステル姫。


 多くの視線に晒されながら、エステルは胸元で手を握りしめた。この10日の間に自分の気持ちに区切りをつけるつもりでいた。お転婆と称されても自分は王女だ。己の(つたな)い思いに蓋をし、姉と恋する人とを祝福するだけの心は、十分持ち合わせているつもりだった。


 エステルの初恋は今まさに儚く砕け散ろうとしていた。大勢の耳目が集まる中で、この胸ひとつに育ててきた、空を突き抜けるほどの恋の蔦に、鋭い剣を突き立てて切り落とさなければならない。


(あぁきっと、私はこのために剣を学んできたのね)


 男に比べればひ弱な自分の腕でも、ひと思いに切り倒すことができるだろうか。この思いは自分の半身。傷を得て血を流すのは自分の心だ。


 けれど傷を負うことなど覚悟の上で剣を持つと決めたのは自分だ。姉姫を守る剣となることを望んだのは、決して生半可な気持ちからではない。


 長年の恋心は、この10日間のカウントダウンの間にも消えることはなかった。きっとこの先も消えないのなら、せめて姉と彼の恋を見届けよう。


 そう思いながら、胸に当てた拳を解いたとき。


「恐れながら、正騎士カーク・ダンフィルは、ルヴァイン王国の妹姫、エステル王女との婚姻を望みます」


 跪いていたカークが顔を上げ、空色の瞳をまっすぐに、ただただエステルを見つめた。




◆◆◆◆




「え……」


 思わず溢れた声は、近づいてきたカークの長身が作る影の中に、静かに落ちていった。


 琥珀色の瞳を最大限に見開くエステルに対し、カークは己の手を差し伸べた。その手はエステルの頭でなく、解いたばかりの胸元の手に触れる。


「ずっとこの日を夢見ていたんだ。君の隣に並び立てる日を。君にこうして、自分の思いを告げられるときを」


 エステルの手を取ったまま、カークは彼女の前で膝をついた。


「エステル、どうか俺と結婚してほしい。君が守りたいものを、俺も一緒に守らせてほしい」

「どう、して……。だって」


 あなたは姉が好きではなかったのか——そう問いかけた彼女の舌はもつれるばかりで、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。


 その続きを拾うかのように、カークがまた口を開いた。


「エステルがソフィア様のために剣を持つと言うから、俺も同じことをしようと思った。本当は俺がエステルを守りたかったけど、エステルは黙って守られたりなんてしてくれないだろう? だから、自分もソフィア様に剣を捧げれば、姉君を守るエステルと一緒にいられると、そう思ったんだ。でも、俺は随分と欲深くて」


 微かに細められた空色の瞳に見覚えがあった。二年前、城を発つ直前に彼が見せた、不思議な表情。


「どうかすると君に触れたいと思う気持ちを、頭を撫でることでごまかすことが、これ以上できそうになかった。そんなときに降って湧いた英雄の話だ。子爵家の次男でしかない自分が、エステルの隣に並び立てる最大のチャンスだと思った」


 別れが近づいていたあのときは気づけなかった。この表情の意味に。眩しいような、愛おしいものを見つめるような、そんな瞳。


「エステル。俺は子どもの頃から、君のことが好きだった。君にとって俺はどんな存在? 敬愛する姉姫の乳兄弟で、幼馴染で……それ以上の関係は望めないだろうか」

「そんなこと……っ」


 ないと叫ぼうとした瞬間、エステルは隣に立つソフィアの存在を思い出した。そうだ、姉もまたカークに思いを寄せていたはずだ。


 はっと姉姫を見遣れば、彼女はいつもの凛とした表情の中に、優雅な笑みを浮かべていた。


「ソフィアお姉様……。お姉様はっ」

「エステル、いつも言っていたでしょう? あなたの聞き分けがいい素直なところが大好きだと。あなたが私のために剣を持つと言ってくれたから……私も、あなたの身も心も、すべてを守ってみせると決めたのよ」


 そしてソフィアは慈愛の表情のまま、深く頷いた。


「私のかわいい妹姫、どうか幸せになってちょうだい。私の乳兄弟をよろしくね」

「お姉様……」


 これはいったいどういうことだろう。姉はカークのことが好きなのだとばかり思っていたのに。今彼女は、確実に自分の背中を押してくれている。


 混乱するエステルの手が、さらに強く引かれた。


「エステル、返事を聞かせてくれないか」


 褐色の髪と空色の瞳が小さく揺れる。いつだってエステルを温かく、ときに揶揄うように見つめていた瞳が、今はどこか不安げだ。跪いて、エステルの手を取って。まるで愛を乞う騎士の姿そのものだ。


 いや、まるで、というのは違う。カークは本当に自分の返事を待っていた。突然押し寄せた深い思いの波に呑まれて、眩暈がしそうだ。


 自分の気持ちに「恋」と名付けたあの日から、育ててきた彼への気持ち。10日前には失恋を覚悟した、エステルの秘めたる心。


 空へと伸びた巨大な蔦が、今、満開の花を咲かせていた。空の色と溶け合って、それは光のようにこの身に降り注ぐ。


 瞳の奥をつんと押し上げる感情を押し除けて、エステルは子どもの頃のままに朗らかに笑った。


「私も、ずっとカークのことが好きだったの」


 エステルの告白を受けて、カークは彼女の手に素早くキスを落とした。


 その感触に酔う暇もなく、エステルは立ち上がった彼の胸に抱き寄せられた。



◆◆◆◆



 侯爵位を得た英雄カーク・ダンフィルと、ルヴァイン王国の妹姫エステル王女の結婚式は、半年後という異例の早さで執り行われた。南部を治めるロータス伯爵家は今回の魔獣との争いで運悪く後継を失ってしまった。領主の意向もあり、カークが伯爵家の養子となって今後の復興の指揮をとっていくことになった。魔獣暴走(スタンピード)により壊滅状態に陥った領地の復興の旗印として、英雄と王家の姫の夫婦以上に相応しい存在はない。


 二人の婚姻の予定を前にして、ひとつの問題が持ち上がった。王太女であるソフィアに後継がいないまま、妹であるエステルが王家を離れてしまうのはよろしくないのではという意見が、国の重鎮たちから持ち上がったのだ。


 魔獣暴走(スタンピード)対応のために他国からの見合い話はすべて断った後。今から王配探しを再開するにも、国を跨ぐ婚姻ともなれば様々な条件のすり合わせが必要になり、準備に数年を要する国事となる。さりとて南部の復興は待ったなしの状態で、英雄の活躍の熱気冷めやらぬうちにさっさと話を進めてしまいたい。


 姉姫の婚姻は無理でも、せめて婚約だけでも済ませておくべきだ。他国に声をかけている時間はないため、国内で相手を見繕うよりほかないだろうと、国の事情でソフィアの相手探しが急ぎで進められた。


「エステルとカークの婚姻に水をさしたくありません。今すぐ婚約してくれる方であればこの際どなたでもいいわ」


 あれほど王配選びに慎重だったにもかかわらずそう言い放った姉姫の、失った恋が新たな恋に絡め取られるまで、あと10日——。




◆◆◆◆

姉姫の物語「失恋してからの10日間」はこちら。 https://ncode.syosetu.com/n8442ke/

姉姫の恋の話やヒーローの話を短編で執筆予定です。


初めての挑戦にしては頑張ったんじゃない?と思われた方は、ぜひ評価やリアクションで励ましていただけると嬉しいです。

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妹姫の視点でお話が進んでいくので、もう読みながら切なくて切なくて、ものすごく心が揺さぶられました。良いお話だったぁ…好きです。もう、絶品。こういうお話を読むと、これこれ!この為に読んでるのよ!という気…
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