4-2. アニスは子爵の屋敷を訪れる
「お、大きい」
ザイアス子爵の屋敷に到着したアニスが、到着して最初に漏らした一言がそれだった。
子爵の屋敷は、ザイアスの街の北側の小さな丘の上に建っている。
街の東西の道より北側は、子爵の屋敷の他にも騎士や裕福な商人の家が並ぶ高級住宅地となっていて、アニス達は通常は足を踏み入れることがない。だから子爵の屋敷の正確な位置も広さも知らずにいた。
しかし今回、道に心配はなかった。子爵がアニスのためにわざわざ迎えの馬車を出してくれたからだ。そのためにアニスは家を出た瞬間から緊張し続けることになったのだが、何も考えずとも屋敷の門を潜り、玄関の前まで到達できていた。
玄関から先はアニスを出迎えた執事に連れられ、応接間と思しき部屋へと通される。
「こちらでお待ちください」
途方に暮れるアニスを一人残して執事は去って行った。
アニスは一所懸命に両親から教わった礼儀作法を思い出す。
「確か、立ったまま待たないといけないんだっけ」
部屋の中は綺麗に整えられ、高級なテーブルにソファ、壁には絵画が飾られており、これまで見たこともない贅沢なものだったが、緊張していたアニスの目にそれらは入って来なかった。
アニスが次にやることは子爵が部屋に入って来たら、跪いて畏まること。
それを間違いなく行えるように、アニスのすべての注意は扉に向けられていた。
今か今かとその時を待つアニス。
実際にはそれほどの時間を待たされてはいなかったのだが、アニスにはとても長い時間に感じられた。
コンコン。
扉を叩く音で、アニスはその時が来たことを知る。
扉が開いて、脚が見えたら膝を突こう。
そう身構えるアニスが見たのは薄桃色の布。ん?脚が見えない。
何かと思って視線を上げていくと、白い手袋をした手が視界に入る。
あれ?女の人?
予想と違う出来事に礼儀作法を忘れ、思わず顔を見てしまう。
アニスが目にしたのは、薄桃色のドレスに身を包み、長い巻き毛の髪を綺麗に整えた少女。でも、その顔には見覚えがある。
「イラ?」
どうしてイラがここに?
呆然とするアニスに、イラが微笑んでみせる。
「あら、アニス。そんな態度では、礼儀作法は落第点を差し上げないといけなくなりましてよ」
そう指摘されて、ハッと思い出す。
状況は掴めていないが、やるべきことをやらねばと、アニスは床に跪いて畏まる。
「コッペル村のアニスです。お呼びにより参上いたしました」
顔を下に向けたまま、サマンサから教えられた通りに名乗りを上げる。
「良く来てくれました、アニス」
イラはアニスがこれまで聞いたことのない、凛とした張りのある声で応じた。
だが、次に発した言葉は、いつも通りの口調だった。
「あら、やればできるじゃない。もう良いから顔を起こして立ち上がって頂戴」
「えーと、あの、よろしいのでございますでしょうか」
相変わらず混乱しているアニスは、イラにどう話し掛けたものか分からず、言葉遣いが乱れまくる。
そんなアニスの様子を見て、口に手を当ててウフフと笑うイラ。
「もうここからはいつものように話してくれて構わなくてよ。前に言ったでしょう、貴女は私のお友達だって」
「え?あー、確かに」
あの時は二輪車を値引かせる口実かと思っていたが、それだけではなかったのだと漸く思い至る。
「それで、イラは貴族ってことなんだよね?」
「そうですけど、その前に立ち上がって少し下がって貰えて?中に入れなくてよ」
「あ、ごめん」
アニスは言われて、自分が扉の前の結構邪魔なところで跪いていることに気が付いた。
急いで立ち上がり、後ろに下がって場所を空ける。
するとイラが優雅に部屋の中へと進み入り、さらにその後ろから一人の男性が入って来た。
「その人は?」
男性が貴族の場合、どう話したものか悩ましいと思いつつ、まずはイラに尋ねる。
「悪いのだけど、この男に貴女の装備を見させて貰えるかしら?詳しい説明は後でするわ」
アニスは男性の魔法属性から何を調べるのか想像がついたものの、貴族の家で嫌と言える訳もなく、素直に頷いた。
「オドウェル、お願い」
イラにオドウェルと呼ばれた男性は前へと進み出て、アニスの装備を検分し始める。そして装備の一つ一つを確認するごとに、手にしたクリップ付きの下敷きに挟み込んだ紙に何やら書き込んでいく。
すべての装備を確認し終えると、オドウェルはその下敷きをイラに渡して部屋から出ていった。
「それではお茶を飲みながら説明しましょうか。そちらに座っていただける?」
イラに促されるまま、アニスはソファに座る。
そのアニスの目の前のソファにイラも腰掛ける。すると、侍女が二人の前に紅茶と菓子の盛り皿を並べた。
「私が良いと言うまで人払いをして貰えて?」
「畏まりました」
お辞儀をすると侍女も出ていき、部屋の中はイラとアニスの二人だけとなった。
「さて、何からお話したものかしら」
紅茶を一口飲んで、カップを置いたイラが口を開いた。
「そうそう。私の正式な名前はイリアーナ・スペンサー。ザイアス子爵のアルバート・スペンサーは私の父になるわ。まあ、貴女はいつも通りにイラと呼んでくれて構わなくてよ」
「ねえ。何でイラは私をここに呼んだの?」
イラの言葉に従い、いつもと同じ口調でアニスは単刀直入に尋ねる。
「この家に来た貴女が私を見てどんな表情をするのか見てみたくて」
イラはウフフと笑う。
「えっ、何?驚いた私を見るために、こんな面倒なことをやったってこと?封書の封蝋は本物だったよね?」
それはイラの父を巻き込んでいることを意味している。
娘の悪戯に付き合うほど貴族は暇人なのかとアニスは呆れ顔になる。
「あら、信じた?勿論、冗談に決まっていてよ」
イラは再度ウフフと笑う。
「お父様の名前で貴女を呼び出したのは、お父様も貴女に用事があるからよ。後で実際に会って貰うわ」
「えっ、そうなの?」
アニスはイラと話をして終わりだろうと考えてホッとしていたところだったのだが、子爵に会わねばならないと聞いて、先程の緊張感が蘇ってきた。
「あら、アニス。顔が強ばっていてよ。大丈夫、お父様は気さくな人ですし、礼儀作法にも五月蠅くないわ」
「だけど子爵様なんだよね。私達が失礼なことをしたら、その場で切り捨てられても文句は言えないって話の」
「貴女、どこでそんな話を仕入れてきているのよ。良識のある貴族なら、そんなことはしなくてよ。ねえ、貴女は共和国のことは知っていて?」
突然持ち出された他国の話に、アニスは急いで記憶を掘り返す。
「えーと、王国の南にある海岸沿いの小さな国だっけ?」
「ええ、その通り。共和国には身分制度が無くて王家も貴族もいない、いるのは平民だけ。お父様は若い頃にその国に留学していたことがあるわ。だからお父様は平民と話をする時は、自分の貴族としての身分は重要視されていないのよ。分かって?」
イラはわざわざ父親の昔話を持ち出してアニスを安心させようとしてくれた。そんなイラの立ち振る舞いも、父親の影響があるのかも知れない。
「子爵様とは普通に話ができそうなことは分かったけど、王国の他の貴族はどうなの?」
アニスの問い掛けに、イラは顔を曇らせる。
「そうね。中にはお父様みたいな方もいらっしゃるけど、昔の栄光に縋りつこうとしている連中の方が多いわね。だから今、王国の貴族社会は大変なことになっているのよ。あっ」
と、それまで終始優雅な態度を取ってきたイラが慌てた顔になる。
「ごめんなさい。つい口が滑ってしまったわ。その話はお父様からすることになっていたのに。私からは聞かなかったことにしておいて」
「ちょっと待ってよ。子爵様から貴族社会のゴタゴタについて聞かされるってこと?私、今すぐ帰った方が良いんじゃないかと思えて来たんだけど」
「帰るなんて言わないで頂戴。貴女をそれに巻き込むつもりではないのよ。本当だから、それは信じて」
ますます慌てるイラを見て、アニスの中に悪戯心がムクムクと湧いてくる。が、そもそも貴族の特権を行使すればアニスを足止めすることなど容易い話だ。それなのにイラはそうした素振りをみせず、一所懸命に説得しようとしてくれている。
であるならば、イラの話を信じようとアニスは考えた。
「分かったよ、イラ。子爵様と話はするから。それで良い?」
「ええ、ありがとう、アニス。本当に助かるわ。ここで貴方を帰らせてしまったら、お父様に合わせる顔が無くなってしまうもの」
イラは心底ホッとした様子になる。
「それで、お父様とのお話の前に幾つか確認したいことがあるのだけど、質問しても良いかしら?」
「良いよ、何?」
アニスは直前、慌てた様子のイラを見ていたために、警戒心が薄れていたのかも知れない。なので、次に来たイラからの問い掛けに顔が強張るのを止めることができなかった。
「ねえ、アニス。貴女、ゼペックという名の人物を知っていて?」
ザイアスの街には子爵以外の貴族はいないので、イラは日頃は身分を隠して神殿学校に通っているのです。勿論、一部の人達はイラのことは知ってますけども。




