記憶喪失
目を開くと、そこは暗い部屋の中だった。
起き上がろうと手を付くと、フカフカとした感触があり、そこが絨毯敷きであるのが分かる。
ぼんやりとした照明の灯りの中、回りを見回すと広いどこかの洋館のリビングのような部屋で、暖炉の上に動く物があるので自然に目をやると、それは金時計の振り子が回る動きだった。
時間は、10時前ぐらいを示している。
これだけ暗いのだから、夜の10時ぐらいかと瞬時に思い、気配を感じて見回すと、回りには幾人かの人が、絨毯の上に転がっているようだった。
目が段々に慣れて来て、見通しが利くようになり凝視すると、結構な人数が倒れているのが分かる。
…そもそも、どうして自分はこんな所で寝ていたのだろう。
男は、こうなる前のことを思い出そうと眉を寄せたが、一向に思い出せない。
それどころか、名前さえもあやふやな感じで、混乱した。
名前…オレは、誰だ?
無意識に頭に手をやると、その手首に見慣れない腕時計のような物が巻かれてあるのが分かった。
文字盤はなく、数字だけが「6」と書いてあった。
滑らかな銀色の金属だったが、取ろうとしても、ぴったりと手首に密着していて取れそうになかった。
むきになって触っていると、数字の書いてある部分が蓋のように開き、下には小さなテンキーと、液晶画面があって、現在の時刻を表示していた。
…なんだって言うんだ!
男は、イライラとポケットを探った。もしかしたら、財布などがあって身分証などが入っているかもしれない。
だが、何も見付からずに、途方に暮れて体を見下ろすと、胸には「6司」と、名札のような物がついているのが目に留まった。
そうだ、オレは「司」…だが、名字はなんだった?
思い出せない。
司は、一人パニックになりそうだった。
すると、脇で倒れていた男が呻いた。
もしかしたら、見覚えはないが何かオレの事を知っているかもしれない。
司は、急いでその男を揺すった。
「すみません、起きてください!ここがどこか分かりますか?」
相手は、うーんと唸って目を開いた。
気付かなかったが、端正な顔つきで、年齢は上のようだが果たしてどれぐらい上なのか、想像出来ない容姿だった。
若いと言われれば若いが、かなり歳上だと言われたら歳上だろうという不思議な姿だ。
相手は起き上がって、回りを見回した。
「…なんだ?ここは。私はなぜここに居る?」
司は、その言葉にガッカリした。この男も知らないのか。
「分かりません。気が付いたらここで。あの…オレ、何も思い出せなくて。自分が何者かも名前も、やっと思い出したぐらいで…。」
言われて、相手は眉を寄せた。
「…言われてみたら、私も何も思い出せない。名前は、神(じん)…と胸に書いてあるから、そうなんだったと今思い出したが…。」
オレと同じ。
司は、失望して神(じん)の名札を見た。そこには、「1神(じん)」とふり仮名付きで書いてあった。
神は、ため息をついて、立ち上がった。
「とにかく、他の者達も起こそう。見たところ外傷もないようだし、皆気を失っているだけだろう。もしかしたら、誰か何か知っているかもしれないしな。私はこちらから起こすから、君はそっちから起こしていってくれないか。」
神は、そう言うとさっさと薄暗い中他の倒れている者達の方へと歩いて行った。
司は、自分もまだ訳が分からずパニックになりそうだったのだが、そんな事も言っていられず言われるままに、他の者達を起こすために立ち上がって、手近な人から揺すって起こして行った。
結局、全ての人を起こしてから、神があちこち歩き回って電気のスイッチを探し出し、それを入れると天井のシャンデリアが一斉に点灯して、パッと明るくなった。
そこは、思ったより美しく手入れされた、洋館の一室だった。
おかしな所と言えば、暖炉の上に洋館には不似合いなテレビのモニターがぶら下がっているぐらいで、窓際に重厚なソファが設置してあり、調度は大変に高級そうな洋館らしい感じだった。
後もう一つ、不自然な所があった。
それは、暖炉の前辺りに、ぐるりと円を描いて、たくさんの椅子が並べられている事だった。
その椅子は、確かに他の調度と比べても同じ風潮の物で、木造りでしっかりとした布張りの高級そうなものだったが、それでも円になった置いてあるのは異常だった。
次々に目覚めて行く中でそんなことを思っていた司だったが、神が声を掛けて来たので、そちらを向いた。
「司君。皆、目が覚めたようだ。全部で私達を入れて20人だな。」
司は、神を見た。
「司でいいです。神さん、誰かこの状況を説明できる人が居ましたか?」
神は、首を振った。
「誰も。皆何も分からないと言うんだ。」
すると、あちらで座り込んでいた、30代半ばぐらいの気の強そうな女性が言った。
「あの、ここはどこですか?私…頭を打ったのか何も思い出せなくて。」
胸元を見ると、名札には「16美奈子」と書いてある。
「ええっと…多分、名前は美奈子さんだと。名札がついてるんで。でも、オレ達も何が何だが…名前さえ、名札がついててやっと思い出したぐらいで。」
美奈子は、ハッとして名札を見下ろして、フッと肩で息をつくと、頷いた。
「私も。今言われて美奈子だったって思い出したわ。でも、フルネームが出て来ない…いったい、何があったのかしら。」
他の人達も、困惑したように自分の胸の名札を見下ろしていた。
多分、みんな同じように名前が思い出せないでいたのだろう。
神が、回りを見回した。
「いろいろと思い出せない事が多いのだが、ここは来た事があったのか…分からないが、どこか覚えがあるような気もするのだ。だが、自分の名前もハッキリ思い出せないのに、気のせいとしか思えない。君達の中で、誰か分かる者が居たら挙手してくれないか。」
男女入り乱れて多くの人が居たが、皆困惑したままで誰も手を上げなかった。
それにしても、この神という男には、どこか従わなければという気持ちにさせられる。
ハッキリとした物言いと、他を黙らせる威圧感が半端なかった。
神は、誰も手を上げないのを見て、息をついた。
「…そうか。では、どうしてここに居るのか、そもそも記憶がないだけで自分でここへ来たのかも、誰も答えられないという事だな。」
神は、考え込む顔をした。全員が、ただただ困惑して他の人の顔を見ているが、自分の名前すら分からなかったのだから、今目の前に居るのが前からの知り合いなのか、今思っている通りに全く面識がないのか、判断する術がなかった。
「…ここから、出てみます?」後ろに居た、「2奏」という名札を着けた、二十代後半ぐらいの男が言った。「じっとしていても始まらないでしょう。窓から見えてる景色は、なんだか知らない感じですけど、ここから出たら分かるんじゃないでしょうか。ほら、塀の向こう側まで行けば。」
言われて、皆の視線が窓の方へと向いた。
窓の外は真っ暗だったが、この部屋の照明が外へと漏れ出していて、少し向こうは見通せた。
芝が敷き詰められた庭が見えたが、その向こうに、微かに白い、塀らしきものが見えていた。
神が、頷いた。
「…そうだな。じっとしていても始まらないだろう。出口を探そう。玄関ホールがあるはずだ。」
皆、顔を見合わせていたが、確かにここでじっとしていても何も変わらないのだ。
20人の男女は、どうしてこんな場所に居るのか分からないまま、両開きの大きな扉を開いて、暗い廊下へと足を踏み出した。