羽々斬、臥せる事
「この子は病がちで、目も手も離せなくて」
流行りの銘仙をきりりと着熟した夫人は、傍らの娘の肩を抱き、瞳に憂いを浮かべる。
確かに幼い娘の顔色は酷く悪く、ぐったりと夫人に凭れかかり、小さな眉間に皺を寄せ目を伏せていた。
「貴方様は軍人様ですもの。とても頑健でいらっしゃるのでしょうね」
お母上はきっと、誇らしく思っていらっしゃることでしょう、と夫人は寂し気に微笑んだ。
「この子を───小夜を丈夫に産んであげられなかったのは私の罪業なのでしょう。それに巻き込んでしまった娘が、哀れで、」
ふと、娘が目を開けた。
丸く大きな瞳と、視線が合う。
黒目がちの愛らしい黒目は、年にそぐわぬ諦念に染まっていた。
このような目を、知っている。
害獣の毒餌を誤って食らった猫と同じ目だ。
何に縋ることも出来ない、死にその身を曝す者の目だ。
直ぐにその瞳は瞼に隠された。
夫人の目を見る。
涙に濡れる女の目が、真っ直ぐに向けられた。
この目を知っている。
餌を待つ犬の瞳だ。
この夫人の求める餌は───
【羽々斬、臥せる事】
首堂十束は弟達の通う燎常高校より入電を受けた。弟達のうちの一人、羽々斬が酷く体調を崩したとのことだった。病院へ担ぎ込んだという。双子の弟達は病弱で、こうした連絡は珍しくない。とはいえ、高校に入学してからは初めてのことだった。帝都の冬が堪えたのかもしれない。
見上げる空は霞み、雪が降りしきる。
ほう、と息を吐けば、白く濁り、消え失せる。脇を通っていった子ども連れの夫人達は、肩を寄せ合い、縮こまりながらの道行きだ。軍靴で雪を踏み締めながら、十束は羽々斬が運び込まれた病院───結城医院に向かう。
具合を悪くしたのは羽々斬だが、片割れの状態に布都は酷く取り乱しているだろう。これもいつものことだ。何もかもを共にする双子だが、何故か具合を悪くする時は片割れずつだった。羽々斬が臥せれば布都はこの世の終わりの如く嘆き悲しみ、布都が臥せれば羽々斬は微笑みながらも片時もその傍を離れない。実家でも大騒ぎしたものだ。さぞかし教師達も迷惑したことだろう。
医院は軍の詰め所に近い。軍医も匙を投げた重傷患者を運び込む先で───何しろ十束自身ももげた腕を繋ぐ際に世話になった───少々奇矯だが、確かな名医が在中している。どんな悲惨な有様の重傷患者や死にかけの重病人を前にしても、笑みを絶やさない。血塗れの白衣と相俟って、付いた渾名が、『血笑い菩薩』。妖怪染みた菩薩だ。
血笑い菩薩への手土産に饅頭を、羽々斬達には熱い甘酒を抱えて、十束は結城医院の門を潜った。
訪いの言葉を口にするまでもなかった。
看護師が忙しく行き交う中で、その内の一人が十束を目にするや否や、腕を引っ掴み、
「首堂少尉ですね?双子さんの兄上」
病室はこっちだ、と促されついて行く。看護師の様子からして何か弟達がしでかしたのだと察しがつく。
「…羽々斬か、布都か、面倒を?」
「羽々斬君は肺炎を拗らせております。若いので悪い菌の巡りが良いのが問題ですが、まぁ快癒するでしょう」
「では布都が」
兄弟愛が過ぎます、と看護師は呆れ返った。
「レントゲンを一枚撮るにも大騒ぎ。母に縋りつく幼子のよう」
そして病室の扉を開ける。途端に啜り泣く聞き慣れた声がした。
「弟さん───布都君の方をどうにかしてください。───邪魔です」
百戦錬磨の医療者は端的に切り捨てる。申し開きが出来るはずもなく、苦笑うしかない。十束は寝台で静かに眠る羽々斬と、その脇に突っ伏して泣く布都へと歩み寄る。
「布都」
「はばきり、あにさま、おれをおいていかないで、」
「布都」
びくりと肩を震わせ、布都は漸く顔を上げた。涙に濡れた睫毛と真っ赤に腫れた目元は常よりも彼を幼く見せていた。恥も外聞もなく泣いていたのだからそうも見えるだろう。
「とつかのあにさま」
「あぁ。羽々斬は肺炎で、休息が必要だ」
「…はい」
「静かに、黙って、泣け。医者や看護師の指示には従え。それが出来ないのなら出て行け。良いな?約束しろ」
「……はい、とつかのあにさま…」
布都は鼻を啜りながら、改めて自身の片割れ小指をそっと握る。
眠っていた羽々斬が、不意に目を開けた。頰は赤く、熱が高いのは明らかだった。傍らの布都を見、そして十束を見、目元を緩めたのも束の間、ごほごほと苦しげに咳き込む。
呼吸にも濁った音が混じり、肺炎という診断は確かだ。
「羽々斬、苦しいな。辛いだろうが、医師や看護師の言うことをよく聞いて養生しろ」
「ごほッ、ぐ、げほ───あにさ、ま」
「無理に喋らなくて良い。眠れ、大事にしろ」
羽々斬は苦笑しながら、無言で泣く布都の頭を撫で、そして温和しく瞼を閉じた。その額を子どもの頃のように撫でてやれば、はにかみながら微笑んだ。
額は熱かった。
───死ねば熱もなくなる。
物と同じ温度になった者共を知っている十束は、熱は生の証だと思い込んでいる。過ぎれば死に至る、それは充分に分かっているが、温いのであれば、まぁまだ大丈夫だと思っている。東亜に赴いた経歴を持つ同業者には、東亜の熱病は酷く怖ろしいのだと叱られた。死体は冷える前に腐る、蛆が涌く。死んだ身体が冷たいだのと嘆く暇などない、と。まだまだ見識が狭いのだ、とその話を聞いて思ったものだが。
手土産の甘酒を一先ず布都に飲ませ、医師への饅頭は看護師に手渡した。
病人の居る場に長居は無用。布都については、羽々斬の病室の隅に寝かせて貰えるように手筈を整えておいた。
十束が諸々の手続きを済ませた時だった。
「───せんせいッ!さよが、小夜が!」
一人の夫人が細腕に娘を抱き抱えて飛び込んできた。医師を呼ばう声は最早悲鳴だった。奥から慌てて結城医師が飛び出し───その口端には餡子が付いていたが───小夜という娘を抱えて診察室へと引っ込んでいった。
「…また、小夜ちゃん具合が悪くなったのかい」
「しかし奥さんはいつもあんな調子で心配して───先に奥さんの神経が参ってしまうよ」
看護師達の雑談を聞くとも聞かぬともにいた十束は、診察室から啜り泣く夫人の声を背に、その場を去った。
「黒切准尉のご夫人と娘御だよ」
「黒切准尉…」
「なんだい、御同胞だから知っているかと思ったんだけどねぇ」
羽々斬の入院は長引き、時折訪う内に、恩ある医師、『血笑い菩薩』、結城光一郎と茶を飲む機会を得た。その中で出た黒切という准尉の姿を思い出そうとして、十束は難儀していた。あまり他人に興味がない。関わりのある上司や部下、同輩は流石に覚えているが、黒切某とは繋がりがない。口の中で何度か名を転がし───そして漸く思い出す。
瓶底眼鏡を掛けた、陰気な雰囲気の男だ。真面目、というよりも規則に従順、悪く言えば規則に依存しているような、と評されていたように思う。
「娘さん───小夜ちゃんが身体が弱くてねぇ。今入院しているんだよ」
「それは可哀相に」
「黒切夫人は付きっ切りでね。…正直なところ、夫人まで倒れられそうで私は嫌なのだけれど」
「帰してしまえば良いでしょう」
「布都君も帰して良いかな?」
「…言って聞かせましょう」
「まぁ羽々斬君は快方に向かっていて、布都君も温和しいから良いのだけれど、黒切夫人はねぇ…どうにも危うい」
「病の子を持つ親は心を痛めて寄り添うのでは?」
「神経をやられているよ、あれは」
「…脳病ですか」
「うん。子に執着し過ぎている───ううん、何というか。…病児を持つ親を沢山見ているけれどね、あれはどうにも───」
結城医師の歯切れは悪い。薄くなった額をぺちりと叩き、老医師は鼻息一つ。団子に手を伸ばしたところに、看護師が駆け込んできた。
「先生、小夜ちゃんが───!」
瞬間、医師は軍人よりも機敏に動いた。
十束は団子を仕舞い、棚に入れて老医師の書斎を後にする。そして本来の目的の弟達の様子見に向かう。
看護師が慌ただしいのは、小夜という少女の容態が大分悪いからだろう。持ち直すと良いが、と思いつつ、羽々斬の病室の扉を開けば、羽々斬は身を起こして本を読んでいるところだった。布都は片割れの寝台に潜り込み、暢気に寝息を立てている。流石に一つの寝台に育ち盛りの男子二人は狭そうだが、双子は欠片も気にしていないだろう。
「あにさま、来てくれたのですね」
「あぁ、今日は随分具合が良いようだな」
「はい。昨日は院内を散歩などしました。少々肺が痛みますが、初めの頃に比べれば良くなったものです」
十束は面会者用の椅子に座り、羽々斬の額に手を伸ばした。確かに熱は無い。
「ふふ、小さい頃に臥せった時もこうしてくださいましたね」
「あの頃も今も、病には何も出来ないが」
「弱っている時は心細いものです。あにさまと、とうさまの手は嬉しかったなぁ」
「でもね、あにさま。布都は良いのです。これは僕で、僕はこれなので。しかし普通、病児にべたべたと手を触れ、縋りつくような、縛りつけるような真似は致しません」
何の話を始めるのか、と十束は思いつつ、待つ。こうした突拍子も無い話の始まりもいつものことだ。
「昨日の院内散歩で───小夜という少女に会いました。診察を終えて、母親と医師のお話が終わるのを待っているところだとか。小さな、可愛らしい女の子ですが、病がちということで度々入院しているそうです」
「あぁ、その娘御については私も聞いている」
「彼女は自分の事で心を痛める母を心配していました。そして母の苦悩となっている自分に罪悪を感じているようでした」
「……」
「聡い子です。子どもは大人が思うより、周囲を理解しています。『頑張ってお薬を飲んでいるのに、よくならない』といって、嘆いていました」
「体質だろうか」
羽々斬は柔らかく、しかし慈悲の無い笑みを浮かべた。
「その後、結城医師とのお話を終えた母親とも話したのですが、あの母親、陶酔しきっていました」
「陶酔?」
「はい、何だか御酒でも召したのかと思う程、初対面の僕にも娘の病を聞かせて泣いて」
あにさま、と母親の愛も何もかもを知らない弟は首を傾げた。
「マニア・オペラティヴァ・パッシヴァ」
「…何だって?」
「自分を虐める質の妙な脳病…詐病の類いのことです。僕の頭に閃いたのは、それでした。しかし…娘さんにはその様子はありません」
「しかし、そう直感した、と」
「はい。どういうことでしょう」
十束は───何かを掴みかけていた。
以前、黒切夫人と病院で会話したことがあった。娘を抱き抱えた細腕を見かねて、娘を運ぶ手伝いをした時のことだ。
「この子は病がちで、目も手も離せなくて」
流行りの銘仙をきりりと着熟した夫人は、傍らの娘の肩を抱き、瞳に憂いを浮かべる。
確かに幼い娘の顔色は酷く悪く、ぐったりと夫人に凭れかかり、小さな眉間に皺を寄せ目を伏せていた。
「貴方様は軍人様ですもの。とても頑健でいらっしゃるのでしょうね」
お母上はきっと、誇らしく思っていらっしゃることでしょう、と夫人は寂し気に微笑んだ。
「この子を───小夜を丈夫に産んであげられなかったのは私の罪業なのでしょう。それに巻き込んでしまった娘が、哀れで、」
ふと、娘が目を開けた。
丸く大きな瞳と、視線が合う。
黒目がちの愛らしい黒目は、年にそぐわぬ諦念に染まっていた。
このような目を、知っている。
害獣の毒餌を誤って食らった猫と同じ目だ。
何に縋ることも出来ない、死にその身を曝す者の目だ。
直ぐにその瞳は瞼に隠された。
夫人の目を見る。
涙に濡れる女の目が、真っ直ぐに向けられた。
この目を知っている。
餌を待つ犬の瞳だ。
この夫人の求める餌は───
「───黒切夫人、一体、何を飲ませようとした」
女は弾かれたように振り返った。その手に握られていたコップが落ち、赤黒い液体が床に広がる。娘は諦めきった瞳を少しばかり見開いて驚いていた。
十束は背後の老医師に液体の分析を頼み、そして警察に女を拘束させる。
「自分の娘に毒を盛り、娘の身を案じて悲嘆に暮れる母を演じる───愉しかったか?」
「愉しかったか、ですって?なにを、なんです、はなして」
女は細い身体をくねらせ、縄から逃れようと頑張る。娘は冷めた瞳で、そんな母を眺めていた。
「最初の子は流産。痛ましいことだ。
次の子は無事産まれたが、生後直ぐに亡くなっているな。哀しいことだ。
───人は幼子の死を痛み、その親の悲嘆を思う。貴様、味を占めたな?
人の関心に、弔意に、慰労に、愉悦したな?」
女は金切り声で自身の潔白を叫んだ。その目に娘は欠片も映っていない。
無実を叫ぶ。
そして目が新たな飢えの気配を帯びる。
曳いて行かれる女は、無実の罪で繋がれる自身を嘆き、さめざめと泣いていた。この女、今度は悲劇の主人公とする心算らしい。
十束は嘆息して、直ぐさま女から目を逸らした。目が腐る。
残された娘は、じっと十束を見つめている。大人びた瞳は何を感じるべきかを迷っているようだった。
かつ、かつ、と規則正しい軍靴が響き、そして小夜の病室の扉が開く。
───瓶底眼鏡の軍人。
「父さま」
「小夜…」
黒切准尉は十束に一礼し、娘に駆け寄り、その痩せ細った肩を抱いた。
「すまない、すまない、小夜」
「とうさま、さよ、もう苦しくならなくていいの?」
「いいんだ、もういいんだよ。健やかに、過ごせるんだ。もう大丈夫だ、本当にすまない」
黒切准尉は泣いていた。
娘も漸く年頃の子どものように、泣いた。
───羽々斬が退院祝いに所望したのは、矢張り、ホットケーキだった。
「娘を病ませて、悲劇の母を演じる───成る程、代理によるマニア・オペラティヴァ・パッシヴァということですか」
「その後、黒切准尉と小夜嬢は?」
「軍を辞し、田舎で暮らすそうだ。小夜の毒も抜け、この前挨拶に来た時には、すっかり元気そうだった」
他人の子どころか自身の子を餌食とする鬼子母神───新聞の見出しはそんなところだった。
十束は思う。
この双子は、産まれる前に母に殺されそうになった。膨らんだ腹に刃を突き立てるところだった。母は狂ったままに、死んだ。
今回の事件を、彼等双子がどう捉えているのか、十束には皆目見当もつかない。
双子はホットケーキに舌鼓を打っている。今回は珈琲ではなく、紅茶を添えて。
母の狂乱は一体いかなる脳病だったのか、医師ではない十束には分かるはずもない。家族であろうと、血の繋がりがあろうと、分からないものは分からない。
ただ思う。
この双子に困らされること度々だが───愛していると。
しかし同時に、彼等が大悪人となったのであれば、自分は首を二つ、切り落とすだろう。
この割り切りは、人として落第だろうと思う。
正気と、狂気。
正常と、異常。
此岸と、彼岸。
境は曖昧に、人は群れなし生きている。ゆらゆらと揺れながら。