露草の指、朝顔の手
藍色に染まった指先を、手桶の水に浸す。ぐっぐっと力を込めて揉み洗うが、色が落ちる気配は一向に無い。
「…もう、嫌。」
ゆうは、藍染め職の娘である。女子であるため、技術を必要とする作業を任されることはないが、手伝うことは山のようにある。毎日染め上げたばかりの布地や使い古して色濃く染まった道具に触れていれば、指先も爪も藍に染まるのは当然であった。
色を落とすことは諦め、そのまま手桶の水を使って掃除に取りかかる。
―糸屋の娘が色白で大層なべっぴんだと皆褒めているけれど、私だって色白よ。地の色が白いから、余計にこの藍色が目立つだけで。青白うて気味が悪いとは、もう、何事。
作業に集中している父の邪魔をしないよう、そっと掃除をせねばならないが、どうしても目の前に指先の藍色がちらつき、つい力が入る。手首から甲までは我ながら、雪のような白さだと思うのだが、指の半ばから爪先にかけて段々と藍が濃くなりちょうど絞り染めのように見える。少し落ち着こうと手を止めた所で、表から
「おぅい。」
と呼ぶ声がした。
「問屋か。」
ゆうよりも早く、父の与太が答える。
「どうも、ご無沙汰。」
「次の納期は、まだ先じゃあねぇか?」
軒をくぐってきたのは年々髪が薄くなる馴染みの問屋であった。悪人ではないが、馴れ馴れしいところのあるこの人を苦手とするゆうは、無言で退こうとする。が、早々に見つかり呼び止められた。
「おぅ、ゆうさん。今日はおやっさんに紹介してえ人がいて来たんでして。ゆうさんも是非。」
渋い顔をどうにか笑顔の下に押し込み振り返って見ると、確かに問屋の背に人影がある。
「ほれ、井三郎。引っ込んどらんと。お前の頼みで来たんやろが。すんません、与太さん。こいつ、井三郎と申しまして。染色やら織りやら何でもかんでも、片っ端から手を出しておるんですが、しかしまぁ、腹立つことに何やらしてもなかなかの腕前なんです。」
井三郎と呼ばれた男は猫背を伸ばし、ようやくこちらを向いた。
「どうも、井三郎と申します。あの、急にお邪魔してすみません。けど、旦那様の染めた藍を拝見致しまして。あの色見たらどうしてもお会いして、勉強させてもらいとうて。」
低くぼそぼそとした声で、視線もおぼつかないが、一瞬はっとする程真剣な眼差しを与太に、染場に向ける。ゆうにもその目が向けられた気がして身を竦めるが、それきり目を伏せられてしまった。
いつもならば間を取り持つことが自分の仕事とばかり、あっちこっちと話題を振る問屋でさえ困惑する程の沈黙が流れ、誰と誰の目も合わない中、おもむろに与太が立ち上がった。その後を、こころなし嬉しそうな表情を浮かべた井三郎が追う。
与太は決して愛想が良くはない職人肌の男である。だがきっと、井三郎も同類であり通じる所があるのだろう、その分与太は井三郎の言葉少なな賛辞を素直に受け取り、彼を引き連れ作業を見せる父は珍しく饒舌であった。
―私、いらんやん。
ゆうはこっそり片頬を膨らませた。問屋がこうして、他所の職人を連れて来ることは珍しくない。だが、いつもならばそのような時、ゆうは呼ばれることなく与太と三人で話し込み、ゆうも簡単にもてなした後は勝手に奥に引っ込んだり外出したりする。今日、呼び止められた理由はおそらく―
ゆうはさっきから意味ありげな視線をゆうと井三郎に向けてくる問屋から顔を逸らして溜息をこらえた。
―残念やの、おっさん。
年頃の男女を引き合わせたい、余計な下心であろうが、当人達に全くその気が無く、井三郎にいたっては目の前の藍に夢中になっている。あの様子では、恋人どころか女にすら興味がないのであろう。
―こっちやってあんな、まともに人と話できんような男、興味ないわ。顔は普通なくせに、背はやたらでかくて何や恐ろしいし。
問屋の視線に気付いていないふりをしてゆうはその場を抜けだし、日が傾くまで市中をぶらついた。
しかしその日以来、ゆうは時折、井三郎を見かけることがあった。特に見目良い男という訳ではないため今まで気付かなかったが、同業であるということは、出入りする場も同じということである。糸や染料の買い入れ、同業の寄合、得意先―行く先々、とまでは行かないが気がつくと視界に、周囲より頭一つ飛び出た猫背があった。だが、ゆうの側からは井三郎に気付くが、あちらはいつもどこか上の空であるため、こちらからも声をかけようという気は起こらずただ、ああいるな、と思い、すれ違うだけであった。
―何考えとんか、よう分からん人。問屋は腕がええと褒めとったけど、あんなぼさっとしとる人がまともな物作れるんやろうか。
一方の父はというと、若い才能に触発されたのかやたらと試行錯誤を重ねるようになった。ある日、染めに使う水を変えてみるなどと言い始め、ゆうは裏手の井戸ではなく少し離れた清水の湧く名所まで水汲みに行かされることとなった。
朝露にぬれた小径を、手桶片手に踏み分けて行く。くるぶしを超えるくらいの草の合間からは、猫じゃらしや露草が撥ね出し、一歩踏み出す毎に小さなバッタが躍り出る。足をくすぐる冷たい草の感触を楽しんでいると、泉のほとりには見覚えのある猫背の男がかがみこんでいた。思わずゆうは足を止める。
―何してるんやろうか。お父と同じこと考えとんかの。
いつも上の空であるこの男のことだから、無視して水を汲んでも気付かれないようにも思うが、いつもそればかりというのもなんだかつまらない気がした。ゆうは敢えて大きく足音を立てて泉に歩み寄ると、男の傍らに立ち、見下ろした。
「・・・どうも。」
「ああ、ええと、与太さんとこのゆうさんでしたか。どうも。」
案の定、どこを見ているのか分からない目に、ぼんやりとした返事である。それきり話が続くとも思えず水を汲み始めると、意外にも男の方から話かけてきた。
「水汲みですか。」
「ええ。」
「染めに使う・・・?」
「そうです。」
ちらと井三郎を窺い見ると、男はゆうの、水を汲む手つきに見入っているようだった。
―そんなん見て、面白いもんやろうか。
不審に思う気持ちから手早く水汲みを終えると、今度は井三郎が手で水を掬いあげた。水は一瞬のうちに、男の太い指の間を落ちていく。
「・・・水の、水の色って何やと思います?」
「はあ?」
思わず低い、馬鹿にしているようにも聞こえる声が出てしまい、内心焦るゆうだったが、それにもかまわず再び井三郎は水を掬いあげ、朝の光にきらめきながら落ちていく水をじっと見つめた。
「人が、水色と呼ぶ色と、この、水の色。全然違いますよね?」
「・・・はあ。」
「それと、空。」
言われて二人、空を見上げる。
「空色と一言に言いますけど、刻、季、お天道様のご機嫌で全然違う色になりますよね?今も、ほら、この真上の空とあっちの方の空で色が違う。全然、つかみ所がない。でも見ると、あぁ、空の色や、水の色やと思う。俺は、そういう色が染めたいんです。欲しいんです。この清水の色だとか、皐月の朝の空の色だとか。」
突然滔々と喋りはじめた男に戸惑い視線を下ろすと、井三郎の視線は再び、ぼんやり、どころか執拗な程、ひしゃくを握るゆうの手にあった。
「あなたの、指の色だとか。」
ひゃ、と思わず声が漏れ、ひしゃくを取り落とす。ぽちゃり、と水に落ちたそれを男は拾い上げ、ゆうに差し伸べた。初めてまともに目があった、が、その瞳はゆうを映しておきながら、ゆうを追い越してずっと遠くを見つめているように見えた。
「とてもきれいな、淡い、青やと思います。なんやろう、そう、朝顔のような。でも、朝顔よりも瑞々しくて、可憐で・・・俺は、そういう青が欲しい。」
水汲みから戻り、後ろ手に戸を閉めて手桶を置くと、ゆうはそのままへたり込んだ。心の臓が身体中に膨らんだかのようにばくばくと煩く、頬が熱くてたまらない。落ち着こうと手桶の水を一口含む。喉を滑り落ちる冷たい水にほっと一息つくが、どうやってここまで帰ってきたのか、何と返事をしてあの場を去ったのか、思い出せない。そもそも、声を出せたかどうかさえ怪しく思えてくる。ゆうは青く染まった指先を、日にかざしてみた。芯は赤く透けながらも指先に残る青に、あの視線がまだ絡みついているかのような気がして慌てて手を払い、頭を振った。
染場では父が、先日染め上げた藍を検分している所であった。濃淡様々な青い海を前に、再び井三郎の視線を思い出し、目をそらす。
「ただいま戻りました。」
「おう。」
「お父、井三郎さんに会うた。」
「ほうか。」
「・・・なぁ、お父。お父は、あの人の染めた藍、見たことある?」
ゆうの問いに、父は手を止める。
「あいつの、藍染めはまだ見たことがねえ。だが、柿渋ならある。こないだ、問屋が持ってきた。どこへやったかな。」
父は別の布の山を漁りはじめたが、ほどなく
「ああ、これだこれ。ほれ。」
と一枚の布を広げた。
―どんぐり。
ゆうが最初に思い浮かべたのは、つやつやと光るどんぐりの茶色であった。
―ああ、でも違う。もっと深い色。静かな色。何だろう?樹皮の色、掘り返されたばかりの土の色、雨に濡れたお堂の色、秋の木漏れ日・・・違う、ああ、何だろう、分からない。
思わず見入っていたが、父も改めて見入っていたようだった。
「・・・柿渋なんてのは、まあ藍もそうだが、貧乏人の染めだ。着飾るためのもんじゃない。数少ない着るもんが、傷まんよう、虫に食われんよう、染めてるだけだ・・・色ですら無い。だが、これは・・・。」
ゆうは、柿渋色を映した父の目に羨望と競争心が浮かぶのを見た。
「これは、あいつが求めて出した色だ。魅せるための色だ。これを仕立てた衣なら、俺らでも胸を張って都大路を歩けるだろうよ。」
ゆうはそっと、その柿渋を肩に掛けた。なめらかな茶は、ゆうの白い肌の色を引き立て、気品ある光沢を見せた。
その日から、ゆうは父に頼まれずとも毎朝水汲みに出た。井三郎は泉にいる日より、いない日の方が多かったが、それでも出かけた。挨拶以上に話が進む日は、更に少なかった
男は相変わらず上の空であったが、ゆうには少しずつ、その視線の先にあるもの―花や雲、若葉、水面、陽光―が何であるか理解できるようになった。男の隣にそっと佇み、彼の目になったつもりで同じ方を見つめる―そして、彼が今捉えているもの―いや、彼を今捉えているものを見つけたとき、ゆうはそれをたまらなく愛おしく、また妬ましく思った。そして、彼に負けず劣らずぼんやりしている自分を可笑しくも嬉しく思った。
ある日珍しく男が口をもごつかせ、声を掛けてきたと思ったら、空を指さし、
「あれを・・・ほら、雲があんなにも早く空を行く。」
とだけ呟き、後はただ天翔ける雲を二人、見つめるだけであった。
幾日か、井三郎を泉でもどこでも見ない日が続いた。しかしその頃から何故か薄藍、縹、瓶覗など淡い色合いの藍染めの注文が増え、ゆうは忙しさで不安と恐れを紛らわすこととなった―幾日は、やがて、幾月となった。
問屋が大量の藍染めを引き取りに来る日、ゆうは問屋から何とからかわれようとも井三郎の近況を聞き出す覚悟を固めていた。
―あの人、どないしたんですかって、聞く。絶対。うちみたいに何か、忙しいんかもしれんけど・・・そうやとしても泉で会わんのはともかく、仕入れ先とかでは会う筈やもの。あんなでかい人、見逃す筈無いのに・・・。
「おうい。」
「問屋か。」
父が先に問屋に応じ、ゆうは品を揃えながら問屋に声をかける機会を窺った。
「ああ、さすが。良い品をご用意くださいまして。」
「えらい量を頼んできたが、何でまた。」
「ええ。都でこういう色が流行りはじめましてね、特に縹。何でも、御前に召された舞い手が大層美しく、今にも天に溶け込みそうな縹の帯を、ゆるりと締めておったというので、大評判なんですわ・・・。」
気がつくとゆうは、卸さねばならない縹の帯をきつく握りしめていた。
―あの人は、都にいるのだ。求めていた色を手にし、魅せるために。
手から垂れる、縹の帯を見下ろす。
―ごめんな、お父。あの人の色は、きっとこんなものではない・・・。もっと清らかで、もっと儚い色。透けるような、空の色。さらさらとした、水の色。
一つの願いが、急に膨れあがり、駆け出したくなる。
―都へ、行きたい。
都へ行ったことはないが、歩けば二日ほど、馬を借りればより早く着くと聞く。女一人、行って行けぬこともない・・・けれども。
―追うた所で、迎えてくれる人でもない・・・あの人が、指の色以外、私を見たことがあったであろうか。
きっとこの、私のなかでうち乱れる荒波は、じきに凪いでしまうであろう。胸を焦がし、喉を灼かんばかりのこの炎は、いつの間にか温もりも残さず、あっけなくかき消えてしまうだろう。
それほどまでに淡く、儚く、短い思い出。けれども、傷跡を残すには充分だった。そう、あの人が唯一、確かに私に残していったもの。うっすら残った、縹色の、小さな傷。