必死な後ろ姿
球場の雑踏の中でもその声は不思議とよく通った。
中国語は抑揚の激しさで有名だけど、彼女の発音はとても穏やかだった。
けれどわたしは、ニーハオしか分からなかった。
早羅さんが分かったかどうかは、判然としなかった。
彼を見る事ができなかったからだ。
わたしは視線を動かせない。
彼女の動きに特別なものは無かった。
なのに、 背筋がざわざわする。
急に行き交う人の流れがスローモーションになるような錯覚。
大型の肉食獣に、衝立なしに対峙する感覚。
危機感ではない。
もっと非現実的な何かだ。
それは圧倒的な何かだった。
昔、早羅さんと土手で見た土佐犬がとても可愛らしい哺乳類に思える。
― ヒト、に、思えない。こんな綺麗なヒト、なのに。 ―
「やっぱり国際交流のために一番便利なのは英語よね? 初めまして。わたしは花華と言うの。台湾人よ」
わたしの硬直などお構いなしに、彼女は再び唇を開いた。
口からでたのは英語。
その発音は滑らかで淀みがない。
リスニングのテープでも聴いているような錯覚を覚える。
とにかく英語なら会話は成り立つと分かった。
だからそれで返事をすることにした。
遭ってはいけない人にいきなり出くわしてしまった。
けれども話かけてくれている。
つまり、彼女は会話を求めている。
― そう。会話が続くうちは、まだ。大丈夫、なはず。 ―
「わたしの名前は朱森紗愛です」
上ずる声で、やっとそう発音した。
花華さんは、くすっと笑った。
「貴女は礼儀正しいのね。礼儀正しい女の子は好きよ。不思議な女の子も好き。貴女は強くは見えないけれど、わたしを見る事ができるのね。強者しか私を見る事は出来ないのに、それができる。何故?それとも私が分からないくらい、あなたは強いの?」
この問いかけの時、花華さんの虹彩が急に密度を増した気がした。
黒曜石の闇に飲み込まれるような錯覚。
とても異質な圧迫に、肺が呼吸を潰されていく。
早羅さんの背が視界に現れた。
呪縛が解ける。
肉食獣さんに立ちふさがってくれる彼のおかげで、呼吸が回復した。
心臓がバクバク脈打つことを求める。
瞳は涙目になる。
おそらく、首を絞められて、解放されたら、こんな感じになるのかもしれない。
14の夏には彼の背を5cmほど越してしまっていたわたしだが、彼の背はとても大きく見えた。
ふと、11歳の初シャワー熱湯事件を思い出す。
そう。
彼は身を挺して、花華さんの圧力から守ってくれている。
けれど平気な訳はないのだ。
だって他人には絶対に震えない彼の肩が、わずかだけれど震えている。
そんな彼に花華さんはきょとんとした。それから柔らかく口角を上げる。
「あら、ごめんなさい。貴方を無視するつもりはなかったの。彼女が興味深すぎるから後回しにしてしまった。勘違いしないでね。嬉しいの。わたしの存在を認識できる人が2人もいるのよ。今日は幸せな日だわ。仕事を早く終わらせてここに来て良かった」
花華さんは結婚式の花嫁みたいに笑った。幸福の絶頂。
胸元に祝福と幸福を抱えて、感動に頬を赤らめる。
彼女のたたずまいは、とても美しい。
花華さんはうっとりと涙ぐんだ。
すらっと長い人差し指をクの字に曲げて、目じりをぬぐう。
その仕草に可憐という言葉が脳裏に浮かんだ。
「もう少しこの幸せを噛みしめたいけれど…。貴方はわたしと戦闘をしたいの? 殺気がすごいわよ? でも恥ずかしがらないでいいわ。せっかちな人は嫌いではないというより、むしろ好きなの」
花華さんは艶やかに笑った。
真紅の花を無数に咲き乱すような、そんな笑い方だった。
背筋や、腰、陰部がしびれるような、感覚。
あれを色気と言わずして、何を色気と言うのか分からない。
女のわたしですらそう感じたのだから、早羅さんはいかほどだろうか?
また、彼は何を思ったのか?
その表情は見えず、後ろ髪しか見えなかったけれど、
彼の二の腕が、ビキっ!!!! と筋張った刹那。
わたしはその腕を両手でつかんでいた。
力いっぱい、必死に。
千骸さんの、『防人が死ぬのは良くない』という言葉を思い出す。
― 今、放したら、多分もう、生きている彼を、見ることはできない。―
「止めてください!」
それしか言えなかった。
それだけを必死に呼びかける。
甲子園球場の内階通路の2人に。
花華さんはきょとんとした。早羅さんの頭ごしに、こちらを見てくる。
「何故? その気なのは彼なのに」
首を傾げる。
その問いに答える前に、彼女はとても優しくほほ笑んだ。
「貴方は可愛い女の子ね。強者ではないのにわたしを見ることが出来るし、特別な能力を持つみたいだけど、それは戦いたいと思う能力ではない。貴女が弱者であることは分かった。だから、貴女を殺すつもりはないわ。ただ、興味があるだけ。貴方は彼の事を心配しているけれど、大丈夫。結果が決まっている戦闘などあり得ない。彼が勝つかもしれないし、私が勝つかもしれない。それは花占いみたいなものなの」
聞き分けのない子供を諭すみたいに言いながら、ゆっくりとわたし達に歩いてくる。
散歩でもしてるみたいだ。
その間のわたしはというと、必死に早羅さんの腕を両手で握り続けることしかできなかった。
でも、それはずるいことだったと後で思う。
防人さんは器様の希望を妨げてはならないのだ。
彼は腕を振り払えない。
そんな彼の葛藤や苦悶などどこふく風で、花華さんはわたし達の前1mまできてしまった。
「……若作りの騎士様、ここでしますか?」
にっこりと笑顔を作って、彼女は早羅さんに首を傾げた。
早羅さんは彼女を見上げる。
「僕は彼女を守っている。これは僕の特殊任務だ。僕が君に攻撃されたら、組織は任務妨害と見なして、君と君に関係する人たちを殺すだろう。例えば、瀬長島優とかを、襲う」
彼の声に感情は無かった。
映画とかで駆け引きのシーンに使われそうな抑揚も何もなく、その抑揚の無さが、彼のその言葉が真実であることを告げていた。
千骸さんが指さした長い列でひと際目立っていた瀬長島優という男の子の、きらきらした黒髪と涼やかな瞳を思い出す。
さっきまでわたしたちはあの彼の近くにいて、彼を眺めていて、甲子園球場だった。
― あの男の子を、襲う、の…!? ―
花華さんが眉をひそめた。
それは、わずかなひそめ方だった。
けれど、口元から微笑みが消えた彼女は、思わず魅入られるほど美しく、そして……。
「なるほど。お前はあの男の関係か。面白いことをお前は言うのだな」
恐ろしい。
わたしは彼女の虹彩から、暴風のようなものを感じた。
それは圧迫ですらない。
わたしの周囲から、酸素や温度を急激に奪う。
そして、代わりにはっきりとした質感すら感じる、恐怖。
それはわたしの肺や気道や胃や小腸や大腸や心房や心室や子宮や脊髄の隙間や口腔を満たしていく。
両膝の関節がぐにゃりと硬度を失う感覚。
立ってすらいられな…。
「やめてください…!! お願い…!!」
わたしは早羅さんの手を放して、花華さんの前に立ちふさがっていた。
彼女はこの時何を思ったのか分からない。
けれど驚いたのはたしかだろう。
彼女のくっきりとした黒曜石のように黒めがちな瞳は大きくなった。
同じ刹那に、恐怖の呪縛が通路から解けて、空気中に酸素と温度が回復した。
でもこちらは、もうほとんどパニック状態だった。
酸素や温度がどうこう言うより、もう、必死の極みだったのだ。
そんなわたしに、花華さんは、くすっ、と笑った。
「貴女は可憐な子ね。いいわ。貴女に免じて見逃してあげる。とても彼が好きなのね。彼との比武の魅力、天秤の傾き方はとても微妙だけど、つまり、後ろ髪は引かれるけれど。誇りに思いなさい。彼の命を救ってあげる。もうそろそろ行くわね。わたしは優を眺めに来たの。お姫様と騎士様、また会いましょうね」
とても柔らかく、優しくほほ笑みながら、そう言い終わるか終わらないかの刹那に、花華さんの姿は消えてしまった。
それはまるで、球場の通路の景色に溶けるみたいに。
そして、わたしの視界は白く消失した。