台湾の武人
千骸さんは顔を上げた。
額の汗や目元に溢れる涙をハンカチで忙しくぬぐう。
それからまなじりをさげ、口角を上げる。
ぶちメガネの向こうの瞳はとても穏やかだ。
「応援でこられたのですか?」
「あ、はい」
思わず姿勢を正して答えるわたしの隣で、早羅さんが首を傾げた。
「千骸さんも、応援ですか?」
「ああ、うん。暑いのに迷惑なことだよ」
千骸さんは一旦言葉を切って、目をしょぼしょぼさせた。
「うちの馬鹿校長が金にものいわせて、花形選手を他校から引き抜きまくりましてね。本当にいい迷惑ですよ。案件なので文句も言えませんが、夏休みくらい団扇片手に西瓜氷菓をかじっていたいですよねえ。甲子園はテレビで眺めるものです。しかし……」
そこで彼は言葉を切ってまじまじと見てきた。
戸惑いを覚える。
なんせこの人は初めてお会いする早羅さん以外の村人なのだ。
「何か?」
首を傾げると千骸さんは再び口角を上げた。
「早羅君は器様をちゃんとお守りしているのですね。安心しました」
「結構いつもひやひやしていますよ」
困ったように笑いながら茶々を入れる早羅さんに、千骸さんは視線を移す。
「大丈夫だよ。器様はのびやかに育たれている。君の仕事が丁寧な証だ」
「ありがたいお言葉です」
「しかし、危なかった」
ため息交じりに言う千骸さんの声はあくまでも長閑だった。
反対に、早羅さんの頬が硬直する。
「……どういうことですか?」
「今ね、案件の流れで護衛している男の子に、ね。ほら、あの子だよ」
村人さんは肩越しに振り返った。
後方30mで列を成す高校生たちの集団を指さす。
1人。
とても背が高い男の子が歩いている。
黒髪が陽を受けてきらきらしている。
真っすぐで長い眉。
凛々しいという言葉がぴたりと当てはまる涼やかな瞳。
端正な鼻も口元。
彼の周りだけ陽の輝き方が違う、錯覚。
レオナルドダヴィンチが聖堂の天井に描いたキリストとか、ミケランジェロのダヴィデ像とかを彷彿とさせられる、完璧に近い目鼻立ち。
― あの男の子の方が、村の人っぽい。 ―
「ああ、はい」
早羅さんがうなずくと、千骸さんがほほ笑んだ。
「浮世離れって言葉が似合う子だろう。まだ無力な雛なんだけどね、僕の勘だと彼は強くなる」
「普通の子供にしか見えませんけどね」
早羅さんの声が冷たい。
「今はね。そして、このままならね。けれど、彼は強くなるよ。境間君と並ぶくらいの強者になると思う。彼の名前は瀬長島優という。覚えておいて損は無いよ」
早羅さんが二重の瞳を大きく見開いて、あまり見ない感じの驚き方をした。
境間さんという名前を初めてきいた。
おそらくとても強い人なのだろう。
「あの子の親権者が権力者でね。彼の依頼であの子を護衛しているんだけどね。いつもはもう1人、付いている。今日は幸い、いないけどね。花華さんという台湾の武人で。この人が、本当に危ないんだ」
「というと」
「村人ではないのに、村人並みの強さを誇る。純粋な戦闘なら、大抵の村人は敵わないだろうね。あの人は化け物だよ。因果も無しに、武術の鍛練だけであそこまでなれるってのは、本当に世の中は広い」
「……」
早羅さんは沈黙して、美しい顔をしかめた。
千骸さんは両手のひらを彼に向けて、眉に否定をこめて笑う。
「いや、器様に危険はないんだよ。彼女は弱者に興味を抱かないからね。強者にだけ恍惚と殺戮の衝動を覚えるらしい。おえらいさんが止めてくれているから、今のところ僕は無事だけど。護衛の契約が切れたら、間違いなく襲ってくるだろうなあ。実のところ、僕は契約の前に一度殺されかけててね。その際に手の内も明かされた。あれはきつい。しかも、契約切れを待ってるんだろうなあ。毎日、舌なめずりするみたいに、うっとりと僕を見て来るんだ。しかも絶世という言葉が似合う恐ろしいほどの美人だからね。これもきつい」
一気にまくしたてた千骸さんは身をよじる仕草をした。
苦し気であり、また、嬉し気である。
早羅さんは表情を変えない。
「……千骸さんでも、手こずりそうですか?」
「手こずれるのなら、善戦だろうね。やり合ったら歯が立たないよ。鍛錬の末に神速と不可知の能力を修めた人だ。彼女は普通のヒトには見えないんだ。一定以上の強者にしか見えない。この能力は君に似ているけれど、彼女は更に異質でね。本気になったら強者にも認識しようがない。そして彼女は強者を襲う」
千骸さんの声のトーンが低くなる。
それだけで、背筋が真夏の熱気を忘れて、わたしはとても寒くなった。
早羅さんは顔をしかめたままだ。
「ということは」
早羅さんは短く尋ね、千骸さんはゆっくりとうなずいた。
数学の教師が生徒に正解をつたえるような頷き方だった。
「そう。君と彼女が鉢合わせたら、もれなく襲ってくる。彼女は強いから、君の因果は効かないね。そして彼女の能力は君に効く。しかも村人並みの怪力と、麒麟を遥かに超える神速というおまけ付きでね」
「それは……器様の安全のためにも、摘まないといけませんね」
早羅さんの声がとても低い。
彼の姿に警戒の姿勢を取る獣が重なる。
なぜかわたし達のまわりだけ、甲子園という感じがしない。
「僕でもだけど、君でも勝負にすらならないよ。それにあの人自体は器様の安全に差し障りない。村人ではないから器様の因果は効かないが、その分興味もひかないからね。それに、花華さんは戦闘以外では優しく誇り高い人なんだ。器様に迷惑がかからない場所とかには、気を使ってくれるだろう。けれど」
なだめるようにそこまで言ってから、千骸さんは一度言葉を切った。
「……防人が死ぬのは良くない。まあ、なんとかするよ」
仕方ないといった感じで、肩をすくめる。
その時、せんせーい、と、瀬長島君がいた列から女の子が声を上げて、千骸さんに手を大きく振った。
村人さんは肩越しに振り返って、小さく手を振り返した。
「もう行かないと。それじゃ、また。……器様、御機嫌よう」
千骸さんはそう言って、深く一礼をした。
そして彼の生徒たちの列に戻って行く。
その列が入り口に吸い込まれて行って消えた後も、早羅さんはそこを見つめ続けた。
眉をひそめて、歯を食いしばる。
こめかみに植物の葉脈みたいに血管が浮きだっていた。
そんな彼の表情を見るのは初めてだった。
「早羅さん」
「うん?」
「怒ってるの? 顔、怖い」
とか、訊いてしまったのだけど、彼はきょとんとした。
それから困ったようにほほ笑む。
「ああ。違うんだ。僕は今」
そこで一度言葉を切る。
瞳に迷いを浮かべて、沈黙。
こんな彼も初めてだ。
「……怖がってた。千骸さんは強い村人だからね。彼が、僕が死ぬっていうことは、本当に死ぬんだ。死んだら、君を守れないから。それは、避けたい」
長いまつ毛を伏せて言う彼に、胸の奥が抉れる。
けれど、早羅さんはすっかり、いつもに戻っていた。
言葉を失うわたしに、柔らかくほほ笑んでくれる。
上空から注ぐ陽に夏が戻った気がした。
「行こうか。クラスのみんなが不思議がる」
「うん」
彼が手を差し出してくれたので、わたしは彼の手を取って、気がつく。
わたしの手は震えていた。
夏の陽は戻ったのに。
未知の恐怖が、去らない。
そして気付く。
早羅さんの手も、つなぐ指も、微かに震えている。
「……2%、か」
と、彼は小さく呟いた。
高校の試合が始まるまで時間があったので、1塁アルプス席中階の端に腰を下ろした。
台形の四隅を丸く切り取ったような球場の景色を見渡す。
甲子園の黒土を囲んで広がるグリーンが陽を受けて輝いている。
相手校も順々に着席して、芝生の向こうの席も埋まりつつある。
千骸さんは、今日はいない、と言っていてくれた。
けれど、とにかく不安で、目がどこかを探してしまう。
とても挙動不審になっていたのだろう。
隣の子たちに、大丈夫? と何回か訊かれた。
― 大丈夫ではない、けれど。説明がつかない。 ―
それはそうだ。
見えない連れが、見えない人に狙われるかもしれない、とか、……暑さでおかしくなったのかと思われる。
実際おかしくなりそうなほど日光はきつい。
日よけのキャップをかぶっても、布の上からじりじりと髪や肌が焼かれる。
緊張のせいか尿意を覚えた。
「トイレ、行ってくるね」
隣の子にそう言って席から立ち上がる。
連絡階段を下りて連絡通路の日陰に入り、少しだけ日光からの解放を感じた。
そのまま内野2階のトイレに向かう。
壁も天井も白い通路は応援の高校生や、球児たちの家族、観客でにぎわっている。
「引き返そう」
早羅さんが静かに言った。
声が張りつめている。
― え。 ―
「前を見てはいけない」
と言った彼の声が鼓膜に届くのと、その女の人と目が合うのはちょうど同じ刹那だった。
トイレから出てきた彼女の背はとても高い。
脚も腕も長い。
豊穣といえるほど豊かな胸の下のウエストのラインが描く無駄の無いライン。
真夏なのに、黒のタイトスーツ。
スーツの奥の白のYシャツの第一ボタンは外されていて、そこからのぞく鎖骨のくぼみはくっきりとしている。
少し地黒な肌は汗にわずかにてかっていた。
つやつやとした黒髪は肩の上まで伸びたショートカット。
高い身長に関わらず、彼女の丸顔はわたしより小さい。
長い眉と同じく長いまつげの下の瞳は黒目がちだけど、目じりがわずかに上がっている。
少しきつい印象を受ける。
唇は厚く、雌の肉食獣のような色気をかもしている。
その唇が、開いた。
「你好。你會說閩南語?我不知道如果這些英文好?」