2人の宝物
わたしは土佐犬事件の結果、不登校になった。
だからと言ってこれといった弊害を特に感じることは無かったのは述べた通りだ。
けれど、早羅さんは落ち込む事が多くなった。
「紗愛ちゃんには、できるだけ開けた場所が良かったけど、さ」
と、彼はため息をつくようになった。
でも当時のわたしはその意味がよく分からなかった。
開けた場所、という言葉を考える日々の中で、中学校の噂が父母の耳に入った。
これはわたしが土佐犬を呪い殺した妖女、とか本当に馬鹿馬鹿しいものだったが、彼らはひどく混乱した。
わたしはそんな彼らに神社に連行された。
お祓いを受けるためである。
、東京の近郊にも引っ越しをすることになった。
これは父の仕事の都合だったが、色々と考えると、一番良いタイミングだったのだろう。
そんな色々な事が次々に押し寄せるうちに季節は秋を越えて冬を迎えた。
わたしは内申点よりも学力重視の私立高校に合格した。
もちろん首席である。
これにはそこまでの感慨は沸かなかった。
万が一落ちたら大検を受けるつもりだった。
でもそんな人生的な通過儀礼よりも、もっと嬉しいことがあった。
とうとう早羅さんとの真剣勝負に決着がついたのである。
当時のわたしは既に国立大学受験の範囲を越えて、大学院レベルの書籍を英文とかドイツ語の原書で読み漁っていた。
でも、幅広い何かを問うよりも、純粋な論理を問う事が分があると思って、結局数学方面の問題を作成するようになっていた。
それはいいけれど、当時の早羅さんはフェルマーの定理という300年以上解かれていない問題すら、完全証明してしまうレベルだったので、この戦いも絶望的に思えてしまう。
しかし、わたしは自身がたどり着いた結論を信じた。
まず自分を信じてあげないと、先には進めない。
闇に足がすくむのは、その先を信じることができないからだ。
わたしはこういう信念をもとに昼夜四六時中、数学書をめくりながら考え続ける。
ちなみに、大学院レベルの書籍というものはとても高い。
この頃の父の会社は飛ぶ鳥を落とす勢いのものだった。
世の中のIT革命の先駆け的会社として、父もビジネス雑誌の表紙を飾ったりしていた。
これとは裏腹に、お小遣いとか家計簿的なやりくりは常識的な範囲を越えないのは、やはり白菜鍋の影響なのだろうか。
外食先が豪華になっただけで、朱森家に成金的な趣味は根を下ろさなかった。
そういうわけで、自由になるお金を全て原書につぎこんでいたわたしは、お年玉貯金はおろか毎日のお財布だってすっからかんの閑古鳥だったけれど、後悔はなかった。
これは考えることが好きというのもあった。
何よりも、早羅さんとのやりとりに意味を見出していたのだ。
わかりやすく言うと、好きな人のために使うお金に後悔はしない。
と、どや顔で言い切れてしまうのである。
……その設問が浮かんだのは合格発表の日の朝だった。
発表会場に向かう電車に揺られながら、車窓の向こうを流れていく並木の桜色に視線を投げていた時だった。
パステルカラーのバッグからメモ帳と万年筆を取り出す。
設問を手早く書き留め、バッグにしまう。
それから、すっかり忘れてしまった。
けれど、会場に到着し、合格を確認して、母親に電話で連絡した帰り道。
何気なくメモを取り出して眺めた。
そして、頬が熱くなるのを感じた。
― これは。これが、それかもしれない。 ―
電車が遅く感じる。
合格発表よりもドキドキする。
10才の頃から膨らんでいた胸の内側で膨らむ期待。
このために、玄関で出迎えてくれた母親との会話も、おめでとうにありがとうとだけ言って無理やり切り上げた。
自室に戻り机に向かう。
英語の原書も含めて書籍をまとめて取り出して、ひたすら関連問題を参照。
それが的外れな問題ではないかの精査、確認を繰り返す。
陽があっという間に黄色くなって、沈んだ。
お祝いのご飯は体調不良を理由に後日にしてもらった。
はやる気持ちを抑えながら、途方もない確認作業をできるだけ最小限になるよう心掛ける。
でも、要点は逃さないようにひたすら計算と反証を繰り返す。
それは結局深夜までかかった。
恐ろしく長い集中が終わって、わたしは椅子の背にもたれながら天井を見た。
― 大丈夫。この問題は、成り立つ。しかも、誰も解いた事がない。 ―
「早羅さん」
「うん?」
「即答できなかったら、わたしの勝ちよね?」
早羅さんの瞳をじっと覗き込みながら、訊き、彼は柔らかくうなずいてくれた。
「ああ。いつもとは違うみたいだね。もちろんだよ。答えられなかったら君の勝ちだ」
その問題を彼に告げるとき、高揚する胸の高鳴りが、全身に広がるのを感じた。
聖書を朗読するみたいに心を込めて読み上げる。
それから、恐る恐る早羅さんの顔を見た。
……何とである。
何とであるっ!!!
左の手のひらで支えた右ひじから伸びた腕の先に握った拳の親指を、上唇に押し当てて、沈黙していたっ!!!!!!!!!!!!!!!!
長い眉を美しく寄せて、ひたすら数式を呟いている彼の姿に、わたしは動悸を感じる。
即答できなかったらわたしの勝ちだ。
けれど、完全勝利には、答えまで時間がかかった方がいい。
いや、
「ごめん、分からない」
と言ってもらえれば、超完全勝利である。
時計を見た。
午前0時5分。
「ごめん。時間が欲しい」
午前1時05分。
この言葉と共に、早羅さんは降参してくれたので、わたしは嬉しさと高揚があふれそうとする声色を、必死で抑えた。まるでプロポーズの言葉でも確認するみたいに、嬉しさは空間にこぼれてしまう。
「それって、わたしの勝ち、てこと?」
と首を傾げると、彼はとても優しい光を宿した瞳でうなずいてくれた。
「ああ。紗愛ちゃん、おめでとう。君の勝ちだ。君を見くびってい……」
わたしは彼の言葉が終わる前に、首に抱き着いた。
そのまま抱きしめて、嬉しくて嬉しくて、……泣いた。
とても長い真剣勝負の歳月が、走馬燈のように脳の記憶中枢でめくられ続ける。
ビデオテープを逆再生するみたいだった。
それはあの日まで、器様は馬鹿でもいい、と言われたあの日まで戻る。
そして、はたと気づいた。
― そうか。わたしは寂しかったのだ。色々なものが遠すぎる彼に、少しでも近くなりたかったのだ。そして、おそろしく時間がかかったけれど。わたしたちの壁は、薄くなった。 ―
感極まるとはこのことだ。
おでこも頬も涙腺も熱くなって、声をあげて泣いてしまう。
そんなわたしに抱き着かれながら、彼は背を左手のひらでぽんぽんと柔らかく叩きながら右手で頭を優しく撫でてくれた。
髪に触れる彼の指の優しさに、涙腺がさらに緩みまくった。
翌日。
昨夜の泣き声について訊いてきた母親に、
「合格が嬉しかったの」
と瞼を腫らして答えながら、ふと気づく。
― 設問を用意したのに解答を用意していない…!! 早羅さんに答えを訊かれたら、答えられない…!! ―
頬から血の気が引く。
壮大なぬか喜びをしてしまった。
わたし達の長年の真剣勝負の様式は早羅さんが答えられない命題を出して、こちらが答えて見せることを目的としていた。
つまり、答えられない命題を出すことが勝負ではなかった。
壮絶な片手落ちである。
……こういう場合、他の人ならどうするか、分からないので、その日に彼に謝ることにした。
「早羅さん」
「うん?」
「昨日の問題なんだけど……」
「ああ。時間がかかるけれど、必ず解くから、もう少し時間が欲しい」
と、何回話題に出してもこんな感じで話を逸らされ続けているうちに、夏になってしまった。
そのころは、高校にも慣れて、なんと、お弁当を一緒に食べる子もできた。
体育の授業でもペア作成ではぶられる事はない。
何より、である。
学力が飛びぬけている高校だけあって、独り言を小さく呟いている位では、浮かないのだ。
学年ではちらほらとエキセントリックでその分一芸に秀でている人も確認できたし、周りから見れば、わたしもその一人だったのだろう。
これはありがたかった。
けれど、トイレを一緒に行ったり昼ごはんを一緒に食べたりエトセトラエトセトラする仲の子たちにも、例の問題のことは訊けなかった。
何故か恥ずかしかったからだ。
つまり、この問題の答えを訊かれた時に、分からない、では格好がつかないのである。
さらに、早羅さんの前で恋バナはできない。彼との関係は特殊だし、会話を彼に聴かれるのは、恥ずかしいからだ。
夏休みに入っても、研究は続いた。
壮絶な片手落ちの後始末をつけるためだったが、どうにもこうにも、たどり着かない。
浮かばない。
春の日のひらめきに、もう一度降りてきて欲しかったのだが、あれは奇跡だったのだろう。
― なんか、これ、もしかして。問題として成り立たない、のかな? ―
と落ち込みかけた夜である。
「紗愛ちゃん、これ。読んで欲しい」
早羅さんが、A4ノートを10冊を、おずおずと渡してくれた。
ばつが悪そうなそうな顔をしているのでけげんに思う。
ノートの表題を見ると、わたしの出した命題が書かれていた。
思わず視線に驚きを込めて彼を見る。
困ったように笑っていた。
「申し訳ないくらい、時間がかったけど。やっと、答えがでたんだ」
「……」
彼の声色はプロポーズでもするかのような響きを帯びていた。
けれど、わたしは返事をせずに、ノートに視線を落とす。
勉強机において開く。
それから、とても長い時間をかけて彼のしたためた丁寧な筆跡の一言一句を確認した。
その全てを終えた時には窓の外の空が白みかけていた。
とても長い小説を読み終わった後のように、最後のノートを閉じる。
「……すごい。完全証明してる。すご、い」
と呟いてから、言葉を失った。
「時間がかかった。ごめんよ」
「ううん。すごすぎる。早羅さんって、知ってたけど、天才よね……」
論理というものは美しい。
真理というものは深淵の底にあり、そして意外に近くにある。
それが見える人を天才というのなら、彼は間違いなく天才であり、わたしは結局、熱心な凡才に過ぎないということを、彼の解答から思い知らされて。
― また、壁が厚くなってしまった。嬉しいのに、世紀の数学的発見が、ここにあるのに、それよりも。 -
目頭に熱を感じる。
― わたしは、彼との壁の厚さに、悲哀を覚えている。机にうつ伏せになって、泣きたい。―
「紗愛ちゃんが出してくれた問題だから、さ。謎のままにはしたくなかったんだ」
照れくさそうに、視線をそらしながら言う早羅さんが美しい。
彼が好きなのだ。
解けても、解けなくても、同じ方向を彼と共に見つめたいのだ。
早羅さんの姿を映した視界が滲む。
それは、涙で。
「僕はこの命題を考えながら、とても幸せだった。器様とか防人とかを抜きに。君と同じ方向を向けた事が嬉しい」
― うん、絶対この人、女ったらしだ。本当に言ってほしい言葉をさらっと言えちゃうとか……
ずるいくらい、心に、響、く。 ―
涙腺は崩壊する。
けれど今回は、いつものように彼に抱き着くことはしなかった。
抱きしめてほしかったからだ。
けれど彼はそれをせず、かわりに、前髪を優しく撫でてくれただけだった。
カーテンと窓の向こうの、遠くで、鶏が朝を鳴いた。