無邪気なる愚者たち
「土佐犬やべえ」
「やべえよなあ」
「怖いよねえ」
夏休みが明けると、クラスは河川敷で暴れた犬の話で持ち切りだった。
土佐犬事件はそれなりにこの地域に衝撃を与えた。
元々交通事故とか工場の事故以外では、人が死ぬということがほとんどない地域だったからだ。
だからこの出来事にまつわる噂は尾ひれがつきまくって、犬の体長は5mだったとか。
― いや、もうそれは象だろう。 ―
でもさらに馬鹿馬鹿しい噂が巡った。
白のワンピースの口裂け女が 、土佐犬を狂わせて襲わせてから飽きて、犬を呪い殺して平然と去った、とか。
― ……これは酷い。―
早羅さんがヒトを嫌いになるのも分かる気がする。
「まじでやべえよなあ」
「5mって本当かなあ」
「めっちゃでかかったって。そんで容赦ないんだって。こっわ」
同じことを延々と話し続けるクラスの男女たちに、わたしの視線はおのずと冷ややかになる。
「朱森ぃ」
机をいくつも隔てた向こうから、名字が呼ばれた。
わたしは顔を向けた。
「何?」
「お前さぁ、よく土手歩くじゃん? 白ワンピもよく着てるしさあ。口裂け女って、お前?」
目がふざけている。
悪気が無いのは分かった。
けれど酷く不快だ。
白のワンピースは早羅さんが似合うと言ってくれた服だ。
思い入れのある。だから、なおさら不快だ。
「……あの犬は大きいけど普通の犬だった。死ぬ前はおびえていた。わたしはワンピースを着てたしあれの前にいたけれど、口裂け女ではない」
……しん、と静まり返ったのは教室だった。
もっと凍ったのはその場にいたの全ての男女たちだった。
必然、彼らの全ての視線がわたしの顔面に突き刺さる。
でも、たじろぐのも悔しい。
眉だけをひそめる。
それが精一杯。
― 確かに恐怖に怯える目というものは。……不快だ。でも、こんなもので……。 ―
立ち上がる。
教室の彼らは、わたしを中心に後ずさった。波紋が広がるみたいだった。
― 傷つきたくない。 ―
出口に向かい、そのまま廊下に出て保健室に向かう途中、早羅さんが声をかけてくれた。
「大丈夫?」
柔らかい声に涙が出そうになる。
けど、下唇を噛んでこらえた。
しばらく歩く。
「……確かに、犬の方がきつくない」
唇から自然に漏れでた声に、早羅さんは穏やかにうなずいてくれる。
「だよね。少なくとも犬は無邪気だったし」
ため息まじりに言う早羅さんに、はっとする。
『全員殺したくなる』
という言葉を思い出して頬から血の気がひいた。
伝えたい想いを言語化できないまま、必死で彼を見る。
すると彼は瞳をとても柔らかくした。
「大丈夫だよ。僕は、君との約束は忘れない」
そう言ってくれたので、わたしは頬に熱を感じた。
悲しみと、悲しみを表した気恥ずかしさ、それに、彼にこみ上げる感情に、頬が熱くなる。
わたしは小さくうなずいた。
ふと、彼の右手の中にある物に気づく。
「早羅さん」
「うん?」
「何それ?」
「ああ」
彼は右手に視線を落として苦笑をした。
「悪意の数。僕らが教室を出る時にね、飛んで来たんだよ」
彼の手のひらには、消しゴムが5個握られていた。
わたしは硬直する。
早羅さんは再び困ったみたいに笑った。
「大丈夫だよ。彼らは意味も分かっていない。まあ、約束が無かったら報復はしてたけどさ」
静かに言って、彼は手のひらをぎゅっと握った。
それから、中庭を望む窓を開いて、悪意を手のひらから解放する。
5個あったはずのそれらは、1つのいびつで長細い物体に握り潰されていた。
どれだけの握力と、握力を生む憤怒があれば、物体がそうなるのか、わたしは分からない。
ただ、早羅さんは、とても傷ついているように見えた。
その美しい横顔は、小さく窓の下の木立の緑に吸い込まれていく消しゴムの軌跡を追っていた。
……その日、わたしは早退をした。
翌日以降は、あの学級に登校することは無かった。
これには理由がある。
無邪気と言えるほど、愚かな同級生たちを恐れたわけではない。
早羅さんの報復を恐れたわけでもない。
彼は報復をしない、と言ってくれた。
なら、絶対にしない。
ただ、わたしは怖かったのだ。
恐怖の視線にさらされるわたしに、早羅さんが傷つくことが。
それに、彼を傷つけてまで通う価値のある場所だとも思っていなかった。
独り言をぼそぼそと呟くわたしに元々友達はいなかった。
人間関係的な未練もなかった。
それに、わたしは勉強に習熟していた。
中学3年の時点難関と言われる国立大学の過去問題集を読み漁るのみならず、似通った問題を作成する程度だったけど、十分だろうと思う、
わざわざ教室に話しを聴きにいく必要もなかった。
もちろん、眠気の我慢の訓練にはなったから、そこまで無意味な場所ではない。
これは分かっている。
けれど、それは禅寺にでも行けばできることだし、そもそもわたしは苦行僧ではない。
ということで不登校になった。
3週間くらいは、クラスの子たちや卑屈な顔をした女教師が家に訪ねてくることが続いていた。
もちろん登校などしない。
そんな堂々と言うことでもないけれど、一度決めたらテコでも動かないのが、朱森紗愛である。
3週間目の木曜日の夕方。
女教師の香水の香りが微かに残る空間を眺めながら、早羅さんは言った。
「ヒトの社会も大変だね」
「うん」
と、わたしはうなずく。
彼女は去る前に『明日、待ってるね』と言っていた。
彼女は本当に待っているだろう。
けれど心から待っているかと言うと、そうではないのだ。
何故か色々切なく、玄関にしゃがみこむ。
― 虚しい。―
「紗愛ちゃん」
「ん?」
わたしは顔を上げる。
「勉強、しよう」
早羅さんが笑顔で言ってくれたので、うなずく。
口の端が自然に柔らかく上がる。
「今日こそ、ぐうの音も出なくしてやるから」
「期待しているよ」
わたしの宣言に、肩をすくめながら彼は奥の階段にきびすを返した。