価値観の壁
ここまで読んだ人は早羅さんについてどういう印象を抱くのだろう?
猫型ロボットの美少年版?
現代版座敷童?
わたしには分からない。
早羅さんは早羅さんだからだ。
そして彼は上の2つとは丸っきり違っていた。
だって、彼はわたしを守り続けてくれたけれど、時々とても恐ろしい事をしたからだ。
これはその時の話である。
あれは14歳の夏休みだった。
わたし達は川の土手を、南に歩いていた。
この川は、当時わたしたちが在住していた市を南北に流れていた。
2時間ばかり歩いていると河口が近くなってきた。
海の匂いが風に薫っていて、のどかな事この上ない。
この風と光の中、早羅さんは日傘を持ってくれていた。
一方わたしはというと小豆氷菓をかじっている。
その日、海が見たいから歩こう、とわたしが連れ出したのだ。
「紗愛ちゃん」
彼が唐突に言ってきた。
わたしは彼を見た。
「食べたい?」
とアイスを差し出す。
「食べたいけど、後ででいい。帰ろう。この先は進まない方がいい」
わたしはきょとんとして彼の横顔を見た。
彼は珍しくわたしを見ず、視界の及ばない先を、真っすぐ先を見据えていた。
彼の目は常と変わらず美しい。
けれど、眠たげな感じが消えていた。
どことなくだけど、緊張している。
何に緊張して、何が映っているのだろうと、わたしは疑問に思った。
彼の視線の方向を見る。
川は南に向かってゆるいカーブを描いていた。
河川敷は原っぱや、ところどころで公園になっていて、遊具の上で子供たちが遊んでいる。
彼らの髪や、原っぱの緑の草の先や、土手に沿って植樹された樹の緑が、南から薫る海風に揺れている。
夏の苛烈な陽ざしは海風に和らぎながらも、川を挟むように広がる赤茶けた工業地帯や、川に斜めにかかる白い大橋の景色を揺らめかせている。
蜃気楼みたいな揺れ方だ。
何の変哲もない。
不吉さの欠片もない。
夏の午後の景色。
だけれど早羅さんが進まない方がいいと言うのなら、本当に進まない方がいいのだ。
彼は恐ろしく勘が働く。
勘というよりも、感覚が鋭いのかもしれない。
熱湯シャワー事件だって、冷水と温水の管の音で危険を察知して、わたしを守ってくれた。
自宅内なら、誰がどこを歩いて何をしてどこの電気がついたとか、配管や床の音で全てわかってしまう。
こう書くと早羅さんは座敷童というより、番犬に近い超人とも言えるかもしれない。
けれど、もちろん早羅さんは早羅さんである。
その彼が、帰りたがる。
― うん。帰ろう。―
「分かった」
と言って、わたしは踵を返した。
白のワンピースが、ふわあっとひるがえった。
「ごめん。僕はまた間違った」
「え?」
わたしはきょとんとして、彼を肩越しに振り返る。
「防人は器様のご意向を妨げてはならないのです。……だってそうだろう? 安全を確保するだけなら、君をどこかに閉じ込めておけばいい。けど、それは違うんだ」
……多分、顔に出ていたのだろう。
土手の看板には、河口まで2㎞、と書かれていた。
2時間かけて、セミの声と夏の陽気の中を9㎞も歩いてきたのだ。
確かに、ここで引き返すのはちょっと悔しかった。
けど。
「わたし、帰ってもいいよ?」
「大丈夫だよ」
言いながら、早羅さんはわたしのおでこを覆う髪を撫でてくれた。柔らかな弾力。
そして、その弾力と同じくらい、柔らかい光を宿した瞳で、真っすぐこちらをみた。
ちなみにこの頃も、わたしの身長は成長を続けていた。
とうとう早羅さんと背の高さが並んでしまっていて、女の子は背が小さい方が可愛いと思うわたしにとって、これは結構な悩みだったが、それは別の話である。
「……大した脅威じゃないんだ。ただ、紗愛ちゃんを怖がらせたくないだけで、さ」
「そうなの?」
「うん。僕も海が見たいからね。行こう」
彼に首を傾げる。
「いいの?」
「うん。けど、ああ。小豆氷菓、欲しいな」
ちょっと意味が分からなかったけれど、わたしは手元のアイスを、素直に渡した。
アイスはこの会話の間に半分溶けて、液体が土手の遊歩道にぽたぽたと垂れていた。
「ありがとう。行こうか」
と早羅さんは柔らかくほほ笑んでくれた。
わたしたちは再び土手を歩き始めた。
早羅さんがさしてくれる日傘の影の下で、未知にドキドキする。
風景自体がいつもと違って、セミの声が大きくなって、何か怪奇な世界に歩いていくような気がした。
けれど、一度決めた事だ。
そんなわたしの隣で、早羅さんはすぐにアイスを食べ終えた。
残った棒を歩きながらまじまじと見る。
「当たり、かあ」
と彼は残念そうにつぶやいた。
3分後。
海風に乗る潮の香りが強くなって、でも陽ざしは相変わらずだった。
河川敷も原っぱも、その手前の公園も。
夏の陽に照らされる遊具も。
ただ。
子供たちが母親達とともに逃げまどっている。
南から薫る海風に乗って悲鳴が届く。
大型の土佐犬が一匹河川敷を駆けていた。
それは猛々しい肉の塊のようだった。
陽に黒く煌く鎖を地べたに引きずって、子供たちを襲っている。
7歳くらいの女の子が押し倒された。
腹をかじられる。
別の子も。
子供や母親たちは土手をこちらに駈け上がってくる。
1人、母親が猛獣に立ちふさがった。
けれどすぐに脚を噛まれて倒されて、腹や首をかじられる。
悲鳴。
土手に上がった母親たちは、子供を抱えてわたし達の横を駆け抜けていく。
必死に逃げていく。
わたしはというと、きょとんとして、立ちすくんでしまった。
その間に、土佐犬は土手をあがってきて、対峙する形になる。
「持ってて」
早羅さんは、わたしの手に日傘の柄を握らせた。
それから、犬にすたすたと歩き始めた。
何の気負いも無い歩き方だ。
……その後は小さな怪奇だった。
彼が一歩近づくたびに、土佐犬の迫る勢いは弱くなった。
猛獣の凶暴性に、弱者の哀願が混ざり換わるように、四つ足の接近は駆けから歩みに変わった。
最終的にお座りの形で遊歩道に縮こまる形になる。
その犬は小刻みに小さく震えて、早羅さんは弱者にしゃがみ込んた。
左手で頭部を撫でながら、右手の親指と人差し指の先でつまんだアイスのあたり棒を猛獣の耳にあてた。
そのまま挿し入れた。
それはケーキにナイフでも入れるような、滑らかで自然な入れ方だった。
すっぽりとほとんど全部挿し入れてから、ねじでも回すみたいにくるくると回す。
その一連の動作を早羅さんは、当たり前、みたいにしていた。
けれど、犬は、挿し込まれた刹那に大きく泡を口からぶくぶくと吹いた。
目の粗いその泡には赤い血液が混じっていた。
けれど、それが子供たちの血なのか、犬の血なのか分からない。
猛獣は吠えることすら許されず、ただ腹を彼に晒してバタバタと胴体をよじらせていた。
むずがる赤ん坊みたいに見える。
痙攣を続けながら、泡を吹き続けて、やがて完全な肉の塊になった。
この犬の全てが完全に沈黙するまで、わたしは早羅さんの表情を確認できなかった。
猛獣にしゃがみこむ早羅さんの後ろ姿しか見えなかったからだ。
彼はひとしきりの作業を終えた後、当たり棒を土手の斜面に捨てた。
棒には血液と脳漿がべっとりと付着していた。
そのまま手を洗うために川に下る彼の横顔に、わたしは近寄りがたいものを覚えてしまう。
鋼のような無感情。
その中に、微かな悲哀も感じる。
途方もない寂しさというか、それはいつも見ている彼とは、全く違う彼だった。
それでも、いつまでも立ちすくむのも情けない気がした。
なので、わたしは土佐犬の前まで歩き、しゃがみこんでまじまじと眺める。
夏が注ぐ陽の光に、死肉の皮膚をびっしりと覆う硬そうな毛の一本一本が、光沢を帯びてきらきらしていた。
犬の口元の血の赤は濃かった。それは上空の真夏の青と同じ質の濃さだった。
とても濃い気配を感じ、思わず人差し指が動きかける。
「触らない方がいいよ」
後ろに早羅さんが立っていた。
わたしはしゃがんだまま、首をのけぞる形で彼を見上げた。
「そうなの?」
「悪い菌にかかってるかもしれない。僕は動物使いじゃないからわからないけどね。もちろん触りたいなら触ればいいけど」
「救急車、呼ばないと」
早羅さんと話していたら現実感が回復してきた。
倒れている子供や母親たちに、視線を投げる。
「大丈夫さ。向こうにいる人たちがやってくれるよ」
と彼がいって視線を投げたので、わたしは肩越しに振り返ろうとした。
「振り返らない方がいい」
早羅さんの声が、とても冷たい。
「どうして?」
「……僕は彼らには見えないから、彼らは君が犬を殺したように思っている。逃げ惑うことしか知らない弱者のくせに、救われた恩も忘れて、君に怪奇を重ねている。もちろん、振り返る返らないは紗愛ちゃんの自由だけど」
「そう、か」
「もう行こう」
早羅さんが手を差し伸べてくれたので、その手を取った。
立ち上がり、わたしたちは再び海に向かって歩き出す。
それから河口に着くまでの間、色々な疑問が脳裏に浮かんでは消えた。
……
「ねえ。早羅さん」
海風に吹かれて河口の隣の堤防にしゃがみながら、彼を見ずに呟く。
人気はなく、沖合いに小さく船が浮かぶだけだった。
ひたすら空と海だけが青く開けている。
呟いて話しかけるのは習慣である。
「ん?」
「海、綺麗でしょ?」
「ああ。来てよかった」
早羅さんはわたしの隣に立って日傘をさしながら、水平線を眺めていてた。
それは海風の下で、大きな弧を描いていた。
彼は視線を海の果てに投げたままそう言って、わたしにほほ笑んでくれた。
とても柔らかな微笑。
けど、わたしの心は浮かない。
遠くに輝く水平線から、足元のコンクリートに視線を落とす。
コンクリートにはひびが入っていた。
わたしは口を開く。
「……さっきのこと」
「うん」
「犬、じゃないよね。脅威って」
「うん」
「わたしが怖がると思ったのって、犬じゃなくて」
早羅さんはコンクリートに腰を下ろした。
長いまつ毛を伏せて、ため息をつく。
「……うん、ヒトだよ。彼らはとても弱く、そして理不尽に強い。僕は彼らが恐怖にびくつく目が嫌いだし、そんな目を君に向けるのを見ると」
防人さんは一度言葉を切ってから、低いトーンで続けた。
「……全員、殺したくなる」
「止めてね」
「うん。分かった」
早羅さんの優しい声が海風に吸い込まれていく。
肩甲骨の下にまでのびたわたしの髪が別の海風にたなびいた。
顔面や視界に束みたいにかぶさってくる。
髪を右手のひらで押さえながら、わたしは泣きたい衝動をこらえた。
隣の美しい座敷童さんが、とても恐ろしい事を言ったので、怖くて泣きたくなったわけではない。
むしろ彼の言葉を聴くことで、いくつかの疑問が解けた。
……彼が恐れたのは土佐犬ではなかった。
ヒトの目にわたしが傷つくことだった。
だから帰ろうと言ったのだ。
彼が犬を止めなければ、もっと多くのヒトが襲われて、たくさんのヒトが、子供たちが、母親たちが、重く傷ついたり、死ぬことになっただろう。
けれどそんなことは、彼には関係がないのだ。
考え方の前提が著しく違っている。
とても大きな壁を感じる。
それは、早羅さんが、いつまでも少年の姿だったり、わたしや動物以外の誰にもに気づかれなかったり、土佐犬を圧倒したりさらっと殺せるくらい強かったりすることよりも、大きな壁だった。
その大きさは寂しさを感じて怒るにはあまりに大きく。
ただただ、とても悲しく。
それでも。
― ……わたしも違うのかな。普通の子なら、早羅さんを怖いとか思うのだろうけれど。 ―
頬に指が柔らかく触れた。
それは早羅さんの指だった。
わたしの頬に伝っていた涙を、ぬぐってくれていた。
なので、わたしはとても可愛くない顔で早羅さんをじっと見た。
それから、もう、こらえきれずに、彼の細い首に抱き着いて、泣いた。
悲哀に泣きたくなるほど、その壁は切ないほどくっきりと、存在していた。
けれど、抱き着いた彼の首から伝わる体温や、じっとりと湿った汗や、吐く息や息に含まれる水蒸気とか、そういうものに彼の存在を感じて、……やはり泣きたくなるほどの、幸福もまた感じていた。