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精一杯の優しさ

 わたしが早羅さんに恋をするようになったのは、いつからだったのだろう。


 10歳くらいまでは彼はわたし『だけ』の家族で付き人だった。

 

 わたしは彼の付き人加減に甘えきって、お風呂ではいつも背中を流してもらっていたりした。

 それはとても自然なことだった。

 お湯の温度の調整だって彼がしてくれていた。

 これも当たり前だった。


 あ、でも彼と一緒の浴槽に浸かることはなかった。


 というのも彼は決してわたしと一緒に入ろうとしなかったからだ。

 そこには明確な線引きがあった。


 一度、一緒に入ろ? と一度提案したことがあった。

 この時、彼はとても穏やかな顔になった。

 それからゆっくりとした綺麗な仕草で床に両膝を着く。

 上体を前に屈め両手を指の先からつけて、平服(ひれふ)した。

 

器様(うつわさま)と座敷童が浴槽を共にするなど、恐れ多いことです」

 (おごそ)かな声だった。

 彼の様子がいつもと違うということ。

 違うにも関わらずとても静かで穏やかであること。

 その静かな感じに泣きたくなる。


 普段はゆるふわの権化という感じの早羅さんだけど、こういう事を語る時は別人になる。

 鋼のように硬く樫の大木のように揺るがざる意志。

 防人(さきもり)としての立場というのは、それだ大切な事なのだろう。

 アイデンティテイと言うべきか。


 ……11歳になると背中を流すことも厳しくなったらしい。

 厳しくしたのは防人としての立場だ。


 わたしは一人でシャワーを浴びたり入浴するようになった。


 あれはわたしの一人シャワー第1回目の出来事である。


 事前にわたしは早羅さんから、温度調整の操作手順について入念な説明を受けていた。

 けれど間違えてしまった。


 当時の温度調節は水と熱湯の出量をそれぞれ調整して、中でミックスされた湯を蛇口やシャワーから出すというものだった。

 けれど水の青を止めて熱湯の赤を全開にしてしまったのだ。


 そのまま湯を出しかけた時。

 つまり、顔から全身にかけて熱湯を浴びかけた時。


 浴室の引き戸が悲鳴を上げた。

 頬に風を感じたと思った。

 刹那、わたしは早羅さんに抱きしめられていた。

 彼は降り注ぐ熱湯からわたしをかばっていた。


 もうもうと白く沸き上がる湯気。

 その熱さが熱さを超えて拷問に近い痛みとして、早羅さんの背中を焼いているのが分かった。

 わたしは泣くか叫ぶか、おそらく両方をしたくなる。


 彼は痛みに赤くなった頬と潤んだ瞳で、わたしの目を真っすぐ見た。


「大丈夫、だから」

 と言って、優しく柔らかく微笑みかけてくれた。

 その時わたしは衝撃と痛みを胸に覚えた。

 それは心臓をわしづかみにされるような強く甘い痛みだった。


 あの時だったのだろう。

 彼に恋をしたのは。

 不思議な居候(いそうろう)が、唯一無二(うんめい)の騎士に変わったのは。


 ……早羅さんはわたしを浴室の外に出した。

 こちらをすがるように見る。

 彼の虹彩は真剣な光を宿していた。


「火傷はありませんか? どこか、かかっていませんか?」

 彼の声色に余裕は全くない。


 わたしは動転してしまった。

 声を出せない。

 ただただ目を潤ませて首を小さく横に振る。


 と、彼は、

「良かった……」

 と言って、へなへなと脱衣所の床にへたり込んだ。

 それからボイラーのスイッチを切る。


 「申し訳ありません。器様を驚かせてしまいました」

 とひれ伏す。

 

 ……こういう時には必ず『紗愛(さあ)ちゃん』ではなく『器様』なのである。

 そして悲しいほど非を彼自身に求める。


 でもその時のわたしには、寂しさとか悲しさとかを胸の中でこねくり回す余裕などなかった。


 母親の、どうしたのー、というのんきな声が階下から響いてくる。

 早く手当をせねばと思う。

 でも頭が真っ白で何をどうすればいいのか、すっかりすっぽ抜けてしまう。

 わたしはでくの坊と化した。

 彼は再びほほ笑む。


「僕は村の防人(さきもり)だからね、これくらいの事は、普通だから」

 その声はとても穏やかで、確信のようなものに満ちていた。

 けれどもちろん、そんな事はなかった。


 その晩、彼はアロエの果肉を背にあてて苦痛に耐えながらうずくまっていた。

 わたしはポカリとか薬箱の痛み止めとかを運んだ。

 けれど彼は謝絶した。

 そして、ひたすら痛みに耐え続けた。


 その姿は傷ついた美しい獣のようだった。


 わたしの頭の中には、器様とか、防人とか、村とか、どういう事なのだろう?

 何が彼をここまでさせるのだろう?

 訊くたびにいつもはぐらかされてきた疑問が、その晩はいつもに増して強くて渦巻いた。

 そのせいでいつまでも眠れなかった。

 けれどそれは、彼を傍目(はため)に寝てしまうよりもずっと良い事だったと思う。


 幼いわたしは結局寝てしまった。

 しかもそれは夢も見ない深い眠りだった。


 ……起きると、早羅(さわら)さんがおでこを撫でてくれていた。

 キテイちゃん柄のカーテンの隙間から差し込む朝の陽が、彼の輪郭の綺麗な頬を照らしていた。

 彼と目が合う。

 その瞳が宿す慈悲に、とても泣きたくなった。

 色々な気持ちが子供なりにも込み上げてきたからだ。



「……」

「おはようございます」

「……」

 返事の代わりに、わたしは両手で掛け布団の端をつかんた。

 そのままおでこにずり上げて、彼から顔を隠す。


 顔を見れなかったからだ。

 でも見たかった。

 けれど見れなかった。


 沈黙が柔らかく続く。

 破ってくれたのは早羅さんだった。


「昨日はすいませんでした。うつわさ……」

「早羅さん」

 泣きだしたいのをこらえながら、彼の声を遮る。

「はい」

「器様って呼ばない、で」

「……」


 沈黙。

 わたしの胸は布団で作った暗闇のなかで、きゅううと痛んだ。

 耐えかねて言葉を漏らす。


「……今だけでいい、から」

「……分かった。紗愛ちゃん。無事でいてくれてありがとう」


 ― この人、普通のヒトだったら絶対女ったらしだ。―


 自覚の有り無しは関係ない。

 それくらい彼の言葉に柔らかな声色に、ぐっときた。


「早羅さん」

「はい」

「器様って、村って、何なの? いつもはぐらかすけど、教えて」

「……」

「お願い」

「……紗愛ちゃんが、15歳になったら教えて差し上げますよ。これは約束です」


 静かで(おごそ)かな語り口だった。

 けれど彼は『器様』ではなく『紗愛ちゃん』という言葉を使ってくれた。

 それが彼の精一杯だったのだ。

 わたしは彼の優しさに泣いてしまった。


 どうやら朱森紗愛(あかねもりさあ)は精一杯というものに弱いらしい。

 結局15歳になるまで、村や器様の意味について問いただすことはなかった。

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