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漆黒の宝石

『注文の多い料理店』という小説を思い出した。

 この小説では、狩猟をたしなむ者たちが山歩きをする。

 その末にヒトならざる者の営む料理店に迷い込む。


 もちろんここは、都営地下鉄沿線の廃れたビルの地下に過ぎない。

 光から隔絶されているだけで、東京の真っ只中であることに変わりは無い。


 けれどこの細長い空間を循環する空気には清浄な何かが満ちている。

 それは山深い神社とか人里離れた場所でしか味わえないような何かだ。


 それがかび臭い地上階とは違う。

 清冽な大気だけが切り取られて、循環している。

 つまり、この闇は新月の闇なのだ。

 

 それは蛍すら飛べそうなほど清冽で、実際飛んでいた。


 無数の光として(つど)う彼らは清流のせせらぎに恍惚するように揺らめいている

 清流は床に環を描いている。


 珊瑚の産卵のようなおびただしい光の揺らめきに、わたしは軽い酩酊を覚えた。


「ご案内いたします。器様、こちらへ」

 メイド服さんの顔面に笑みが満ちた。

 手を差し出される。

 その手は闇に光を帯びる雪のように白い。


 黒目が見えなくなるほど細められた彼女の瞳には、つい先ほど涙ぐんだ時の妖艶さはかけらも無い。

 けれど、有無を言わせぬ力があり、思わず肩の隣の早羅さんを横目で見る。

 早羅さんはわたしを軽く見上げながら、柔らかく肯いてくれた。


「大丈夫だよ。僕も後で合流するから。それにこのお姉さんはとても優しいし、信頼できる人だから、安心していい」

 

……彼のその言葉にわたしの頬は硬くなった。

 もう見向きもせずにメイド服さんの手を取る。

 そのまま蛍の闇の奥に控えていた漆黒の扉の向こうに誘われる。


 ……わたしは、欲深い女ではないはずだけれど、早羅さんに関しては何故こんなに誰彼構わず嫉妬するのだろう。

 彼がメイド服さんを誉めた。

 優しいし信頼できると言えるほどの関係性がある。

 それは知らない早羅さんだ。彼女が羨ましい。

 わたしという存在は彼が守る対象で、器様という黒い砂の海を抱えるヒトに過ぎない。

 信頼できる人だとか言ってもらったことは無い。

 いやそもそも夏の甲子園でお会いした千骸さんの他には九虚君くらいしか、早羅さんと話している人を見たことがないのだ。


 ちなみに九虚君はわたしよりも一つ年下の男の子だ。

 彼は、わたしが病院で目を覚まして帰宅した二週間後に、早羅さんが村から呼び寄せた人物である。

 何故二週間かという理由を、早羅さんは言わなかった。

 けれど、おそらく早羅さんは花華さんの襲撃を恐れたのだろう。

 彼女は強い人を漏れなく襲う。

 なので、早羅さんは、警戒に警戒を重ねて二週間外部の侵入の形跡の無いことを確認した。

 つまり安全をこれでもかと確認した上で、九虚君を呼んだ。


 その日は夏休みの残りもわずかで、窓の外の気だるい熱気が満ちていた。

 わたしは蝉の命の絶叫を聴きながら、勉強机に向かって花華さんの夢のことを思い返していた。

 口は西瓜氷菓をかじっていた。


 早羅さんは窓枠に両肘を預けていた。

 彼が視線を投げる先には、住宅街を覆うように広がる紺碧があり、いくつものメレンゲをこれでもかと落としたみたいに堆積した雲の輝きがあった。

 

「紗愛ちゃん、公園に行こう」

 外を眺めたままそう言った早羅さんに、うん、と頷きながらわたしは意外に思った。


 彼の声はいつもと同じ柔らかさだった。

 けれど、オクターブが少し高かったのだ。

 これは滅多に無いことだ。

 つまりかなりどきどきしたり、わくわくしてときめいたりしないと、こういう声の感じにはならない。

 

 防人たるもの常に平常心、というのが早羅さんのスタンスなのである。

 そんな早羅さんが公園にときめくとはかなり珍しい。


 だって、彼は基本座敷童の地をいく引きこもりなのだ。

 それに、この頃の彼のテンションは、ものすごい低空飛行というより地中にめり込むモグラ状態であった。これはわたしを花華さんから守れなかったためだ。


 もう何度とも無く書いたことだけれど、彼と長年過ごしてきたわたしは、彼のテンションが分かるのである。基本的にその尺度は、つっこみや軽口の有無に依存する。

 けれど、甲子園から帰宅後の早羅さんからは、そういうものが一切消滅していた。

 かけてくれる声も柔らかな響きだった。

 けれど、どこかで張り詰めていた。

 これは全て花華さんのせいである。

 だけど、わたしを治してくれたのも彼女なのである。複雑だ。


 住宅街の隅に落とされた忘れ物のような小さなたたずまいの公園に着いた時、ベンチに腰掛けていた黒サングラスの男の子が、立ち上がった。

 こちらに向かっていがぐり頭を垂れ、深深と礼をする。


 早羅さんはそんな彼に歩み寄って、その両肩を軽く叩いた。


「はるばる済まないね」

「いえ、光栄です」

 男の子はそう言ってからわたしに向き直った。

 色白でパーツが端正なうりざね顔。

 かけている黒のサングラスは、アンバランスに大きく、彼の感じを悪くしていた。

 平たく言うと不良っぽい。

 サングラスの上の額は形が良く、汗が陽を受けて輝いている。


 背丈はわたしと同じ位で、早羅さんより高い。

 紺のジャージの股下は長く、白無地のTシャツから伸びた腕も長い。


 わたしが早羅さんを見て何かを言おうとしたその時、九虚君がサングラスを外した。

 こちらを見据える黒目がちな瞳は、涼やかで、その宿す光には慈悲があった。


 ……嵐の暴れ去った海。

 海面に残る無数の白波。未だうねり狂う黒灰色の雲。

 その雲間から陽がのぞき、光の柱がいくつも斜めに海面に注ぎ降りて、濃紺の海面を淡く水色に透く。

 その淡さはやがて海原全体に広がり、陽は風を(しず)め、海は凪ぐ。

 そして世界の全てに光が回復する。


 そんな情景が脳内を巡る。

 そんな慈悲。


「終わりました」

 九虚君はサングラスをかけなおしながら早羅さんにそう言った。


 わたしは我に帰り、早羅さんを見る。


 と、彼はとても苦しそうに九虚君を見ていた。

 この場合は心配という言葉が正しいのだろうけれど、心配が高じると苦しくなるのだろう。

 本当に苦しそうで、わたしの胸も痛む。


「ありがとう。彼女に後遺症は」

「ありませんよ。健康そのものです。器様はヒトに近いといっても、村人ですからね。命の力も強いのでしょうね。後……」

「後!?」

 言いよどむ九虚君に早羅さんが詰め寄る。


「いえ、大した事ではないんですけど。高度な治療の痕跡が気の循環に見られます。微かですけどね。誰かが力を使ったのでしょう。けれど悪意は感じません。今でも薄いですし、ほうっておいても来月には消える程度です」

 花華さんだ、と思った。

 わたしは九虚君から目をそらした。


 その間に彼は、早羅さんと二三の言葉を交わして、

「器様の因果を(こら)えるのが辛いので、もう行きますね」

 と言って、やはり深々とした敬礼の後で立ち去ってしまった。

 


 ……メイド服さんに案内されながら、九虚君について考える。

 何故彼には嫉妬しなかったのだろう?

 彼の慈悲? 

 いや、関係は無い。

 彼だってわたしの知らない早羅さんのことを知っていたはずだ。

 結局は性別ということか。女は女に嫉妬する。

 そして嫉妬というものは、美しい感情ではない。



 だって、それは劣等感の投影に過ぎないからだ。

 

 とわたしが悶々と考えている間に、エントランスに通された。

 黒い天井のシャンデリアが目にまばゆい。

 さらにそこからカーテンで仕切られた奥の小部屋に案内される。


 その小部屋は衣装部屋だった。

 真紅、檸檬(れもん、純白、濃紺、漆黒、ライムグリーン、他さまざまな色のドレスが陳列されていた。銀座のデパートのショーウインドウの服たちみたいに煌いている。


 わたしは口を鳩みたいに開けて、呆けてしまった。


 そんなわたしの耳元にささやくように、メイド服さんが尋ねてくる。


「どれになさいますか?」

 花嫁の衣装合わせみたいな訊き方だったので、気後れをした。


 ドレスのどれもが誇り高くきらめいていた。

 上質という言葉を布にしたらこんな感じになるのだろう。

 布の()ち方、縫い方に使われた技術の高さも、華麗で高貴な形状から伝わってくる。


 そうなのだ。これは華麗や高貴という概念を服にしたもので、こういったものは、15の小娘のわたしなどではなく、オードリーヘップバーンとか、ハリウッド在住の白人たちかモナコの王族が着てしかるべきものなのだ。


 わたしは硬直を続けた。


 メイド服さんは困ったように微笑む。


「桃の夭夭(ようよう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たる()(はな)

「え?」

 わたしはメイド服さんの整った瞳を見る。


「中国の古代詩です。……若々しい桃の木に燃え立つような花が咲いた。わたしは器様を本日拝見して、この詩を思い起こしました」

「え」

「花があってこそ草や空があるのです。服は飾りに過ぎません。器様の華に比べれば、それは些細なること」

 彼女が励ましてくれているのは分かった。


 遠まわしにとても褒めてくれていることも。

 その善意に背中を押されて、ライムグリーンのドレスの元に立って、生地に触れてみる。


 と、このドレスが輝いていた理由が分かった。


 薔薇があしらわれたような胸元から肩にかけて、大小のエメラルドが散りばめられていたからである。 

 それが、おびただしい光を輝かしていた。まるで朝の露のように。


 ……他も同じだった。

 真紅のドレスにはルビーが、純白にはダイヤモンドが、無数に、海のように広がっていた。


 わたしは飾りの時価総額を想像して、頭の芯に軽い酩酊を覚える。


 漆黒のドレスを手に取る。

 やはり宝石がちりばめられている。

 暁の闇を凝縮したようなその内部には、光が、幾重にも折り重なりながら静かに輝きを成している。

 この黒に。この光の重なりに、……覚えがあった。

 ドレスの表面の宝石たちから顔を上げて、メイド服さんに訊く。

「これは?」

黒金剛石(ブラックダイヤモンド)です」

 彼女はにっこりと笑って答えた。

 わたしは再びその石たちの輝きに視線を落とす。

 まじまじと見入りながらとても複雑な気持ちになった。


 ……黒い砂の海。

 その砂は黒金剛石(ブラックダイヤモンド)だった。

「これを着ます」

 わたしは、黒金剛石(ブラックダイヤモンド)の海に視線を落としたまま、呟くように言った。

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