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黒蝶

 ……上空に君臨していたはずの陽は川向こうの山々の連なりに傾いていた。

 光と優しさを注いでいたはずの太陽には、赤が渦巻きながら満ちている。

 おびただしい草、わたし、花華さん、およそ世界にあまねく照らすそれから、慈悲は喪われていて、代わり何か、壮絶な神話的な力が、大気に満ちていた。

 太陽の赤は、大地から膨らんだすがたのままで逆さに生まれ落ちた巨大なマグマか、または燃え尽きて大地に衝突する瞬きの時を切り取って身動きを取れなくさせてしまった線香花火の燃え尽きる最後の塊みたいになって、はちきれるのを待つみたいだった。光は禍禍(まがまが)しいほどに、全てを赤の混じった黄金に染めていた。


 晴れ渡り()くような(あお)だったはずの空には、大地を飲み込むという神話の怪物(よるむがんど)のくねる腹みたいな立体感のある雲が変形し増殖していた。

 雲の勢いに人の脳を蝕む回虫を連想したが、わたしたちの周りから風消えて、草たちはそよぎすらしない。わたしのまわりだけが、時が止まったみたいに。


 雲の巨大に力と立体を与えていたのは、川向こうの山々を黄金(こがね)色に焼きながら渦巻く陽だった。

 陽は、大空と大地を圧する雲のみならず、全てを黄金色に染めて、山々の向こうに闇を満たし始めていた。

 清らかな蛇のように緩やかに川が吸い込まれて行く果ての先にその闇はあった。


 胸に終末の予感が宿る。

 それは、静寂に代表される夜の開始ではなく、純粋な何かの終わりだった。

 陽は沈むのではなく、全てに幕を引くことを許すのだ。

 そして闇が世界を覆う。

 

 不意に眩暈がしたと思った。

 真横に世界が引っ張られるような慣性を三半規管が受容する。

 でもすぐに、これは大地が揺れているのだと分かった。

 響いたのだ。大地が。


 その響きと揺れの区別はつかなかった。

 それほどまでに、その鳴動は轟轟(ごうごう)たるものだった。

 草むらに膝から崩れる。

 前のめりに土に手をつく。

 背中に体温を感じる。

 花華さんが、鶴が羽を交わすみたいに、後ろから抱きしめてくれていた。


「来るわ。目に焼き付けなさい。あれが貴女の授かった力で、避けることの(あた)わない運命(さだめ)、よ」


 高台のふもとを流れる川の()を、さざなみが川上に向かって逆さに渡った。

 それは小さな兆候(きざしだった。


 その時はまだ川には黄昏があり、川は金色の蛇みたいだった。


 さざなみは高台を上空に吹きぬけるエメラルドの風みたいに、夕の日を純白に乱反射する。

 わたしは畏れの中で花嫁の衣装を連想したけれど、そんな美しさは初めの方だけだった。

 その波の連なりは途切れを知らず、さざなみは波から勢いを増して濁流となり、川の金色は土を帯びた茶色に変わり、その流れは川の定めを超えてあふれ出し、高台のすそに吹き上がるように流れ始めた。


 濁流は暴なる大蛇となり、その色は茶から墨汁のような黒に変わる。

 その勢いも増し、やがて高台の中腹まで浸してしまった。

 川が緩やかに永い年月をかけて作った平野や、平野を丸く覆う山々は、終末の招く闇と共に暗黒の洪水に浸され、途方も無い湖のように、世界は変わってしまった。

 

 けれど流れの姿をまとったその黒い巨大は、中腹を飲み込むだけで飽き足らない。

 物凄い勢いで世界を浸し高台の草たちを食みながら、わたしたちの足元に迫ってくる。


「どう? 美しいでしょう。貴女はこれの(さなぎ)に過ぎないけれど、わたしは蝶も(さなぎ)も等しく尊いと思っている」

 耳にかかる花華さんの息の熱さに、酩酊(めいてい)を覚えた。

 黒いそれは川むかいの果てにあった太陽さえ飲み込んで、上空の巨大だった雲たちすら、そのあふれる闇に飲み込んでしまっていた。


 そしてそれはわたしの膝の先まで上ってきて、わたしは初めてそれをじっくりと観る。

 その黒い海の水は、とても濃く細やかな砂でできていた。

 一つ一つの砂は、ビロードを成せるほど滑らかに黒く輝いていて宝石のようで、素直に美しいと思った。

「そう。これは美しいの。貴女と同じ位に。もう、時間ね。大分過ぎて、しまった。それでは、良い…生、……を……」

 わたしの耳にかかる花華さんの言葉は、後に行くほど小さくっていき、その輪郭を喪ってしまった。

 それは、夢の中のわたしの意識と共に。


 

 ……海の底から浮かぶような感覚を覚えたと思ったら、 早羅さんの顔が視界を覆うように飛び込んできた。

 わたしは夢から醒めたことを悟った。

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