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みなとみらいラブストーリー

その土曜日も部屋の掃除を簡単に済ませてから、いつもどおり10kmのジョギングにでかけた。

3月上旬の横浜は、少し寒いけど走るにはちょうどいい季節だ。

横浜みなとみらいの海岸線に沿って走るジョギングコースは、10時過ぎには観光客も増えてきて賑やかになってくる。


ちょうど3kmほど走って、国際会議場の前を通り過ぎた時だった。

前を走っていた・・というかさっきすごいスピードで抜いていった女性ランナーが突然倒れてうずくまった。

「ど、どうしました!?」と駆け寄ってみると、右足のつま先がプルプル震えている。

ああ、足がつったんだ。この痛みはよく知っている。実は僕もよくつってしまうのだ。

軽い症状ならすぐに治るけど、ひどいと肉離れみたいな後遺症が残ってひと月程走れなくなる。


その女性は意外に若くて、「その()は」と呼んでもいいくらいだった。

最初そう思わなかったのは、ウェアがイマドキじゃなくて、ダボっとした白地のTシャツとベージュのサファリパンツみたいなの下にジョグタイツをはいていたからだ。

ただ、シューズだけは中級者用のちゃんとしたものだった。


とりあえず、5m先のベンチまで移動させることにしたけど、見ず知らずの女性を抱えるのもためらわれ、僕の腕に彼女の肘を乗せて極力体をさわらないのように後ろから抱えた。それでも肘の汗の感触がいつまでも僕には残った。

僕はウエストパックからコールドスプレーを取り出して、彼女のふくらはぎに吹きかけた。たまたま昨日ドラッグストアで安売りだったので買っておいたものだ。

「すいません。急につっちゃて」

彼女は申し訳なさそうに、ふくらはぎをさすった。ベリーショートとはいわないけど、かなりのショートヘアーで二十代半ばだろうか。

つってしまった足は回復を待つしかない。伸ばしたりしてあげることもできるけど、それを彼女に施せるほどの関係でもない。

結局数分見守って、僕はその場を離れた。

「あっ、スプレー」と、彼女は僕を呼び止めた。

「ああ、いいですよ。もう使い終わる頃なんで」と、振り返って笑ってみた。その笑い顔がちょっと引きつっていたのが僕にもわかった。

山下公園を折り返して同じ場所に戻ってきたときには、当たり前だが彼女はもういなかった。

なんかほっとしたような、残念な気分に僕はなった。


次の土曜日も、同じように僕はジョギングに出かけた。天気は薄曇りで、海風が少し強い。

今日は、10kmを50分以内で走るという目標がある。

この目標はいまの僕にとってはかなりきついペースだ。

7kmまではなんとかペースを保つことができたけど、問題は残り3km。ここが一番苦しいところだ。

僕は一段と力を込めて走った。

と、反対側からなんかダサいけど何故がそこだけふわっと浮きあがったように見えるランナーがやってきた。

「あ、彼女だ」

あっという間にすれ違う二人。彼女も気が付いてなにか言おうとしている。

止まるべきか。しかし、このまま走れば初めて50分を切れるかもしれない。

一瞬悩んだけど、僕はタイムを選んで後ろ手に手を振って走り続けた。

結局タイムは50分15秒で、別に二兎追ったつもりもないけど、一兎も得なかったのだった。


翌週の土曜日も、同じように掃除をしてからジョギングに出かけた。

たぶん、彼女も走っているだろうという期待半分、そんなうまい話はないという気持ちも半分だ。

象の鼻パークを過ぎたころだろうか、前方に走っている彼女が見えた。

不思議だけど、なぜか見分けがつく。ふわっと浮き上がって見えるんだ。

追いつこうとペースを上げるが、彼女のペースが速くて追いつかない。

5分/km以上のペースで走っているのか。必死でピッチを上げてランニングウォッチを見ると、4分50秒ペースでじわじわ追いついていく。

もう心臓が張り裂けそうだ。

山下公園の中ほどで、なんとか彼女の斜め後ろに並ぶことができて「こんにちわ!!」と声をかけた。

でも、あまりに息が上がっていたのでものすごい大声になってしまった。

彼女はおどろいて、こっちを振り返った。

その驚いた顔が笑顔に変わる瞬間を今も忘れない。

スローモーションのように、駒落としの映画のように、ゆるやかに笑顔に変わっていく様は僕の心に深く焼き付けられた。


二人はペースを落として、ゆっくりと山下公園の端を折り返した。

「先週、すれ違ったときはすみません。ちょっとタイムを計っていたので」と僕。

「こちらこそ、あの時はありがとうございました。とても助かりました」と彼女は微笑んだ。

「後遺症残らなかったみたいですね。ものすごいペースで追いつけない」

「はは。そうですか。まだまだ安定しなくて」

と、かながわ県民ホールの前を通り過ぎようとした時だった。さっきの無理がたたったのか僕の足がけいれんしだした。

「てってって」と、横の芝生に転がりこんでうずくまった。

彼女はこのあいだ僕が渡したコールドスプレーをウエストポーチから取り出して「これまだいっぱい入ってましたよ」と笑いながら吹きかけてくれた。

5分ぐらいして症状が治まってきたので、思い切って言ってみた。

「せっかくなんで、お茶しません?」

「え」

「ほら、昔から言うじゃないですか。『足つりあうも他生の縁』って」

「いいませんよ!!」といいながら彼女はケラケラ笑った。

「こないだのお礼もあるし、いいですよ。ちょっと車にお財布とかタオルとかあるので取ってきますね」

と、彼女はシルクセンターのほうに走っていった。


山下公園沿いにはおしゃれなオープンカフェもあるけど、ジョギングウェアでは入りづらいので、二人は県民ホール隣のドトールのオープンテーブルに座った。

「ふだんからキロ5分ペースですか? 先週そのペースで10km走ったんですけど50分切り損ねました」と僕。

「だいたい、それくらいですね。6月の横浜湾岸マラソンのハーフにエントリーしているんですけど、その練習です」

横浜湾岸マラソンは、いつも走っているみなとみらいのコースを使った市民マラソンだ。実は僕もエントリーしている。

でも、それを言うのはなぜかはばかられた。あまりにできすぎた話だからだ。

もちろん、そんな画策はできようはずもないんだけど・・・。

「車で来てるんですか」と、僕は話題をずらした。

「はい。自宅が都築区でここまで電車が不便なんです。まあ、汗だくで電車に乗るのも迷惑だし。そういえば・・えーっと」と、彼女は僕の顔を見た。

「名前言ってませんでしたね。ぼくは鈴木一郎といいます」

「偽名ですか?」

「いやいや、本名ですよ」

「すみません。」と、くすっと笑った。

「なんかクレカの申し込み書の見本みたいとよく言われます」

彼女は笑うべきかどうか迷うように空中に目を泳がせた後、話題を変えた。

「鈴木さんはどちらにお住まいなんですか」


僕はみなとみらいのタワーマンションに一人で住んでいる。

超高級とは言わないが、そこそこあこがれといわれるタワマンの中層階の2LDKだ。

だけど、これは僕にとってむしろ弱点に近い。

こんな若造がこんなタワマンに一人で住んでいるなんて、なにか悪いことやっているか、親が金持ちかどちらかと思われるからだ。

そして、それはあながち間違っていない。


「ジョギングコースから近いマンションです。だからすぐに走りに行けるんですよ」と僕は極力自慢げにならないように言った。

「え、すごい。うらやましい」

タワマンがうらやましいのか、ジョグコースが近いのがうらやましいのか。たぶん両方だろうな。

「マンションは父が買ったんです。父は商社マンでずっとアフリカに行ってて家にはいなかったんですよ。でも、現地でNGO活動にはまっちゃって」

「へー」

「二年前に突然退職して、退職金でマンションの残金払って、アフリカに行ってしまいました」

「ダイタンですね」

「母が呆れるかとおもっていたら、これまでほっておかれたから償ってもらうといって、ついて行ってしまいました」

「素敵なご両親ですね。それで息子さんが一人残されたと」

「僕も機械メーカーに就職してから、関西とか九州とかに転勤して去年横浜に戻ってきたところです」

「なるほど。でも、ジョグコースが近くていいな」やっぱりそっちか。

「すいません。僕のことばかり話して。ええっと・・」

「あ、わたしの名前? 山田花子です」

「え?」

「嘘です・・・間下梨花といいます」と、またケラケラ笑った。

「わたしのプロフィールですよね。えっと・・」と彼女が話しかけたとき、僕はそれを制した。

「今日はいいです。今度会ったときに聞きます」

「えっ?」

「優秀な営業マンは、次に会うためにかならず宿題を残して帰るんです」

「え、私に営業かけてたんですかぁ?」

「いや、そういうわけでもないんですけどぉ」と二人で笑って別れた。


その次の土曜日もいつもの時間にジョギングに行って彼女と出会ってドトールでお茶をした。

別に約束をしていたわけではないんだけど、待っててくれたみたいでちょっと嬉しかった。

その日、僕はあることに気が付いて、「いつも車をどこにとめているんですか?」と尋ねた。

「シルクセンターのコインパーキングですよ」

この辺は観光地なのでコインパーキングがとても高い。特に土日はかなりの高額だ。

「よければ、うちのマンションの駐車場使ってください。区分所有になっているんだけど車持ってないから空いてるんです」

「えっ、そんな申し訳ないです」

「いや、今空き家状態なんで、見るだけ見てみません?」と食い下がる僕。

「まるで、不動産屋さんの営業マンみたいですね。やっぱり私に営業かけてます?」と彼女は笑いながら僕をみた。


場所だけ見てもらうことになって、二人は車を停めてあるシルクセンターの駐車場にやってきた。

彼女がどんな車に乗っているか、内心とても興味があった。そして、それは大きく裏切られた、いや裏切られなかったのか?

そこにあったのは、濃紺の初代フェスティバのキャンバストップだった。もう30年前の車か。

「古い車で驚きました?」

「い、いや。これは、いいですね」

そのフェスティバは古いけどとても大切に乗られていたことがわかる。

そして、天井は真新しい真っ白なキャンバスに取り換えられていたのだ。

助手席に乗り込むと、女性らしい装飾的なものは何も置いていない。

クレーンゲームのぬいぐるみとかあったら興ざめだなぁとちょっと内心思っていたので、ほっとした。

唯一、フリルのついたティッシュケースがそれっぽいだけだった。

「父がずっと乗ってたんですけど、それを兄が引き継いで10年くらい乗って、それを私が引き継いだんです」

そんな話をする彼女の横顔見ながら、この人が持つ何か穏やかなふんわりした雰囲気は、その家庭がはぐくんだものなんだろうなと思った。


シルクセンターからうちのマンションまではそんなに距離はないけど、少し遠回りしてもらって山下公園通りを東に向かった。

「この天井開くんですか」

「あけてみます?」と彼女は道端に車を止めて、電動スイッチを押した。

「これあけるの久しぶりなんです」と彼女。

再び走り出すと、オープントップのフェスティバは光の中を進んでいるような解放感だった。

いつもの街がまったく違って見えて、両手を広げてワーッと叫びたくなる。

彼女は空を見上げながら「わたしもキャンバスを開かないといけないかな」と呟いたように僕には聞こえた。

いや聞き間違いかもしれないけど。


マンションの駐車場のリモコンを取りに行く間、彼女とフェスティバには駐車場の入り口で待っていてもらった。

ベランダから覗くと、半分閉じられた白いキャンバストップが眩しい。

車に戻って彼女に駐車場の位置を教えて、僕はひとつのことに気が付いた。

この駐車場はリモコンだけじゃなくてマンションの鍵がないと人の出入りができないのだ。

結局、僕の都合がつく時だけ使ってもらうことになってしまった。

ま、それはそれでいいのだが。


その連絡を取るため・・という理由で、僕らは携帯電話の番号を交換した。

「LINEは?」と聞いたら

「ごめんなさい。LINEはやってないの。LINEがいいですか?」

「いや、僕もLINEやってないんです。友達少ないし」

「わたしも・かな」と二人で笑った。


翌週の木曜日の夜に彼女からショートメールが届いた。

「土曜日の10:00にお伺いしていいですか?」

「お待ちしています」

そして、次の土曜日の10時に僕はそわそわしながらマンションの駐車場の前に立っていた。

遠くから濃紺のフェスティバが彼女を乗せてやってくる。

駐車場に誘導して、車を降りた彼女のジョギングウェアがこれまでと少し違って、ちょっと女の子っぽいというか、明るい感じがするもので少し驚いた。

もしかしたら、ちょっと意識されたのかも・・という表情を見透かしたように彼女は言った。

「もう暑くなってきたので衣替えしました」

確かに出会ってひと月ちょっとなのに、季節は足早に駆け抜けていく。

その季節の変化が一つのエピソードにつながる。


二週間ほどたった時だった。

「もう、来週から来られないかも」と彼女は、すまなさそうにいった。

理由を聞くと、汗をかいて着替えないといけなくなるのでこの時期からは自宅の近所を走っているとのことだった。

確かに、楽しみにしているジョギング後のドトールもなんか汗っぽくて気持ち悪くなくもない。

着替えのできるランニングステーションもこの付近には無い。

「うちで着替えていけば?」

自分でも思わぬ言葉が僕の口から飛び出した。

「いや梨花ちゃんがいいんだったら」と、慌てて繕ったら,「梨花ちゃん」という心の中だけで呼んでいる名前を口走ってしまった。

二重の痛恨のミス。

しかし、彼女の答えは僕にとっては意外なものだった。

「いいんですか?」

この場合、この言葉は僕にとっての最大限ベストな答えだ。

「大丈夫です。バスルームには鍵もかかります。なんなら外出します」と、あわてて並べ立てる僕に、彼女は大笑いしていた。

こんな時は女性のほうが大胆無敵だ。

翌週から彼女は着替えを入れたスポーツバックを抱えて僕の部屋にやってきた。

さすがに外出まではしなかったけど、バスルームには鍵をかけてもらって着替えてもらった。

それ自体に意味があることなのか、すでに疑問なのかもしれないとお互いに思っていたはずだ。

でも、それが大切なセレモニーであることもなんとなくわかっていた。


着替えができるようになったので、僕たちはちゃんとランチを取ることができるようになった。

僕はマリン&ウォークにあるミゲルフアニのパエリアランチに誘った。スペインのパエリアのチャンピオン(というのがいるのかどうか知らないが)が経営しているお店ということで、いつも行列ができている。

実は、結局あの日以来彼女のプロフィールについては聞かずじまいだった。

なんか聞いてしまったら次に会えないような気がしていたからだ。

でも今日は思い切って彼女のことを根掘り葉掘り聞いてみようと、心に決めていた。

そこで聞いた彼女の話をまとめると、実家は金属精密部品を作っている小さな会社を経営しているらしい。

お父さんが社長で、お兄さんが二人いて、上の兄はすでに会社の開発部門を任されている。

下の兄は修行として機械メーカーに就職している。

彼女も大学を出た後この会社で事務の仕事をしていて、家族経営な会社のようだ。

ぼくも機械メーカーなので、意外と共通点があるのかもと勝手に思い込むことにした。

パエリアを食べながら「やっぱりワインがほしいよね」ということになり、一杯ずつワインを飲んだ。

二人でお酒を飲むのは初めてだ。昼間だけど。

ちょっと赤くなった彼女もかわいいかも。

少し酔った彼女は電車で帰ったので、その日、フェスティバはうちの駐車場で一晩過ごした。

フェスティバだけじゃなくて、彼女がうちで一晩過ごす日は来るのだろうか。


小さな転機はその数週間後だった。

僕は土曜日までの上海出張に行くことになった。わりとくだらないトラブルの尻ふきで仕事は難しくなかったが、大切な土曜日を取られるのがちょっとショックだった。

彼女にそのことをショートメールで伝え、最後に次の言葉を付け加えた。

「鍵を渡すので着替えに部屋は使ってください」

彼女からはすぐに返信が来た。

「了解です。水曜日の夜、会えますか」

鍵を渡すためというデートだけど、ジョギングの絡まない本当のデートは初めてだ。

ぼくは翌日からの出張準備を早めに終えて会社をでた。

待ち合わせ場所は桜木町駅に6時半。改札から少し離れた駅前広場の街路灯のまえで僕は彼女を待っていた。

約束の時間ぴったりに、それは見たこともない彼女が現れた。

デートのために着飾ったということではなく、仕事帰りだから当たり前だけどスーツ姿の凛とした佇まいだった。

お化粧もジョギングの時とは違って、とてもきれいにしていて別人のようだった。

「お待たせしました」とほほ笑むと、ちょっとだけいつもの彼女に戻ってほっとした。

僕は彼女と釣り合いが取れているだろうかと、ちょっとヨレたスーツが心配になった。

考えてみれば、彼女が僕のスーツ姿を見るのも初めてだ。もうちょっとちゃんとしてくればよかったけど、今日は早く帰るためにバタバタだったから仕方がない。

「どこへいきますか」と彼女。

今日は馬車道のテンダロッサを予約してある。カジュアル以上、フォーマル未満のイタリアンだ。

「ちょっと歩くけど・・」といって、ぼくは馬車道のほうへ歩き出した。

「ちょうどいい季節ですね」と彼女。

走るには暑いけど、夕方ぶらぶら歩くにはちょうどいい季節になっていた。

手をつないでもいいかなと、ちょっと思った。ちょっと思った瞬間に、彼女が手をつないできた。

たったそれだけなのに、その日何を話したかよく覚えていない。

とにかく食事をして、ワインを飲んで、鍵を渡して桜木町でJRに乗る彼女を見送った。

そのあと、僕はぶらぶら歩いてマンションまで帰った。なんかぼーっとしていた。

彼女の掌の感触が指から離れない。


上海出張は思ったよりハードだった。

とにかく中国人技術者が不良原因について全く譲歩しない。

金曜日の夜中までかかって何とか話をまとめて、僕はホテルのベットに倒れこんだ。

明日は12時の便で羽田に帰る。寝過ごさないようにしないと。

翌朝、僕は彼女からのショートメールで起こされた。よかった。寝過ごすところだった。

「おはようございます。出張お疲れ様です」

それに続いて

「今日、何時に帰ってきますか。夕食作って待っていていいですか?」

一気に眠気が吹き飛んだ。

「もちろんです。6時半には帰ります。キッチン適当に使ってください」

「はい、適当に(あさ)ります(笑); 気をつけて帰ってきてください」

僕は文字通り飛ぶように羽田に飛んだ。


いつもの空港リムジンバスが、なにかもどかしい。

横浜駅に降り立って地下鉄でみなとみらい駅へ。そこから10分歩いて僕のマンションだ。

彼女が本当に来ているのか確かめたくなって、地下駐車場に行ってみた。

白いキャンパストップのフェスティバがちゃんとそこにいて、彼女の香りがした。

10階まであがって、部屋のドアを開ける。

わざとぶっきらぼうに「ただいま」と言ってみる。

すると「おかえりなさい」といってエプロン姿の彼女が笑顔ででてきた。

僕はもう崩れ落ちそうになった。

これはもう新妻以外のなにものでもありえない。新婚家庭の日常でしかありえない。

それを押し隠すように「ちょっと疲れました」と笑ってみた。

「おつかれさまでした」と彼女が僕の持っていた紙袋を受け取ってくれた。

この中には、上海空港で買った彼女へのお土産がはいっていた。


食卓には一人暮らしだと普段は食べないような、普通の家庭料理が並んでいた。

それは、かつて母が僕ために料理を作ってくれていた高校生のころまでの料理によく似ていた。

「すいません。こんな普段料理しかできなくて」と彼女はすまなさそうに言ったけど、僕には何よりうれしかった。

彼女は小さなダイニングテーブルのキッチン側にとても自然に座っていて、そこは主婦の居場所だ。

「ワインも買っておいたんですよ」と、僕の好きなイタリアワインが置いてあった。

ワインを飲むとフェスティバでは帰れない。もしかするとお泊りなのか。よからぬ妄想が頭を駆け巡る。

その日の夕食はとても楽しくて、とてもおいしかった。

おみやげのヒスイのペンダントをわたして、僕は上海で起きたいろいろな出来事をすこしだけ面白く脚色して話した。

彼女は、それを楽しそうに聞いてくれた。

「さあ、そろそろ帰らないと」

9時半を過ぎたころ、彼女はそう言ってお皿を重ね始めた。

「えっ、帰るの?」と思わず口走ってしまった。

「門限があるんです。今日は突破し損ねました」

今日は? 突破し損ねた? ということは突破しようとして失敗した?


彼女をみなとみらい駅に送っていく道すがら、今度は僕のほうから手をつないだ。

そして少し暗いところで、僕は彼女にキスをした。

彼女は「アハッ」と言って、手をぎゅっと握り返してきた。

地下鉄が彼女を奪い去っていったあと、出張疲れがどっと出てきたのは仕方ないね。

マンションに戻って、地下駐車場にお泊りになったフェスティバに「おやすみ」といって爆睡した。


次の転機はすぐ翌週にやってきた。

アフリカに行っている両親が一時帰国するという連絡が入ったのだ。

ここで彼女を両親に紹介すべきか、僕は迷った。

両親に紹介するということは、それなりの立場を表明することだ。

でも、僕と彼女は果たしてそういう関係なのだろうか。

彼女とは毎週逢って、うちの鍵を持っていて、うちのキッチンで料理をして、ましてやキスまでして第三者から見ると間違いなく恋人関係だ。

それでも、僕には両親に紹介する確証がなかった。

考えてみれば、「好きです」とか「つきあってください」とか言ったことも言われたこともない。

あいまいな気持ちのまま、なにも結論が出ないまま僕は彼女に「来週、両親が一時帰国するんだ」と言ってみた。

すると彼女は「え?ぜひお会いしたいです。アフリカの話とかきかせてもらえるのかな」と目を輝かせた。

焦った僕は「君のことをなんて紹介したらいいのかな」と聞いてしまった。

彼女はすこし怒った顔で「そりゃ、今お付き合いしているお嬢さんです。とかじゃないんですか」といった。

怒った顔をはじめてみたけど、とてもかわいい。

彼女はとっくの昔に恋人認定をしていたのだ。気づかない僕のほうがどうかしているのかもしれない。


両親と彼女の顔あわせは、次の土曜日の夕方に、山下公園近くのバーニーズニューヨーク横浜のレストラン「SALONE2007」で行うことになった。

僕は両親をレストランに案内した後、となりのメルパルクのロビーで待ち合わせている彼女を迎えに行った。

彼女の姿を見て僕は息をのんだ。

気合が入っているというのはこういうことなのだろうか。

まるで花嫁のような純白のワンピースにキラキラしたイヤリング。

そして胸には、僕が上海で買ってきたヒスイのペンダントが光っていた。

こんな素敵な姿を見たのは初めてだ。

彼女は僕を見て、小さくうなづいた。緊張しているけど、それなりの覚悟みたいなものを感じた。

「いきましょうか」「はい」

僕は彼女の手を引いて、バーニーズの地下に降りて行った。


「はじめまして。一郎さんとお付き合いさせていただいています間下梨花と申します。よろしくおねがいします。」

と、僕が紹介する前に彼女は自己紹介をした。

それからの時間は笑いが絶えることはなかった。

彼女はとても聞き上手で、父の武勇伝や母の苦労話を丁寧に聞いて、感心したり、笑ったり、時には悲しんだりした。

父も母もとても満足そうで、なにか親孝行した気持ちになった。

両親をタクシーに乗せて見送ったところで、僕たちはとても自然にハグをした。

彼女も僕もとても疲れていた。でも、初めての二人の共同作業は思いのほかうまくいったようだ。

それは、母から送られてきたショートメッセージだった。

「いいお嬢さんね。大事にしないとだめよ」


都筑区にある間下金属工業。

そのことになぜ気が付かなかったのだろう。

日本でも十指にはいる金属加工のエクセレントカンパニー。

主に試作用の精密部品を作っていて、規模は小さいが、この会社が無ければ日本の工作機械は作れないというほどの技術をもっている。

先輩に「これから、横浜の間下金属に行くからちょっと付き合え」と言われて初めてそのことに気が付いたのだ。

JR横浜線の鴨居駅から歩いて15分ほどのところに、間下金属工業はある。それほど大きくない本社事務所に足を踏み入れた途端、彼女の姿が目に入った。

桜木町で見たようなスーツ姿だ。

驚いた顔の彼女に声をかけようとした瞬間、「間下部長。この部品なんですが」と彼女のもとに若い社員が駆け寄った。

「部長?」

先輩社員が「こちらが間下資材部長。まだ若いけど、とてもしっかりしているんだ。」と彼女を紹介してくれた。

彼女は戸惑いながらも、ちょっといたずらっぽい目でで、名刺を差し出して「よろしくおねがいします」と会釈をした。

なにか、まわりに秘密ができたみたいで、ぞくぞくする。

社長と技術部長も紹介してもらう予定だったが、なんとかごまかして辞退した。

だって、彼女のお父様とお兄様にどういう顔をして会えばいいのか。

先輩は、僕の不審な行動をとても不思議がっていた。


間下金属を出た瞬間、彼女からショートメールが入った。

「ああびっくりした」

「こっちこそ。僕の会社のこと知ってた?」と僕。

「なんとなく。ごめんなさい」

謝る必要はない。彼女は嘘は言っていない。

けど、事態は進展している。取引先としてあいさつするのか。娘さんの彼氏としてあいさつするのか。どっちが先だ?


その夜、僕たちは桜木町駅の英国風PUBで作戦会議を開いた。

ここは、みなとみらいに勤める欧米人のたまり場だ。

彼女はモスコミュールを僕はハイボールを、そしてフィッシュ&チップスをカウンターで買って、僕らは奥の席に陣取った。

さてどうする。

彼女はモスコを「おいしぃ~」といって一口、二口飲んだあと、僕の目をまっすぐに見て

「さっき、両親に話してきたの。あなたのこと」と言い放った。

「えっ?」

「実は、このあいだあなたのご両親にお会いしたでしょ。あの日、母が私の姿を見て『ピンときた』って」

「綺麗だったもんなぁ」

「そうじゃなくて、あんな気合が入っている格好は、もう彼氏の両親に会う時しかないって」

「するどいんだね」

「ずっと専務やってたから。今は引退したけど。従業員の面倒をずっと見てたから小さな異変も見逃さない」

「ゴッドマザーなんだ」

「太っているからビックマザーって感じかな。いやそんなことはどうでもいい」

彼女はモスコのグラスをトンとテーブルに置いて、

「両親があなたに会いたいって」といってほほ笑んだ。

僕も自分の両親に会わせておいて、彼女の両親に会っていないのはなんとなく申し訳ない感じだった。

「今度の日曜日。場所は中華街の華正樓をもう予約したって。おねがいね」

「素早いなぁ」

なにか進展の速さについていけない。


中華街の名店である華正樓。モデルのはなさんの実家だ。

彼女の今日の姿は少し落ち着いた感じの色のフォーマルなワンピースだ。

でも、ヒスイのペンダントは忘れずにつけてくれている。

華正樓のロビーで彼女と二人並んで、ご両親の到着を待っていると、彼女が小声で

「実は、もう一つ言ってないことがあるの」

「な、なに。お父さんがとても怖い人とか? すごく反対しているとか?」

「そうじゃなくて。今日は二人の兄も来るの」

それはわかっている。それも目的の一つなんだから。

「実は下の兄はね、大日本精密にいるの」

「えっ、うちの会社?」

間下、間下・・。僕は社員の名前を思い出そうとしていた。いた。確かにいた。それも同期だ。

8年前の新人研修で同じチームだった。

やたら人懐っこい性格で、たしかいまシンガポールだ。

「思い出した。彼がお兄さんだったの? 驚いた。でもいまシンガポールのはず・・」

「あなたのことを話したら、絶対帰ってくるって。今朝、羽田についてこっちに向かっているはずよ」


長兄の真一さんがご両親を連れて華正樓のロビーにやってきた。

僕が頭を下げると、僕と並んでいる彼女もあわてて頭を下げた。

自分の親に頭を下げるなんてこういうシーン以外には考えられないかもしれない。

「はじめまして。鈴木一郎と申します。梨花さんにはいつもお世話になってます」とビジネストークみたいなことを言ってしまって、お父さんに「名刺でもくれるのかな」と、ちょっと笑われてしまった。

お父様は、一代でエクセレントカンパニーを築かれたバリバリの、という雰囲気ではなく、なにか包み込まれるような器の大きそうな人だった。人を蹴落としてではなく、実直に信頼を積み上げてきたことがわかる。

お母様は、まさにビックマザーで物理的に器の大きい人だ。彼女の言う鋭さは感じなかったが、そこが侮れないところなんだろう。

真一さんは、僕より3つ年上の東工大をでたエリートで技術部長という要職にあるのに、そういうオーラの全くない人でただただニコニコしていた。

一通りのあいさつが終わったころ、エントランスのほうから「鈴木~」という大きな声がした。

間下だ。リモワの大きなジュラルミンキャリーを引っ張りながら駆け寄ってくる。

「お前、いつの間に妹に手を出したんだ!!」と、殴りかかるふりをして抱き着いてきた。

彼の顔を見て、いろいろなことを思い出した。彼とはとても仲が良かったんだった。

でも、社会人としてバラバラになって8年もたつと、そんなことは日常の記憶からは忘れ去られてしまうもんなんだなと思った。

この忘れていた記憶の中に思わぬ事実が刻み込まれていたことは、その時にはまだわからない。


華正樓のコース料理はとてもおいしかったが、間下家5名vs僕1名では完全にアウェイで食事はあまり喉を通らなかった。

このあいだ、うちの両親と楽しく会話していた彼女のコミュ力がとてもうらやましく思える。

ただ、間下が二人のなれそめとかをうまく聞き出したりして、場を盛り上げてくれてありがたかった。

結局「妹がナンパされた」という話になってしまったのだが。

パーティがお開きになり、真一さんがご両親をつれて帰ったあと、間下と彼女の三人で飲みなおそうということになって、僕らは中華街の端にあるジャズクラブ491HOUSEに入った。

仕事の話は極力避けたかったが、同期でもあるのでどうしても会社の話になる。特に新人研修のころの話は懐かしく楽しかった。

僕は彼女を会話から置き去りにしないように気を付けながら、間下との思い出を語った。

入社して半年間は二人は大阪の工場での研修のため同じ寮に入っていた。

初めての関西で、毎週土日はどこかに遊びに行っていた。間下と二人のこともあったし、一人の時も、もっと大勢の時もあった。

ちょうどユニバーサルスタジオジャパンが盛り上がっていて、僕を頼ってやってきた横浜の親戚に観光案内をさせられた。おかげで、USJには何回も行く羽目になった。

「確か、間下ともUSJに行ったよな」と僕は、間下との記憶をたどった。

「あの時、誰がいたっけ。間下と二人で行くはずはないよな。たしかお前の親戚の女の子が何人か東京からやってきて一緒に連れてってくれとか言われたんだった」

あの時は女子高校生が3人やってきて、ちょっと大変だったな。あれ? ちょっと待て。

僕は記憶のページを慎重にめくり始めた。

その時、確か間下の妹もいたはずだ。僕は少し混乱した。

そして何かを言いだそうとした瞬間に、ジャズのライブ演奏が始まった。

その間に僕の記憶はだんだんと鮮明になってくる。

間下の妹は髪が長くて眼鏡をかけていた。一緒に来た3人の中では一番地味で目立たない感じで、最後まで言葉を交わしたかどうかの記憶もない。名前さえ憶えていなかった。

ただ、僕がお土産にスヌーピーの大きな缶バッチをあげたときの驚いた笑顔だけはとてもよく覚えている。そして、それが今の彼女の笑顔と全く変わらないことに今気づいたのだ。

演奏が終わって、チップの千円札をステージの箱に入れて僕は深呼吸した。

そして、彼女に「もしかして、僕は高校生の梨花さんと会っている?」と聞いてみた。

彼女はうつむいて数秒考えてから顔を上げて「やっと思い出してくれました?」と笑った。

びっくりして心臓が止まりそうになった。

「い、いつから気づいてたの?」と僕。

「スプレーを貸してくれた時に、あなたの顔を見てすぐにわかったの」

「よく覚えていたなぁ。8年前に一度会ったきりなのに」

「初恋ですもの。忘れないわ」と恥ずかしそうに笑った。

そして「怒った?」と不安そうに僕の顔を覗き込んだ。

「いや、全然」

「よかったぁ」そういった瞬間に彼女はぽろぽろ泣き出した。

実際まったく腹は立たなかった。むしろ、かわいいとさえ思った。


ただ、本当にスプレーを貸した時が彼女の作戦の始まりだったのだろうか。

もしかすると、僕を追い抜くところからだったのかもしれない。

いや、それよりもっともっと前からなのかもしれない。

でも、それはもうどうでもいいことだ。

今は彼女の作戦に心地よく身をゆだねていたいと思う。

そんなことを考えながら、彼女の泣きながら笑っている姿をながめていた。



大好きな、みなとみらいや山下公園、馬車道あたりを舞台にした小さなラブストーリーを描いてみたいなと思いました。

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