過去と未来の狭間で 1
視界には、真っ暗な世界が広がっていた。
また、あの暗闇に戻ってきたのか――と思ったが、どうやら違うらしい。暗いながらに自分の身体や、今いる場所の風景がうっすらと見えている。単に、部屋の電気が消えているんだ。
おれは寝ていたようだ。身体を起こそうとした時、妙な違和を感じた。右腕を動かしているはずなのに、なにかに触れる感じがない。
左手に問題はなかった。その左手で、右腕の異常を確かめた。
が、そこに右腕はなかった。
あの激痛も失われていたが、そこにあるべきはずの右腕もまた、失われてしまった。それはしょうがないことだ。世界を移動するために、右腕を置いてきたんだ。
「そうだ、鍵乃はっ!」
もし鍵乃が死んでいたら、右腕を犠牲にした意味がなくなる。それだけは考えたくなかった。どうか、生きててくれ……。
左手で立ち上がろうとすると、なにやら柔らかいものに触れた。なんだろう、この感触は。弾力があって、気持ちいいな。
「ひゃうっ、んんっ……。そ、そこは、ダメだよぉ……」
ずいぶんと近くから……ってか、すぐ隣から声が聞こえてきた。鍵乃は生きてた。よかった。……でも、だったら、この感触は……。まさか。
「うわっ!」
鍵乃のおっぱいを揉んじまった! いや、これはついてる。右手はついてないけど、ついてるぞ。もう少し堪能してから手を離すべきだった。無念。……とか言ってる場合じゃない。
「どうして鍵乃が、ここで寝てるんだ?」
鍵乃は身体を起こし、カーテンを開けた。少し寝癖がついてて、眠たげな表情がかわいかった。パジャマ姿もいいな。パンダ柄っていうのも、実にいい。
おれの右腕は、肩の辺りから完全に消失していた。これはもうどうしようもなかった。
部屋は、現実の世界に近い。ファンタジーのような世界じゃないということか。
けど、どこかで見たような気がするんだよな……。
「どしたの……修弥」
あくびをして、鍵乃がベッドに腰を下ろす。そういや、鍵乃はあまり朝が強くなかったっけ。
「どうしたの、じゃない。どうして一緒に寝てるんだ」
「え? 前から一緒に寝てたよね?」
「前から?」
阿呆みたいに、鸚鵡返ししてしまった。え、どういうこと? この世界の「樫井修弥」は、そんなうらやま……じゃなくて、ずる……でもなくて、超絶ラブコメ展開してやがったのか!
「勇者ごっこ世界」でも「機械帝国世界」でも、状況を理解するのに時間はかかった。けど、それとは違う意味で、この状況が飲み込めない。
鍵乃は幼馴染だ。しかし、こうして一緒のベッドで寝るほど、仲が進展してたかといえば、そうじゃなかった。まあ、小学校中学年で止まったままなんだから、仕方ないが。
別に鍵乃を好いていたわけじゃない。一種のあこがれを持ち、それ以上に友だちと思っていた。少し前までは、鍵乃に罪悪感を抱いていたが、今は自信を持って言える。
おれは、鍵乃が好きだ。ずっと一緒にいたいと思っている。
一種のベッドで寝ているということは、それなりの仲だったはずだ。よほど気を許していなければ、いくら頭がアレな鍵乃でも、同じベッドで寝たりしないと思う。
あの日事故に遭わなかった鍵乃と、この世界にいた「樫井修弥」は、こうした関係になってたんだな……。
けど、高校生だというのに、同じベッドで寝てるなんて、我ながらけしからんぞ。おじさんは怒ったりしないのか? 変な過ちはしてないだろうな。「夜の勇者」なんて二つ名をつけられてないことを祈る。まったく、おれの聖剣は朝から元気だ。
……とくだらないことを考えつつ、嬉しいと感じていた。
様々な世界でおれを助けてくれたのは鍵乃だ。だからこそ目を覚ましてほしかったし、助けたいとも思った。鍵乃がいてくれたら、それだけで嬉しかった。
これで、よかったんだよな。
また違う世界に漂流してしまうのかもしれないけど、それでもこの世界で、鍵乃と一緒にいよう。失ったものも、絶対に取り返してみせる。
「修弥、大丈夫?」
「……悪い。おれも寝ぼけてたみたいだ。ちょっと、悪い夢を見ててな」
言うが早いか、鍵乃はおれを抱きしめてくれた。ああ、同じだ。いつもこうして、守ろうとしてくれる。
「苦しかったら、私に言ってね。私も、修弥に言うから」
「ああ、分かってる。大丈夫だ」
この世界での平和を守るために、鍵乃を守り続けよう。それが、この世界でのおれ――いや、樫井修弥の役目だ。
でも今は、もう少しだけ、甘えてもいいよな。そしたらまた頑張るから。鍵乃の胸のなかでおれは、改めて決意を固めた。
制服に着替え、階段を下りていった。右腕がないのはすごく不便だ。着替えもままならず、朝の貴重な時間に、たっぷり二十分も使ってしまった。
階段を降りながら、またしても既視感を抱いた。この世界の「おれ」が見ていた景色だからなのか。それでも、ほかの世界では感じなかった。気になるけど、思い出せない。
「おはよ、おにいちゃん」
「おはよう」
リビングに行くと、すでに夕夏がテーブルについていた。夕夏はいつもどおりだな。反抗期じゃないみたいだ。これも、引き継がれた点だろう。でも、学校に行くはずなのに、まだ制服に着替えてないな。
テーブルにつき、キッチンを眺めた。キッチンには、鍵乃が入っているようだった。鍵乃の料理スキルは未知数だが、期待してもいいかもしれない。
親父がいないから、鍵乃がこうして家に来て、世話をしてくれてるんだろう。夕夏は家事が苦手だったし、おれは問題外だ。事故に遭わなかった鍵乃は、家事が得意な女性に育ったようだ。
でも、少し親父に任せすぎていたな、と反省する。親父は朝食に弁当二人分、休日に掃除と急がしそうにしてた。もちろん、仕事もあるのにだ。
洗濯はしてたけど、もっと積極的に手伝うべきだった。親父の負担を、少しでも減らすべきだった。
それにしても、親父を元に戻すにはどうしたものか。いくら探してもUSBメモリもなかったし、実体化なんてできそうもない。困った。
リビングを見渡すと、その近代的な家具や機械ばかりが並んでいた。テレビは、映像を何もない空間に映し出すものだし、見慣れないものもたくさんある。配線もなかった。
「はい、おまたせー」
そう言って、鍵乃はお盆に皿を載せてやってきた。エプロン姿も素晴らしい。そして、その下の制服姿も魅力的だった。
「……かわいいな」
「ええっ? いきなりどしたの?」
「いや、制服が似合ってるよな、って思ってさ」
「似合ってる、かな……?」
「ああ、似合ってるさ。めちゃくちゃ似合ってる。かわいいよ」
「えへへっ。ありがと、修弥。嬉しいよ」
鍵乃は嬉しそうに笑った。
「むぅ、ずるい! あーあ、あたしも早く制服着たいな」
「なに言ってんだよ。夕夏だって、制服着てただろ」
「えっ? おにいちゃん、まさか気づいてたの……?」
夕夏の顔が、見る見る赤くなっていく。なんだなんだ? いったいどうしちまったんだよ。
「毎日着てるよな?」
「ま、毎日は着てないよっ! おにいちゃんのバカっ!」
どうにも話がかみ合ってないな。夕夏は中学に通ってるんだから、制服を着るのは当然じゃないのか? あ、そうか。土日は着てないから、毎日じゃなかったな。
「それより、どうして今日は右腕をつけないの?」
「腕って、そんな――うわぁっ! なんだよっ!」
鍵乃は人間の右腕を抱えていた。朝からグロテスクすぎるだろ。これから飯を食うっていうのに。
「なにって、修弥の義手だよ? これつけないで着替えたの? 大変じゃなかった?」
確かによく見れば、それは生の腕じゃなかった。でも、本物そっくりすぎて怖い。この世界の義手は、ここまで進歩してるのか。
「じゃあ、私がつけるね」
「お、おう。頼む」
おれは上着を脱ぎ、腕をつけてもらった。かちゃり、と接続する音が聞こえ、それから腕の感覚がよみがえってくる。こわごわと右腕を動かしてみると……動いた。ためしにコップをつかんでみたが、問題ない。普通に動かすことができる。
「すげえな……」
「もう、おにいちゃんったら。そんなに腕の装着を手伝ってほしかったら、あたしがやってあげるのに」
「でも、夕夏ちゃんには難しくないかな? 痛くないようにはめるのには、コツが必要だし」
「あたしだって、ちゃんとはめられるもん!」
「あーもう分かったから。そう騒がしくすんなよ」
朝から「はめる」とか、ちょっと自重してくれよ。それじゃなくても、鍵乃と一緒に寝ていたというシチュエーションを妄想して興奮しちゃってたんだから。
「でも、なんだか実感ないね」
「なにが?」
「今日から高校生なんだよね、私たち」
「え?」
慌ててカレンダーを探す。カレンダーはなかったが、時刻と日付、温度・湿度に天気まで表示された時計があったので、それで確認した。
今日は四月八日。それも、おれがいた現実世界よりも、一年と六ヶ月前ということになる。……過去に戻っているってことかよ。
だから夕夏は制服を着てなかったんだ。中学に入学するのは来年のことなんだから。でも、だったらさっき制服着てたってのは、なんだったんだろう。
「修弥もまだ、実感できてないみたいだね」
「あ、ああ……。まあな。危うく、中学に行くところだった」
「もー、おにいちゃんってば」
「私が言ってなかったら、危ないところだったね」
あははははっ、と二人は顔を見合わせて笑っていた。おれはあまり笑えない。
まさか、過去の現実世界に飛ばされてしまうなんて。それも、鍵乃が事故に遭わなかった過去に、だ。こういうのを、パラレルワールドとか言うのか?
ま、でも鍵乃が生きているならそれでいい。戦いがあれば戦うし、危機が迫ったら助ける。単純明快。それまでは、この世界で楽しむのも悪くない。
テーブルには、ご飯と卵焼き、焼き鮭がそれぞれ皿に盛られて並んでいた。どれも美味しそうだ。腹が減っては戦もできぬ、ともいうし、早速いただくことにした。
と思えば、箸がなかった。箸の置き場も分からないし、頼まなくちゃならん。そう思って、口を開きかけた時だ。
「あーん」
目の前に、卵焼きが箸につままれ浮いていた。その奥に、鍵乃の笑顔が見える。これを食べろっていうのか? なんだよ、恥ずかしすぎんだろ。
おれは一瞬ためらいつつも、鍵乃の笑顔を台無しにしたくなくて、卵焼きを食べた。うん、めちゃくちゃ美味しい。恥ずかしいけど美味しいっていうのは、なんとも新鮮だ。
「美味しい?」
「ああ、美味しいよ」
鍵乃の笑顔を見て、幸せだな、と思えた。




