楽園
世界のどこにでも、楽園があるらしい。
美しいものが集まる輝きの場所があるらしい。
「…そんな場所、ありませんよ」
「レイ、そんなこと言わないで」
ふわふわと風に柔らかそうな髪を遊ばせながら俺をたしなめる姫。
清く優しく美しい、俺の主。
俺の護るべきひと。
「私は信じたいわ。楽園はあるはずよ」
「どうしてそう思うんです?」
「……信じたいの」
俺に背を向け、姫はお気に入りの薔薇園を見つめた。
風はおさまり、姫の長い髪が小さな背に流れている。
嗚呼、また。
この人に辛いものを背負わせてる。
俺を遠ざけ、近づけないようにしてる。
昔もあった。
後から知ったことだが、平民の俺を専属騎士にしたことで姫は多くの人々から批判を浴びたことがあった。
その時も姫は、俺には絶対、話さなかった。
普段は柔らかい容貌を冷たい美貌へと豹変させ―――ぞっと毒を吐いたらしい。
人々の批判に反論したものの、その内容は冷徹すぎ人々を凍りつかせた。
あくまで噂だったが、姫が一部の人間から恐れられている事実から、信憑性はあると思う。
「……、」
「レイ、冷えてきたから中に戻りましょう?温かいものでも用意しましょうか」
「―――姫」
振り向いた姫に、俺は跪く。
彼女の顔が見れない。
このひとはちゃんと俺を見ているのに。
「私は、姫の騎士です。ご命令ならば楽園までお連れします」
「レイ。顔を上げて」
姫の声にゆっくり顔を上げる。
どこか無理しているような表情。
けれど儚い微笑を掃く紅い唇。
「――貴方は国王付きの騎士になりなさい」
「!?」
「私は一ヶ月後、海の向こうの国に嫁ぎます。貴方はこの国に必要ですから残りなさい」
「嫁ぐってどうして、俺は…!――私は姫のために騎士になったのです!あんな下衆のためになど……っ!」
「―――レイ」
冷ややかな声が降り注いだ。
ぞくりとするほど冷たく威圧的なのに、そこにはっきりとした拒絶はない。
「国王様をそんな風に言わないように。貴方の主が私でも、私の主は国王様です。主の主を貶すのは騎士失格です」
「……姫」
「主命です。国王付きの騎士になりなさい」
そう言い残すと姫は俺を置いて宮殿へ足早に向かっていった。
ぎり…、と歯ぎしりをする。
何もできない苛立ちと、頼ってもらえない情けなさと、我慢をする姫への怒りが入り交じり、爆発しそうだ。
(……ひとりにしたら、危険だ)
理性はちゃんと騎士の私になっているのに、俺自身は動き出せない。
姫は言外に俺をいらないと言ったのだ。
それが他ならぬ俺のためでも、傍にいて欲しくないと言うことだ。
「くそ……っ」
握りしめた手が冷たくなるのを感じながら俺は動けずにいた。
誰よりも頼ってほしいひとは誰よりも優しい―――優しすぎた。
「きゃあぁっ!」
「っ!?姫ッ!」
唐突に上がった悲鳴は姫のものだった。
すぐさま声のした方へ駆けるとかすかにきつい酒の臭いがした。
けれど見えたのは姫に降り下ろされた短剣と降り下ろしたフードを被った刺客と―――倒れていく姫。
「姫ッ!!」
「…れ、い……」
逃げ出す刺客を追いかけず、姫に駆け寄り、細い身体を抱き起こした。
意識を朦朧とさせているが不幸中の幸いか、大きな怪我はなさそうだ。
「姫、姫……っ!」
「だい、じょうぶ。少し……髪を斬られただけ」
その言葉に、姫の髪が荒く斬られているのに気がついた。
ひしひしと、怒りと後悔が沸いてくる。
どうして俺自身を優先してしまったのだろう。
「申し訳ありません…!念のためすぐに医者に」
「いい…。部屋に帰りたい……」
きゅっと俺の上衣を掴み姫は震えた声で言った。
そこでようやく気づく。
「……怖かった…っ」
姫は小さく小さく、本当に消えてしまうような声で俺に伝えた。
怖かっただろう。
刺客の主が誰にしろ命を狙われたのだから。
「……姫」
少し躊躇って、けれど俺は姫を抱き寄せた。
俺の胸に姫の頭がすっぽりと収まる。
その頭を優しく撫でた。
「大丈夫。俺がいる」
騎士ではない、俺自身の労りにやがて姫はひっくひっくと嗚咽を零し出した。
先ほどの刺客はきつい酒の臭いがした。
この王宮で一番酒を浴びているのは姫の実父―――腐った国王だ。
つまりあの刺客は国王の手の者と思われる。
姫と国王の仲は険悪だ。
けれど姫は国王に従う。
父娘という鎖は姫にとっては毒だと俺は思うのに。
「レイ、レイ……っひ」
「大丈夫。俺が護るから泣かなくていい」
しばらく姫は泣き続けたあと流石に疲れたようで瞼を閉じ俺に寄りかかった。
そんな姫を抱き上げ、俺は姫を部屋まで運んだ。
寝台にそっと下ろすと姫は薄く瞼を開き、躊躇いながら俺の服の袖に触れる。
「レイは、私が嫁ぐのに反対……?」
「…はい。姫はいくつですか?」
「……、十七」
そう、姫はまだ成人前で少女と言って過言ない。
普段は驚くほどに大人びているがそんなのただの背伸びだ。
まだ自由に笑っていていいと俺は思う。
「そうです。……けれど、王女としての責任があると言うのなら、せめて私を連れて行ってください」
「でもレイはこの国に必要なのに」
「私は姫にしか従う気はありません。頼まれても従いません」
こればかりは仕方のないことだと俺は思う。
姫が一時的に誰かを守れと命じるのなら、渋々ながら俺はその誰かを守るだろう。
だが、姫が俺を誰かに預けたり―――俺を引き離すようなことは俺は望まない。
「……どうして、どうしてレイはそんなに私に尽くしてくれるの…?騎士だから……?」
「……それは」
勿論、姫の騎士だからという立場もある。
けれど俺は、ただの男として姫を守りたい。
この感情の名前を俺はずいぶん前から知っている。主従関係の俺たちには禁じられているということも。
それでも、今なら。
「貴女が、誰よりも大切だから」
ふわりと、姫の柔らかい頬に触れた。
狡いのはわかっている。
姫を困らせることになろうということも。
すべて承知で、俺は姫に伝える。
「―――好きです」
俺の膝の上に投げ出された右手を取り、唇を落とした。
姫の細く小さな手と俺の無骨な大きい手。
あまりにもかけ離れた俺と姫。でも俺は貴女に惹かれた。
「…好き、……っ?」
姫の真っ赤な顔がこれ以上ないくらい可愛い。
いつもは澄まして、美しいという言葉が似合う容姿は気を緩めると年相応の愛らしいものになる。
俺はその愛らしい表情も好きだ。
「はい。エスカテーラ様、俺は貴女を愛しています」
恋情を認めてから初めて口にした姫の名はスッと俺の胸に落ちる。
心地いいぐらいの響きに心を奪われそうだ。
心なしかエスカテーラ様の瞳が揺れている。
「俺と一緒に、楽園を見つけませんか?」
「レイ……」
エスカテーラ様が俺に腕を伸ばし、―――口づけた。
一瞬だけ、薄絹を掠めたような感触に徐々に状況を理解した俺の頬に熱が集まる。
「ひ、姫……?」
「エスカテーラじゃ、ないの?」
照れたように上目遣いで訊ねる姫は今までで一番可愛かった。
姫呼びに戻っていたことも忘れて、俺は彼女を見つめる。
「レイ、私を楽園に連れて行ってください。私、貴方と一緒にいたい……!」
ぎゅっと俺の手を握り返し、エスカテーラ様は告げる。
これは現実だろうか。
夢にまで焦がれた女が一緒にいたいと言ってくれている。
「ずっと傍に。絶対に俺から放さないから―――エル」
出会って初めて口にした彼女の愛称。
そして俺はエルを抱きしめた。
「レイ、私のとっておきの秘密を教えてあげる」
エルはそう言って、俺の耳に囁いた。
「……ずっと前から貴方が好きだった」
二人で笑い、唇を重ねた。
楽園は、結ばれた二人の未来にある。
そこはきっと、光り輝くような世界だろう。