大正時代~終戦
『おなかがへったわいわいわい』
1920年、大正9年生まれ、生きていたら95歳。
私の祖母静江は山梨で10人兄弟の末っ子として生まれた。
『おーい、全員揃ったかー』
と父一郎は食卓の前で朝食を待つ。
10人が食卓に並ぶ。厳格な父は大地主である。
地主の末っ子として裕福な家庭で育った静江。
成績優秀、高等女学校(東京女子高等師範学校)に進学する。
ただ1947年の終戦が全てを変えた。10人いた兄弟で生き残ったのは2人。その当時としては珍しいことではなかった。男は全員戦死した。戦士して戻ってきたのは紙きれ1枚。遺骨はない。
農地改革により土地も失った。見渡す限り、我が家と言っていた土地はほとんどなくなってしまった。
この時から静江の激動の人生がはじまるのである。静江27歳の時である。
その時、私は東京にいた。東京にてお見合いをしたのである。相手は着物の絵柄を書く人。面長の眉毛がしっかりした端正な顔立ちの人だと思った。私は山梨の田舎から出てきたので、田舎者と思われないよう精一杯おしゃれをしていった。数回の食事を重ね、ついに夫婦となることになった。これで私も家族をもてる。主婦としてやっていかなきゃと思った。静江29歳の時である。
私は毎日、夜遅く帰る夫を待っていた。子どもにも恵まれ2人の子どもが生まれた。長女を綾、二女をみきと名付けた。育児をしながら、夫が帰ってきてごはんを食べる。そんな幸せな生活は4年続いた。
ある日曜日、いつものように将棋を友人をさす夫。お茶をだす私。ちょっとトイレに行ってくると。どうやら昨日も夜中まで呑んでいたらしく疲れいる様子だった。なかなかトイレから戻ってこないからトイレまで見に行くと夫が倒れていた。脳溢血で即死だった。この時、静江34歳。シングルマザーとなる。