A Beautiful Dreamer
~平成10年~
~携帯電話が市井の人々にも必携の品になり始めた頃の物語~
A Beautiful Dreamer
ケータイなんかを持つようになって、あらためて確認できたことがひとつある。それは、私は寂しいってことだ。
それまでだって分かってはいた。でも意識しないようにできていた。職場に着けば、同期の娘とはふつうに話をする。上の人たちとの関係も悪くはないし、同僚たちとも一応うまくいっている。たまには仕事帰りに飲みに行ったりもする。阻害させているわけではない。いけないのは、24のこの歳までそのままにしてしまった臆病な性格だ。
子供の頃から気が弱かった。友達が遊んでいても「混ぜて」と言えない子供だった。相手に強く出られると、抵抗のひとつもできずにいつも泣かされていた。
「蚊の鳴くような声で、のんびりしゃべられると、こっちがいらいらしてくるんだよな」
高校時代、クラスメートの男子に言い捨てられた。あれ以来、人と話すときに身構えるようになった。
特に集団ほど苦手になった。うちとけた雰囲気であればあるほど、自分の居場所を狭めてしまう。
私は本当に受け入れられているのだろうか。
そう思うと、話す相手を選んでしまい、みんなの会話に積極的に入り込めなくなってしまう。溶け込む機会を逸すると、ますます輪から遠ざかる。自分が口を開くと、みんなが奇異に思って注目する気がした。空気が変わる気がした。それが怖かった。
そこで黙ってしまうと、周りが私に気を遣う。取り残してはいけないと、「由紀子はどうなの?」って話題を向ける。
「だめだよ、由紀子。なんにもしゃべらないで一人でにこにこしてるだけじゃ。もっと勇気出して飛び込んで行かなくちゃ、なんにも変わらないよ」
飲み会が終わって二人になると、同期の尚美にいつも叱られた。
その通りだってことは分かっている。私は私で仕方がない、私にだってささやかな長所はあるし、そういうところで自分の弱点を補うしかない。理解してくれる人が一人ずつでも増えていけばいい。いつかはふさわしい男性が現れて、普通に幸せにもなれるはず。そう思って毎日過ごしてきた。
でも私が生きているのは人の社会だ。弱点と言い流すには致命的だということに気づき始めていた。それが分かった程度には成長したのかも知れないが、私は心に纏った鎧の着心地に馴染み過ぎていた。いまさら外す勇気はない。
私があの奇妙で素敵なケータイを手にしたのは、そんな自分の性格に行き詰まり始めたころだった。
※ ※ ※ ※ ※
「白川さん。悪いけど、これを人事課長のところに持って行ってくれないか。『先日の件ですが、これで稟議をお願いします』って言って渡してくれ」
「そう言えば、分かるんですか?」
「ああ、大丈夫。この数週間の懸案だから、僕からだって言えば、すぐに分かる。『会計課としては、これ以上は譲れませんから、どうあってもよろしく』って強く言っておいてね」
「え…、私…、そんなこと言えません」
「いいから、いいから。ごちゃごちゃ言うようだったら、蹴りのひとつでもくれてやればいいよ」
さすがにこれを真に受けるほど子供ではないけれど、うちの課長の部下への指示は、相手が乗ろうと乗るまいと、いつもこんな調子だ。預かった書類を持って、私は人事課へ足を運んだ。
運んだと言っても人事課はうちの課と廊下を隔てた向かいの部屋だ。扉をくぐると、人事の人たちの予期したような視線に迎えられた。私の顔を見ると、みんなおかしそうに、にやにやし始めた。その中に同期の松乃尚美もいた。
なんだろ、やだな。
そう思いながら、自分でも聞き取れない小さな声で、失礼します、と言って中に入って行った。みんな無言で仕事の手を止めている。私の挙措に注目しているということだ。生きた心地を失って、課長席まで歩を進めた。
「あの、うちの課長から預かってきました。これで稟議をお願いしますとのことでした」
「お断りします!」
間髪入れずにそう言われた。えっ!?とうろたえると人事課長は満足した様子であとを続けた。
「なんてね、ご苦労さま。これで稟議にまわしましょう。白川さんに蹴り跳ばされないようにね」
笑いが起きた。悪意のないものだと分かってはいても、私にとっては受けをとったのではない、嗤われたのだ。私のもっとも苦手な空気。辛うじて頭だけ下げて逃げるように身を返したら、下半身がついて来れず、足がもつれて転びそうになった。
「大丈夫?白川さん」
心配されてしまうのがまた情けない。ひきつった表情で、大丈夫です、と答えたらしい。見かねた体で尚美が出て来てくれた。尚美は笑いながら、ぽんと私の背中を叩き、二人一緒に廊下に出た。
「しっかりしなさいよ、由紀子。あんた、それでこの先どうやって生きていくつもりなの。いつまでも誰かが助けてくれるなんて期待してるようじゃ甘いよ」
「別に期待なんかしてない」
「してなくたって、周りに気を遣わせてるうちは同じことだよ。他人が苦手なら、それはそれで勝手だけど、せめてもっと毅然としてなよ。頼りなくて見てられないよ」
毅然としてろと言われて悄然としてしまった。処置なしと見たか、尚美は話題を切り替えた。
「さっき、何でみんながあらかじめ由紀子が来るのを知ってたと思う?おたくの課長の声って、こっちまで筒抜けなんだよね。大きい上に大袈裟だから、すぐ分かる。ケータイで連絡とってるオヤジみたい。課長の声しか聞こえないんだから。だから、さっきも誰かに指示を出してるな、使いに来るのは由紀子だな、って、みんなで目を見合わせてたんだよ。ね、ホームズばりの種明かしでしょ、白川くん」
私がふっと笑みを漏らすと尚美は意を得たように、あとを続けた。
「私だったらさ、蹴りのひとつでもくれてやれなんて言われたら、『分っかりましたぁ、足腰立たなくしてやりまっす』って、わざと人事課に聞こえるように返事しちゃうけどなあ。私、得意だよ、ああいうノリ」
丁々発止のやりとりが想像できた。今更ながら尚美の性格が羨ましく思えた。
「ところでさ、今日みんなで飲みに行くんだけど、あんたも来ない?」
「いいけど…、ほかに誰が来るの?」
一瞬顔を曇らせたのを尚美は見逃してくれなかった。大きな両目をきゅっと細めて、「相手選ぶんじゃないよ」とすごまれた。
「私のほかは男の人だよ、由紀子の得意な。西野さんと安城さんと石垣くん。いつものメンバーでしょ。ほら、暗い顔するんじゃないの。いいね、五時ソッコーだからね」
本当に暗い表情をしてたのかも知れない。得意と皮肉を言われてしまうほど男の人は苦手だ。
と言っても、嫌いなわけでも恐怖症でもない。人並みに異性に関心があるくせに、目の前に出ると気持ちが縮こまってしまう。われながら手に負えない性格だ。尚美は私に返事をする隙を与えないよう、それだけ言って持ち場に戻った。
「五時か…」
またどこかの居酒屋で、みんなでわいわいやるのだろう。3時間でも4時間でも、みんなは飽きずにしゃべり続ける。
誰からともなく話題が出る。遊びに行ったときの話、誰かのうわさ話、仕事の不満、趣味のネタ。なんでも良いのだ。何ということもないひとつの話題がぽんぽんと軽快に展開して膨らんでいく。ほろ酔い加減のくつろいだ神経は、笑いに共鳴しやすくなっている。
でも私の神経はいかれた音叉のようだ。みんなでつないだ話題のトスは、私が受けるとぽとんと落ちる。転がっていったボールを追いかけて返すまで待っていてくれるときもあるし、あ~あ、やり直しだ、とばかり、誰かが新しいボールを打ち上げるときもある。そうしているうち、私の足は徐々に輪から退いていく。私のところに飛んで来ないで。そう願いながら。
「いやだなあ…」
苦痛な時間に耐えねばならない。本当に暗くなってきた。
※ ※ ※ ※ ※
五時十五分過ぎ、ロッカーの前に、みんなもう揃っていた。私が中から出てくると尚美は「やだ、あんた本気?」と言って吹き出した。西野さんたちも、ずっこけた身振りでおかしそうな顔をした。なに?と思ったが、みんなの出で立ちを見て納得した。
そろそろ寒い季節だから念のため。そう思って纏ってきた赤いダッフルコートがいかにも大げさだった。いきなり外した感じがした。樟脳の残り香が間抜けさを引き立てていた。さすがにちょっと悔しくなって、
「季節を先取りしたの」と言ったら、
「お、由紀子にしては上等な切り返しだね」と尚美に軽くいなされた。
みんなに合わせて歩きだすと本当に暑くなってきた。これは笑われても仕方がない。みんなの前に姿を現した場面を想像したら、自分でも滑稽に思えて苦笑した。それを見逃さなかった尚美に「なに一人でにやにやしてるの」と言って肩をぶつけられた。その様子に振り返った西野さんが、
「何か良いことでも考えてたの?」
そう声をかけてきた。静電気のような軽い緊張が走り、ぎこちない笑顔で首を振ることしかできなかった。肩に力が入って、ペンギンのような歩き方になっていた。そんな不器用な反応を西野さんは気にも留めず、
「白川さん、ゲームのキャラクターみたいな動きになってるよ」
と、CGの細かいストップモーションのような動きを巧みにまねて、快活に笑った。女の子をからかい慣れた口調だけど、人柄を映して嫌みがない。こういう波長に合わせられないのが残念でならない。気を遣って声をかけてもらえるのは女の子の特権だ。それを上手に生かせないのが私の難点だ。
池袋に出て、サンシャイン通りを奥に進んだ。カメラ屋さんの街頭マイクに迎えられ、ゲームセンターから溢れ出る電子音を全身に浴び、パチンコの出玉の激しい音に押し流される。拡声音の将棋倒しだ。すでに空は暗いのに、夜がここまで降りてこない。音の渦と人の波に揉まれ、早くも疲れてめまいがしそうになってきた。
道端でポケットティッシュを配っている女性の姿がぼんやりと目に映った。ピンクのウインドブレーカーと白のミニスカートに大きめのテニスシューズを身につけた二十歳前後の女の子が「お願いしまぁす」と明るい声で、道行く人にティッシュを手渡していた。何の宣伝だろう。居酒屋かカラオケかテレクラか。足元の紙袋に本日のノルマがまだ大量に詰まっていた。避けて通ろうと思っていたら、もらってしまった。
「町を歩くと荷物の増えるタイプだね」
と、またも尚美にばかにされた。確かにそうなのだ。部屋にもバッグにもコートにもポケットティッシュが貯まっている。以前はよくアンケート調査にもつかまった。荷物は増えないがストレスがたまった。
でも実のところ、このときはそれとはちょっと違っていた。ティッシュを差し出す手につられて、この女の子の顔を見たとき、あ、と開けた口がそのまま固まった。視界がとろんとしていたせいかも知れない。ソフトフォーカスできらきら光るような、その笑顔に引き込まれた。
どこかで見覚えが…。
そう思ったと同時に分かった。一度も見たことのない表情に輝く、あまりにも見慣れた顔。ほかでもない私だった。
網膜に映った情報が行き場を失って、脳が一瞬機能を止めた。差し出されたティッシュに、マリオネットのように手を出していた。私と彼女の二人を残し、周りのすべての人の流れは、水族館の魚群のような音のない世界に退いて行ったようだった。尚美に声をかけられなければ、そのまま立ちつくしていただろう。
「ほらほら、お地蔵さん。置いて行きますよ」
と、それこそお地蔵さんを横抱きにするように前進を促され、ようやく痺れた頭に血の巡りが戻ってきた。正気に戻りきれない夢うつつの状態。気になって何度か後ろを振り返ったが、あの女の子の顔は髪に隠れて、よく見えなくなっていた。
車窓の人を見送るように、見る間に夢は遠ざかった。でも一瞬目の当たりにした、きらめくようなその笑顔は、記憶のネガに鮮やかな印象を灼きつけていた。
などという幻想から尚美にぐいぐい引き抜かれて、着いた先はパチンコ、ゲームセンター、カラオケという三大遊興場に数軒の居酒屋が同居した、歓楽街を縦に連ねたような真新しいビルだった。その一階の入り口前で、西野さんたちは遅れた私たちを待っていた。そうだった、これが現実だったのだ。気鬱がずっしり甦った。
「5階の『酔っこら処』ってのが結構いけるからさ、ここにしよう」
安城さんの提案で、異議も出ずそこに決まった。エレベーターの扉が5階で開くと、そこがそのままお店の入り口になっていて、すでに何組かの人たちが腰掛けに座って順番を待っていた。待ちくたびれた気怠い様子にたちまち感染してしまった。「いらっしゃいませ、お客さま!」という威勢の良い声が鬱陶しく思えた。別の店にすればいいのにと思っていたら、素早くレジの店員に近寄った安城さんの、
「間もなくご案内できますってさ」
のひとことに仕切られて待つことになった。まだ6時前なのに、間もなく入れ替わりがあるということは、先客たちはいったい何時から飲んでいるのだろう。
その間もなくは30分後に訪れた。その間何度も「まだなの?」と店員に催促していた安城さんは、「もう少々お待ち下さい」という判で押したような返事にいらだちを隠さず、今にも店員に掴みかかりそうだった。これがみんなのいらだちを代表しているのでも、ここに誘った手前、体裁を繕っているのでもなく、ただ単に安城さん個人の怒りの発露であるところがこの人らしかった。でも冷や冷やさせられた分、結果として、みんなの不快を浚ってくれ、ほかの4人の気分は和らげられた。
案内された席は10畳ほどの清潔な座敷で7、8人は掛けられる大きな円卓が二つ据えられていた。私たちは、その一つを5人で囲んでたっぷりと使った。安城さんはこれ以上は待てないと思ったか、案内を終えて、いったん戻ろうとした店の女の子を呼び止めて、
「待って。先に飲み物だけ頼んじゃうから。みんなビールでいい?」
と言って私たちに向き直った。
「中生の人。1、2、3、4…、白川さんは?」
いらだちの名残を宿した調子に思わず、「あ、私も」と言ってしまったが、本当はソフトドリンクにしたかった。
「これだけ待たせて、ひどい席に通されたら、暴れてやろうかと思った」
「まあまあ、お前も大人気ないな」
西野さんが笑いながら宥める様子がおもしろかった。石垣さんは我関せず、「この店、何がうまいの?」と早くもメニューを拡げて、品書きを目で追っていた。この人は待っている間も、待たされていることを意識していないかのように、一人でおしゃべりを続けていた。仕事をしていても、仕事中だということが意識にない様子でしゃべっている。
乾杯のあと、まず話題になったのは最近発表になった人事のことだった。尚美のいる人事課の係長だった岩代さんが、今月から総務課の課長代理になった。口が達者で、上に取り入ることが巧みな人だ。
「ひどいんだよ、あの人。下の人間に仕事させたまま、自分はほとんど席にもいないで立ち回ってばかり。それでいて何かうまくいかないことがあると、絶対自分は責任とらないで、すぐに部下のせいにしてさ」
「おかしいんだよ、うちの人事は。あんなのが、どんどん出世して行くんだから、やる気なくなっちゃうよな」
どこの宴席でも、人の悪口に勝る好餌はない。口火を切る話題としては絶好だった。みんなまだ20台で役職人事とは今のところ無縁なため、身につまされることもなく、一歩引いた距離から言いたいことを言える。すでに出遅れていた私に安城さんが声をかけた。
「白川さんはどう思う?」
来た。気を遣われている。みんなが私の顔を見て返事を待つ姿勢になっていた。どう答えよう。私は岩代さんとは一緒に仕事をしたことがないし、この人の昇進にも関心がなかった。口がうまいって得なんだな、と自分に照らして思ったぐらいだが、考えてみれば、そう答えれば良かった。
「あ、私は、特に…」
え?と、神経質に聞き返された。
「私は、…よく分からない」
芸のない返事が、ひゅるるると、しけた音を立てて、目の前の器に落ちて行くようだった。安城さんに冷ややかな顔で「ああ、そう」と口許を曲げられた。どっちらけになりかけたところを、
「白川さんは、岩代さんと仕事したことがないから、本当に分からないよな。あの人の下で仕事したら最悪だよ。白川さんだって、きっと顔真っ赤にして怒るよ」
と、西野さんに助けてもらった。そこに変に達観した石垣さんが、「岩代さんって、顔がうんこみたいだよな」とピントのずれたことを言うと、「なに、それ~!」と爆笑が起こった。活気が戻って助かったが、同じ外すのでも、この人みたいに無神経にものが言えれば気楽だろうな、と思った。
その後は、みんなの会話をよそに黙々とつまみを食べていた。尚美が注文した、たらコロとかいうジャガイモに白身魚の入ったコロッケがおいしかった。嬉しそうに食べていたらしく、「白川さん、しあわせ?」と西野さんにからかわれた。いたずらっぽく「もう一つ食べたい?」と聞かれたのが実は図星で、もじもじと返事をできずにいたら、店員にわざと大きな声で「たらコロ、もうひとつ!」と、もうひとつ、を強調して言われてしまった。となりの尚美に「おかし~」と大笑いされた。
「そう言えば白川さん、ここに来る途中、何かの呼び込みに捕まってたよね」
西野さんがそう言うと、尚美がそれを受けて言った。
「呼び込みじゃないよ。由紀子ね、ティッシュを配ってる女の子をポーっと見つめてたんだよ。結局あれは何だったわけ?」
言われて私もはっとした。尚美に引っ張って行かれながら、バッグに押し込んだポケットティッシュを取り出した。もらったときは気がつかなかったが、二つに折り畳んだ厚手の紙がセロファンの帯で留められている。開いてみると何かの応募ハガキだった。
「なにこれ、ケータイの宣伝じゃない。なになに、『大切な人の心を伝える、業界初の新機能付き』。やだ、怪し~」
尚美の読み上げた宣伝文句に苦笑しながら西野さんも言った。
「出してみれば。絶対当たるよ、これ。加入者を増やしたいんだろうから」
「そうだよ、由紀子。あんた、まだケータイ持ってなかったよね。よし、私が書いてあげる」
尚美はアドレス帳を出し、私の名前と住所を書いて、「誰か、切手ない?切手」と呼びかけた。こういうときは出てくるもので、尚美はハガキを取り返そうとする私の手を払いながら、受け取った切手をべろべろ舐めると飛沫が上がりそうな勢いで貼りつけた。男性陣から拍手が湧いた。座興を演じていたらしい。猫が煮干しを取り合うみたいだったよ、と言われた。
「じゃあ、私が帰りに責任持って投函してあげるから。そんな顔するんじゃないの。由紀子、ケータイぐらい持ってた方がいいよ、絶対」
「私、携帯電話なんか持っても使わないと思う」
「持ってると絶対使いたくなるから。待ち合わせするときなんか便利だよ。別におしゃべりに使う必要なんかないんだし。私は使うけど」
「まあ、始終監視されているみたいで嫌だっていう人もいるからね。無理に持つ必要はないけど、これもひとつのきっかけだよな」
西野さんが割って入った。
「新しいものに踏み込むときって、何でもそうだけど、きっかけなんだよな、大事なのは。俺も友達がただでくれたのが、ケータイ持つようになかったきっかけなんだけど、もう手放せないね。こんな便利なものはない。必需品だよ、必需品」
必需品が、ひちゅじゅひん、になっていた。ふっと笑った拍子に気持ちのこわばりが解けた気がした。結局説得されてしまった。
「じゃあ、白川さん、『ギョーカイ初の新機能』で、まず試しにこの番号にかけてみて。俺が出るから」
笑いながらそう言った西野さんに、こちらも笑顔で頷いていた。あれ、珍しいこともあるものだ、と自分でも思った。お酒のせいもあったろう。でもそれだけではないことに、すぐに気づいた。私はここに来る前すでに、非日常の媚薬に酔っていた。もともと夢見心地だったのだ。
おかげで西野さんとの話は続いた。息苦しい思いはなかった。9割方、聞き役だったせいもある。気を遣ってもらっているのは事実だが、おそらくこの人は自分が楽しみたいのだ。それが気遣いを自然にさせている。私がぽつりと返事をすれば、それを大事に膨らませてくれるし、黙っていたら黙っていたで構わずにいる。それこそ電話で話すみたいに、部屋の中のことにまで干渉してこない。部屋まで踏み入ることなく、私が緊張を意識してしまうすんでの所で、張りつめそうになった空気を入れ換えてくれる。
時間が早く、そして惜しく感じられた。心のどこかが色めくのを感じた。
安城さんたちの間で盛り上がっていた話題に西野さんが割って入って行ったとき、私は引き潮にさらわれるように、すっとついていきそうになった。やっぱり変だ。私が私じゃないみたいだった。
その後の退屈は、却って自分の落ち着きどころを見いだした感があった。早く終わらないかな、と30回ぐらい思ったところで一瞬全員の会話に倦んだ間ができて、めいめいが時計に目をやった。じゃあ、そろそろ。
帰る頃には寒くなっていれば良いな、と思っていたが、汚名返上ならなかった。赤いダッフルコートは依然暑くて重くて大げさだった。その重さは、ふわふわしがちなこの日の私に自分を思い出させてくれた。そうだ、何も変わってなんかいない。
みんなと別れたあと、高架を走る電車のドアに寄りかかって見た遠くの団地の窓の明かりが寂しく胸に染み入った。
※ ※ ※ ※ ※
携帯電話は本当に送られてきた。大きめの辞書ぐらいの箱を開けると、ビニールのカバーを被った不思議なものが発泡スチロールの溝の中に納まっていた。そのまま見ても薄っぺらいのが分かる、化粧用のコンパクトのようなもの。楕円形の突起の一方が、レモンのへたを切り落としたように直線処理されている。金色の金具が付いているところを見ると、そこが蝶番になっているのだろう。とても電話には見えない。コンパクトそのものだった。騙されたのだろうか。あとで高額の請求書が送られてきたらどうしよう。そう考えると尚美が恨めしく思えた。
取り出してビニールから中身を滑らせると、コンパクトのような安っぽい軽さではなく、機械製品らしい心地よい重量感が手の平に落ちた。真珠のような深みと光沢の白に、一滴の朱が水に広がったように淡く色づいた、とても品のいい外観だった。私の手に納まるぐらいだから、コンパクトだとしても小さい。長い方で差し渡しが8㎝、短い方で5㎝ほどだ。ぴたりと閉じてはいるが、周に沿って溝があることからも、蝶番を支点にして二つに開くのは明らかだった。
ところが金具とは反対側の一端には留め具らしき爪もない。どうやって開くのだろうと、隙間に爪を立てて貝をこじ開けるようにしてみたが、無理に開くと壊れてしまいそうだったので、横から見たり下から見たりして思案していると、握っていた縁の一部がへこみ、それは突然開花するように口を開いた。慣性に乗って滑らかに開く高級な質感だったが、驚いて取り落としそうになってしまった。
ところがようやく目にした内側は、開いた両面とも透明なガラス盤になっており、それを透かしてプリント配線されたICチップや機械部品が見えている。これは到底電話には思えない。と言うより、何だかまったく分からない。
そう思って、ガラスの表面に触れたときだった。面全体がわずかに発光して、浮き上がったように見えた。あっと目を凝らすと、そこにゆっくりと文字盤が現れた。光の膜をクッキーの金型で切り抜いたような白銀の英数字と、緑と赤の電話機のマークが整然と並んでICチップに影を落としている。もう一方の面にはワンテンポ遅れて日付と時刻が浮き上がった。いずれもガラス板から数㎜上の空間に投射されている。真横から見ると弱い光が揺曳しているだけで、ふっと吹けば霧散しそうに見える。
確かに電話に見えてきた。でもこんなものが本当に使えるのだろうか。そう思い、ダイヤルの数字に指を伸ばしてみた。感電するんじゃないだろうか、とためらいながら指先が1のキーに触れると、ピピッという電子音とともに、1の文字が輝度を増し、同時にディスプレイから日付と時刻が消え、そこに1が続けて点じた。タッチの感触はまったくなかった。おっかなびっくりの動作だったため、キーを二度押ししてしまったらしい。
すっかり気を飲まれてしまい、赤電話マークの終了キーを押すことに気が回らず、11とダイヤルしたあとの処理にまごついてしまった。まさか0や9と続けるわけにはいかない。天気予報は何番だったろう。そうだ117だ、と勇んで7を押し、緑の電話マークを押すと、
『ピ、ピ、ピ、ポーン、ただ今より、午後9時23分ちょうどをお知らせします』
と声が響いた。力が抜けた。秒を刻む電子音を呆然と聞いて、ようやく終了キーで解除することに気がついた。
電話だ。信じられないけど、これは確かに電話だ。
かっこいい。そう感じた一瞬でそれは私の宝物になった。尚美や西野さんに奨められたとき、あんなに感じた煩わしさがすっかりどこかに飛んでいた。欲しくて欲しくて仕方がなかった人形や自転車やラジカセを誕生日まで待ちに待って買ってもらった、子供の頃の感激が甦った。そう言えばこんな気持ちは忘れていた。まがりなりにも働いて収入を得るようになってからは、洋服でもバッグでもよほど手の届かないものでない限り、奮発すればすぐ買えるようになっていた。
今度は、つながってもつながらなくても困らないところ、今いる自宅にかけてみた。キーに触れる力加減を確認しながら丁寧にダイヤルすると、触れたキーの光が箒星のような短い尾を引いて、次に触れたキーに飛び移り、ディスプレイにわが家の電話番号が表示された。勇気と好奇心とを交錯させて発信キーを押し、急いで耳に当てた。
トゥルルルル。コールの音が耳の奥までこだまする。どきどきしながら耳を澄ますと、まもなく階下で着信のベルが鳴り、一拍遅れて子機がボッケリーニのメヌエットを奏で始めた。母が受話器を取りに向かう足音が聞こえた。わくわくするような臨場感だった。
「もしもし、白川でございます」
母の声だ。今度は十分予期した通り、本当にわが家につながった。
「もしもし、白川でございますが…」
応答から問いかけに変わった母の口調が、そのまま耳に届けられた。その場にいるのではないかと振り返りそうになるほど澄明な音質だ。もはや半信半疑ではなく、実感のこもった満足が胸のうちに膨らんだ。
「もしもし、私、由紀子です」
そう言うと、え?と面食らった様子が手に取るように伝わった。
「あのね、今日送られてきた小包があったでしょ。あれね…」
説明を聞きながら階段を上ってきた母がドアを開けて部屋に入ってきた。受話器の声に互いの肉声が重なり合うと、電波で結ばれた仮構が現実の世界に抜け出してきたような印象を受けた。
「携帯電話なんか買って、あんた一体誰とおしゃべりするつもりなの?スケジュールが詰まってるわけでなし、仕事が終わったら、いつもまっすぐ帰ってくるだけじゃないの」
ほかに言い方はないのだろうか。母は受話器を握った手を下ろして肉声でそう言い捨てると、有頂天の私を見下ろして呆れ顔で子機のスイッチを切った。プツンと通話の糸を絶たれると、夢想の世界から尻餅をついて現実の世界に戻って来た感じがした。
ちょっと水を差された気もしたが、それでも手にした玩具への興味は尽きなかった。母から子機を借りて、今度はこのケータイへの着信を確かめようとした。それで気づいた。このケータイの番号は何番だ?
家事の手を止められて、いくぶん不快げに部屋を出た母を尻目に私は包装の箱を手に取った。ところが取扱説明書の類がない。発泡スチロールを取り除けても見つからない。入れ忘れかとも思ったが、発泡スチロールの規格が箱のサイズとぴったり同じと言うことは、もともと説明書を入れる隙間などないと言うことだ。
途方に暮れて眺めやると、投影されている文字盤の右下隅に『?』マークを見いだした。文字通り「?」と思って触れてみると、キラキラと魔法使いでも出てきそうなチャイムが鳴って、人工音の女声が口上を述べ始めた。
「この度は当社の新製品V209をご利用いただきありがとうございます。これから、このV209の使用方法をご説明します。ディスプレイに表示されているメニューから、ご使用になる項目を軽くタッチして下さい」
『転送』、『留守録』、『メール』などのメニューがゆっくりとスクロールする中に『表示確認』という項目を見つけ、指先で軽く触れた。
「あなたの電話番号を表示します。他の機能についても『?』キーでご案内します」
ひとつひとつの機能を順にタッチし、『?』キーで音声解説してもらった。さらにスクロールし続けると『Vモード』という項目が現れた。これをタッチし、『?』キーを押した。
「これからVモードの機能をご説明します。この機能は本製品に業界で初めて採用されたもので……」
※ ※ ※ ※ ※
「すごぉい」
送られてきたケータイを見せると、尚美はその斬新で先駆的なデザインに驚きと羨望を隠さなかった。そしておもむろに振り向いて私を見据えるとこう付け加えた。「もらっちゃおっ」。
子供の頃、気に入っていた雑誌の付録や、おばあちゃんが作ってくれた大事なお人形を意地悪な子によく取り上げられた。貸して、と言われて持って行かれ、「だめ」とも「返して」とも言えず、何度も悲しい思いをした。大人になって良かったと思うのは、尚美がこのまま本当に『もらっちゃう』つもりはないと分かることだ。
仕事の帰り、近くの喫茶店で尚美と向かい合って、持ち換えた互いのケータイに電話のかけっこをした。新しく手に入れた物を無意味に使ってみたくなる心理は大人になっても変わらないものらしい。私のケータイに着信すると縁が金環食のように周に沿って明滅した。着メロはフォスターの「夢路より帰りて」が初期設定されていた。ちょっと変わった着メロだったが、自分の性格と波長が合って私は好きだった。
「電話線の中をどうして声が伝わるのかさえ分からないのに、ここまでくると、もうさっぱりお手上げだよ。すごいよね、ゲンダイカガクって」
言い慣れないことばを口にしながら、尚美はどこにかけるわけでもなく、飽きずにダイヤルキーをあちこちと押していた。
「糸電話ぐらいだね、私の頭で理解できるのは」
理解できないのは私も同様だけど、そこまでなら、それこそ現代科学の及ぶ域だと思う。手品の方がよほど不思議だ。尚美はこのケータイの本当のすごさを知らない。息を飲むような驚くべき機能をどう説明しようかと思っていたら、
「音もすごくクリヤーだしさ。よっぽど良い部品を使ってるんだろうね。業界初の新機能って言うだけあるよ」
と一歩勇んで納得されてしまった。そうか、それが新機能だと思ったのか。まあいいや、説明の労を取らずに済む。それならそうしておこう。
「由紀子、西野さんに電話してみた?かけてみるって約束してたよね」
「ううん、まだしてない。尚美、それ使ってかけてみて」
「どうして私が。せっかくこんないいものを手に入れたんだから、自分でかけてみればいいじゃない」
「でもいきなりかけて、変に思われたら嫌だから」
「大丈夫だよ。鷹揚な人だから単純に喜ぶに決まってる。悪く言えば、ちょっと鈍いんだけど。まあいいか、私がかけてあげましょう」
尚美は右手に持ったケータイを親指でピ、ピ、ピと途切れなくダイヤルし、耳に当てた。ほどなくコールの音が漏れてくると、私はそれを自分の体の中で鳴っているかと思うほど緊張して聞いた。
「あ、もしもし、私、松乃でぇす。どこからかけてると思う?実はあなたの後ろにいます。あはは、今振り返ったでしょ、分かっちゃった」
電話番号を空でダイヤルしたことと言い、このやりとりと言い、この二人の思わぬ親密さ、と言うより尚美の遠慮のない様子に少々驚いた。
「え、まだ職場にいたの。ごめん、むっとした?あ、そう、してないの。あのね、由紀子が律儀にケータイの届いた報告をしたいって言うから私が交換手になっただけ。いま代わるから、はいはい」
尚美は興の冷めた表情で私にケータイを差し出した。仕事の妨げになったかも知れない成り行きにおろおろしていたら、差し出した手をさらに突き出して、受け取りを促された。
やむなく手にしたケータイから「もしもし、もしもし」と西野さんの呼びかける声が響いた。電波の信号とは思えない、その場で発せられている生の声そのものだった。待たせては失礼という電話のマナーからではなく、玄関で待たせているような気の急く思いから、慌てて受話器を耳に運んだ。
「もしもし。お電話代わりました、白川です」
「白川さん?びっくりした、本当に白川さんだ。松乃の悪い冗談かと思った」
「すみませんでした、まだお仕事中だったんですね」
「もう廊下に出てきたから大丈夫。でもすごくきれいな音質だね。さっきの松乃の声も、あんまり真に迫っていたから本当に振り返っちゃったよ。ほとんど『馬鹿が見る』状態」
「西野さんの声もすごくきれいに聞こえますよ」
「そう?俺、だみ声だってよく言われるけど」
「そう言う意味じゃなくって」
思わず笑ってそう答えると、しゃがれた笑い声が耳に届いた。吐息の温もりまで伝わってくるようだった。
これ以上、仕事を中断させるのも憚かられ、こちらからそう申し出ると、西野さんは余計な気を回したりせず、「また一緒に飲みに行こうな」と明るく言って、わずかの間をおいてぷつりと切った。気持ちの中で余韻が広がった。
「西野さんって本当に鷹揚な人だね」
「鷹揚と言うか無神経と言うか」
尚美はそう答えると、「由紀子、良い表情してたよ」と無表情に付け加えた。
尚美と別れてから私はいそいそと家に帰った。これでよし、データは取り込んだ。早く帰って『西野さん』に電話をしよう。そう思いながら。
※ ※ ※ ※ ※
ケータイの送られてきた日、人工音の女声の説明によるVモードなる現実離れした新機能は到底真に受けることのできない内容で、宝物を手にした感激に水を差された気さえした。
「この機能は本製品に業界で初めて採用されたもので、ダイヤルした相手と架空の会話を体験できるというものです。実際に相手の人にはつながりませんが、『その人なら、こう言うだろう』ということばを極めて高い精度で予測し、声や話し方から記憶や人となりまでを忠実に再現することで、あなたの問いかけに応じ、また自発的に語りかけます。これがバーチャルモード、略してVモードです」
唖然とした。一度通話した相手なら誰でも内蔵されているメモリーに情報が落ちて、いつでもそのデータを読み出すことができるそうだ。髪の毛一本のDNAから個体の設計図を編み上げるようなものだろうか。メモリーの中で擬似人格を培養する。なんだか怖い気がした。そして、そんなことが本当に可能なのか。
そういう私の疑問にまったく応じる気配もなく、案内役の女声は自発的に語り続けた。
「デートの誘いから大事な仕事の交渉まで、本番前にVモードを使って何度でも練習してみて下さい。良い返事を一番効果的に引き出す言い方を見つけ出せたら、あとは迷わず実行です。操作は次の要領で行なって下さい」
疑いながらも魅力を感じて、試してみようとしている自分が情けない気がした。本物だとしたら私は何に使うつもりなのだろう。これが尚美だったら、ばかばかしいと一笑に付して終わりだろう。彼女のような性格には必要のないものだ。
女声の指示通りVモードの設定をオンにすると、ディスプレイの文字が再び輝度を増した。目を射られるほどの輝きに、思わず瞼を閉じて顔を背けた。閉じた瞼の裏に文字盤の残像がくっきりと焼き付いていた。ゆっくりと瞼を開いてディスプレイに目を戻すと、視界に浮かぶ残像に、すべてが金色に塗り替えられた文字盤がぴたりと重なった。細密に彫琢された金箔細工のような、息を飲む美しさだった。謳い文句に対する疑いは翳っていた。幻惑されたと言ってもいい。
通話データのある相手は、その時点では母だけだった。覚えたばかりのリダイヤル操作をして、耳に当てたケータイから響くコールの音に鼓動を焚きつけられながら、私はそっと階下へ降りた。わが家のベルは鳴っていない。もしかして別の家にかかっているのでは、と心配になりかけたとき、受話器を持ち上げる音がした。
「もしもし、白川でございます」
キッチンのガラス戸越しに、受話器を伏せた電話機と、女性週刊誌を開いたままソファーで居眠りをしている母の後ろ姿とを認めながら、その声を聞いた。疑いなく母の声だった。最先端の科学と言うより心霊現象に出会った心地だった。
「あ、私、由紀子です」あごが震えていた。
「由紀子?また暇ないたずらをして。言った通りでしょ。あんたが携帯電話なんか持ったって、持て余すだけなんだから」
いかにも母の言いそうなことを母の口調そのままに言った。しかも、ちゃんと前回の通話の内容を踏まえている。
信じられない、いったい誰につながっているのだ。あなたはいったい誰?
そう尋ねる声がのどの奥で空回りした。もっとも聞いたところで、母もどきの答えが返ってくることは、ほぼ確実に思われた。
怖くなってケータイを耳から離し、手許で見つめた。
「ちょっと由紀子、あんた聞いてるの。お母さん、そうでなくても、もう疲れて眠いんだから。切るわよ、いい?」
ガラス越しに埋め込まれた回路の中で、いくつもの小さなランプが瞬いていた。それが発声のテンポに合っていることに気がついた。架空と言うにはあまりにリアルな電算の為せる業であることに、首の皮一枚で理解をつないだ。あやうく魔界に吸い寄せられそうだった魂に、現実世界から手を差し伸べられた感だった。
「本当に切るわよ、いい?」
本当に切られた。そこまでの処理を計算するのか、と呆れながらも、すっかり気を飲まれてしまった。脳細胞のどのひとつとも共鳴しない体験だった。潜在意識とも前世の記憶とも一致すまい。当てはめる理解の型が私の過去にはないけれど、問答無用で押し込まれた感じだった。
真偽の確認のため、もう一ヶ所にかけてみた。選んだ先は臆病な私としては大胆な相手だった。いったんVモードを解除して、勇気を奮ってダイヤルした。
「はい、119番です。火事ですか、救急車ですか」
「あ、失礼しました。時刻の確認と間違えました」
用意しておいたせりふを言った。
「そうですか、分かりました。気をつけて下さいね」
これでデータは取り込んだ。もう一度Vモードを設定して、119にかけ直すと「はい、119番です」と耳にしたばかりの声がさっきと同じ応対をした。
「すみません、前の家が火事です。ガラスが割れる音がしたので出てみたら、二階の窓から火を噴いてるんです」
これまた用意しておいたせりふだった。
「分かりました、その家の住所と名前、それからお宅のご住所とお名前もお願いします」
言われたとおりに答えると「それではすぐに消防車を出動させます。5分以内に到着すると思います」と言って、向こうから通話を切った。Vモードが本物なら今のやりとりは架空のはずだ。消防車は来ない。
私はすでにこの段階で架空の会話を楽しむ相手を具体的に想定し、そこに思いを馳せていた。そのとき表の大通りにサイレンが響いた。
え、うそでしょ。
聴覚が異常なほど研ぎ澄まされて、闇を貫くサイレンの動きをレーダーのように細かく追った。音の向きが大通りから、わが家の建つ一画に曲がるのが分かった。近づいてくるのは明らかだった。
私は青くなった。魔が差したとしか思えない軽率な試みの代償は高くつくだろう。鼓動が部屋に響くほど激しく、数えようとしても追いつかないほど速く鳴った。体の中でアスファルト工事をしているようだった。人間の体って気持ちひとつでこれだけのポテンシャルを引き出せるのか、と変なところに感心した。
血走る思いでサイレンの糸曳く様子に耳を澄ませていると、見る見るそれは接近し、わが家の建ち並ぶ通りに入り、うちの間近でタイヤとサイレンをぴたりと止めた。部屋の窓にはカーテン越しに赤色灯が追いかけっこの軌道を描いている。車のドアの開け閉てが響き、慌ただしい人の気配がした。
階下で母が玄関に走る足音が聞こえた。何事かと外の様子を確かめに行ったのだろう。終わった、と思った。門扉を開く音が耳に届き、続けてドアを叩く音とチャイムの音が同時に鳴った。絶望的な緊張の中、調子外れの疑問が湧いた。あれ?うちじゃないぞ。
母が玄関を開けたのだろう。突然、外の喧噪が音量を増した。
「いやだ、どうしたのかしら。村田さんのお宅だわ。おばあちゃんが倒れちゃったのかしらね」
物見高い人声に混じって母のことばが聞こえてきた。
救急車はバタンと大きな音を立ててドアを閉めると、到着時に止めた箇所から正確にサイレンを再開し、やがて音程を歪めながら遠ざかっていった。大きな息の固まりがお腹に落ちて、緊張のほどけた体が前のめりに倒れそうになった。その後、動悸が落ち着いたのちも、ついに消防車は来なかった。信じられない偶然だった。
信じられない。
理解を前提にものごとを信じようとするのは傲慢なのかも知れない。そもそも社会の機構も家電製品の構造も自分の体のしくみさえもまったく分からず生活している。私たちにできるのは、現にそうある姿に自然に合わせて生きることだ。すぐに慣れて気にもならなくなるくせに、理解できないから信じられないとは滑稽極まる不遜な言いぐさだ。
多少脅迫気味ではあったが、私はこの不思議を受け入れた。するとこのケータイは自分だけの魔法の道具となった。
※ ※ ※ ※ ※
尚美と別れて家に着くなり、自室の扉を閉めバッグを開けた。生まれたばかりのひよこを取り上げるように、そっと両手で包んでケータイを取り出すと、しばらくはじっと見つめて、開けるのを待った。
この中に西野さんがいる。私だけの西野さんが。
確信にもとづくゆとりから、楽しみをわざと後回しにし、自分を焦らして気分の充実を待った。そして待ちきれない思いが熟したところで、ゆっくりと中を開いた。
ガラス面に軽く触れると、白銀の文字盤が浮き上がった。このままもう少しお預けにしようかとも思ったが、指先がじんと来るほど、そわそわし出したので、自分への意地悪は打ち切ってVモードを作動させた。
何度見てもうっとりするような金色の文字が私の顔を照らした。金色なんてけばけばしくて、あまり好きではなかったが、今やこの輝きにすっかり魅了されていた。いやらしい豪華さなど少しもなく、陽を浴びた稲穂のような健康的な美しさだった。
私は通話録から西野さんの番号を画面に呼び出すと、いまだ拭いきれないわずかな逡巡を断ち切って発信キーを押した。
二拍ほどの間を置いてコールの音が鳴り始めた。聞いているうち、それが目覚ましのベルのように弱気の虫の目を覚ませた。やっぱり止しておこうかな。仮想対話に期待している自分がなんだか情けないし、電話回線を通じて相手の記憶や心に探りを入れるなんて、まるで人格ハッカーだ。
どうせ本人につながらないのなら、さっさと出ればいいのに。余計な間があるばっかりに妙に頭が冷えてきた。気持ちが萎みかけたとき、「はい、もしもし」という西野さんの声が5度目のコールを断ち切った。及び腰で体当たりを食らったようなものだった。返事をしようと思ったら声が裏返り、口腔にぺたっと貼りついて、空気がすかすか抜けたような声になってしまった。
「もしもし、もしもし、どなたですか」
「あ、し、白川です。すみません、夜分遅く」機械に謝ってる。
「白川さん?なるほど、よっぽどケータイが気に入ったんだね。言った通りでしょ、持ってると使いたくなるって」
「それ尚美が言ったんです」
「あれ、そうだっけ。まあいいか」この適当さは、まさに西野さんだ。
「さっきはすみませんでした、お仕事中に」また謝ってる。「まだ会社にいるんですか」
「ううん、まさか。7時過ぎまで仕事していたけど、今はもう自宅。それを言うためにわざわざかけてくれたの?でも話し相手ができてちょうど良かった。やることがなくて、一人でぼけっとしてたところだから」
「本当に?良かった」ほっとしてる。
「この間飲みに行ったときと言い、急に白川さんと話す機会ができたね。人ってやっぱり話をしてみないと分からないものだね。白川さんって、もっととっつきにくい子かと思っていたよ。意外とそんなこともないね」苦笑…。本当にそう思われてたろうな…。
「白川さんはたぶん大勢の飲み会は苦手だろうから、こんど松乃も含めて3人で飲みに行こうか。人数が多いと話題も分散してしまうけど、3人ぐらいならゆっくり話もできるし」
「いいですね。ぜひ行きたいです、私も」喜んでる!
照れてうつむいた拍子に、机の端に置いた鏡に映る自分の顔を見て、はっとした。このケータイの応募ハガキのついたポケットティッシュを配っていたあの娘の顔が映っていた。そう気づいた瞬間、その顔は驚いた自分の表情にかき消された。
「あ、そうだ。俺、白川さんにひとつ頼みたいことがあったんだ」
「……え、はい、なんですか?」
幻想の世界から架空の世界に困惑しながら立ち返った。どちらが正気だか分からなくなった。ちょうどそのとき現実の呼び声が耳の奥にこだました。数秒の間は、その音の意味も理解できなかった。
「あ、すみません、いまキャッチが入ったみたいで…。ちょっとだけ待っていただいてもいいですか」
「ああ、それじゃあ、数分後にかけ直すよ。こちらからの頼みごとだから」
かけ直す。本当にそうするつもりなのだろうか。『西野さん』は私の返事も待たず、いかにも西野さんらしい、こだわりのない様子で通話を切った。
キャッチを取ると尚美が出た。
「どう?自分のケータイに着信があった感想は。家の電話じゃなくて、わざとケータイにかけてあげたんだよ」
いつもながらの尚美の話しっぷりに、またも妄想を覚まされた。感情移入して見ていたドラマが突然、臨時ニュースに切り替わったようなものだった。聴神経と視神経の混線から救ってもらった安堵感と、楽しみに割って入られた不快とが胸の内で新たな混線を起こした。でも楽しみの方は尚美の次のことばで霧散した。
「あのさ、いま西野さんから電話があってね、」
え?
「聞いてる?由紀子に明日朝一番で頼みたいことがあるんだって」
え!?
「西野さん、明日9時半の新幹線で名古屋まで出張らしいんだけど、旅費の申請をし忘れてたんだって。立て替えるには手持ちが足りないから、明日の朝一番で手続きしてほしいって言ってた」
ぞくっとした。
(俺、白川さんにひとつ頼みたいことがあったんだ)
『西野さん』の声が生々しく甦った。
「自分で電話すればいいのにね。あたしゃ、あんたの秘書かって感じ。まあそういうわけなんで悪いけど助けてやってよ」
用件だけを伝えると、尚美はさっさと電話を切った。ツーツーと鳴る音がしばらくは意識に達しなかった。
仮想電話であることは承知していた。遊び感覚と割りきった上で楽しんでいるつもりだった。でも話を続けていくうちに、そういう認識が霞んでいったようだ。
私が無邪気に『西野さん』との会話を楽しんでいたとき、本物の西野さんの向かう先には尚美がいた。所詮は虚しい電話ごっこに過ぎなかったことを思い知らされ、私の気分は沈んでいった。
遊び感覚なんて嘘だった。そんな器用な真似が私にできるはずがない。作り物でもいいから、私は西野さんと話をしたかったのだ。
寂しいことだと分かっていながら、あえて気づかないようにしていたことに気づいてしまった。遊びと思ってつき合った相手に遊ばれてしまったような恨めしい気持ちがした。
と同時に、『西野さん』が西野さんの頼みごとを読み取っていたことは、驚きを通り越して怪異と言ってもいい印象だった。尚美のキャッチを取らなければ、『西野さん』は、おそらく同じ依頼を口にしただろう。それは確信に近かった。
実際に相手にはつながらず現実と同様の会話ができる。触れ込み通りだった。Vモードに対する信頼は、こんな形で不動のものになった。
私は複雑な思いでケータイを眺めた。『西野さん』の温もりさえ帯びた明るい語りかけが架空のものとは感覚的にはどうしても受け入れられなかった。
かけ直す。
その約束を果たすために『西野さん』が機械の迷宮をさまよい、途方に暮れている気がすると不憫に思えた。こちらからかけてあげようかとも思ったが、そこから始まるであろう明るい会話に耐える自信がもう持てなかった。「どうしたの?急に元気がなくなったね」なんて言われた日には、さすがに惨めだ。
私はケータイをぱちんと閉じた。内側から洩れる光が外周を縁取り、やがて吸い込まれるように消えた。
もう一度、机の上の鏡を見ると、そこにはいつもの自分がいた。気力を振り絞って作った笑顔には、あの娘の輝きは宿らなかった。つり上げた頬を緩めた拍子に涙腺まで緩んでしまった。
※ ※ ※ ※ ※
「お疲れさまでした。名古屋はどうでしたか?」
翌日懲りずにまたかけた。あとで寂しい思いをすると分かっていても、もう誘惑に勝てなくなっていた。味を占めるとは怖いものだ。手痛い思いをしなくては、やめることはできないのだろう。
「いやあ、本当に疲れた。でもうまいものもいっぱい食べたよ。白川さんにもおみやげ買ってきたから明日渡すね。名古屋名物レッドハッピー。赤福ね」
く、くだらない。でも本当に言いそうだった。このばかばかしい冗談のおかげで、この日は重い気持ちにならずに済んだ。心の準備ができていたせいもあったろうし、慣れもあったのだろう。
明くる朝、闊達な笑みを湛えて会計課に姿を現した西野さんの手に赤い包みの箱を認めると、お腹の芯からこみ上げた笑いが倒れ始めたドミノのようにたちまち喉元に伝わって、唇の震えを抑えることができなくなった。
「白川さん、昨日は無理言って悪かったね。おかげで大助かりだったよ。心ばかりのお礼。名古屋名物レッド……」
こらえきれずに吹き出した。踏んづけられたホースの口が蛇口から吹き飛んだような感じだった。
西野さんは呆気にとられて立ちすくんでいた。普段のとぼけた振る舞いが立ち入る隙もない様子だった。申し訳ないと思いながら、もはやひとしきり笑い切らないと生理的に収まりがつかなかった。これで気分を害するような人ではないという信頼に甘えて、腸から可笑しさを絞りきるまで存分に笑わせてもらった。お腹の震えが収まって呼吸が整いだした頃、西野さんにもようやくことばが戻ってきた。
「何だか読まれていたようだね」
すっかり気勢をそがれた体だった。
「何となく、そんな気がしました」
私は目尻を指で拭いながら、そう答えた。
「ずいぶんと勘がいいんだね。ここ数日で白川さんのイメージがだいぶ変わった気がする」
苦笑混じりにそう言った西野さんとあらためて目のあった瞬間、おかしさが通じ合い、自然と両者に笑みがこぼれた。いつになく大笑いした私と、いつになく面食らった西野さんとが互いに常態に戻る途中で同じ水位に落ち着いた。そんな感じだった。
笑うって胸の内の換気のようだ。入れ替えに吸い込んだ空気には、交わしたばかりの清々しい親しみが満ち、それが心の中にうっすらと溶け込んでいった。
※ ※ ※ ※ ※
「西野さんって仕事が終わったあと、いつもどんなことをしてるんですか?」
「俺?そうだな、例によって安城たちと飲みに行くこともあるし、たまにはジムに体を動かしに行ったりもするけど、ほかには…。ほかには、どうしよう、言っちゃおうかな。絶対に内緒だよ」
「え、何ですか?」
期待でケータイを耳に押し付けた。
「実はいま英会話を習いに行ってるんだ。駅前留学のAVONってやつ」
「え、本当ですか」
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。仕事ばかりしてるとバカになっちゃいそうで、これでも悩んだ時期があったんだよ。そんなときにたまたま町で配ってたチラシを見て、ほとんど衝動的に始めたんだけど、意外と肌に合ってね。すっかりその気になっちゃって、Oh fantastic!なんて言っちゃうんだよね、あはは。これもきっかけだね。白川さんのケータイと同じ」
「へええ」
気楽で無頓着に見えた西野さんが人並みに思い悩んで生きていたこと、意外や知的な方面に関心を向けていたことを知り、それまでのイメージと見違える思いがした。そして何より、普段は表に出さない内面を見せてくれたことに、抑える術もなく気持ちが満ち足りていった。
「白川さんと話していると不思議だな。普段は話さないようなことまで何の警戒もなく話せちゃう。聞き出されているわけでもないのに、自然と自分のことを話したくなる」
ほかの男の人が言ったら、それこそ定番通りの落とし文句に聞こえるところだろう。『西野さん』が無防備に漏らしたこのひとことは、余分な感情がこもっていないだけに自然な気持ちの流露と感じられた。…のは、私がこの道に疎いせいだろうか。
ぽぉっと意識の焦点がぼやけていって、『自分』と感じられるのは熱を帯びた両目だけになった。
※ ※ ※ ※ ※
「携帯電話を持った途端、急に電話魔になったのね。あんたにそんなおしゃべりの相手がいたなんて意外だったわ」
とは母のことばだ。
だんだんと感覚が麻痺していくのに自分でも気がついていた。虚構と現実の区別が自分の中であやふやになり、幻視に侵されるようにVモードのつながる先に西野さんの姿を思い描き、取り憑かれたように引き込まれていった。いつまでこれを続けるのか。この先、私はどこへ行くのか。そんなことを考えるより早く、『西野さん』の声を求めるようになっていた。
西野さんが好き。
倒錯した状況の中で次第と濃縮してきた感情が前触れもなくことばを結んだ。はっとして取り落としたそのひとことは、心の泉にぽちゃんと沈んだ。熱い飛沫が跳ね上がり、響きは胸を締めつけた。あとには大きな波紋が残り、もはや拾い上げることも取り除くこともできなくなっていた。
※ ※ ※ ※ ※
「大丈夫?由紀子、聞こえてる?」
事務服の上からお腹をぽんと叩かれて、私は我に返った。
「じゃあ仕事の片が付いたら内線で連絡するから。行き先は池袋の『酔い民』。いいね」
3時の休憩時間に尚美から廊下に呼び出されて、西野さんと三人で飲みに行こうと誘われた。
(こんど松乃も含めて三人で飲みに行こうか)
『西野さん』のことばが耳の内側から鼓膜を鳴らせた。Vモードでのできごとが脱線して転がり落ちてきたような錯覚を覚えた。忘我の境地から私を引き戻したのは、またも尚美だった。このところ続いたパターンだ。
本物の西野さんと、どこまで打ち解けることができるか。
そういう疑念は、本物と偽物の境界があいまいになっていた私には、ほとんど不安材料とは映らなかった。むしろ正夢に向かって滑り始めた予感に心が躍った。こんな私にも自分の想いの叶う機会が訪れるかも知れない。そんな生まれて初めての実感を伴った期待に、胸のときめきを抑えられなくなった。そのあとの仕事なんか手に着きはしない。
西野さんが好き。西野さんが好き。「西野さんが好き!」
冷や汗でファンデーションが流れ落ちるかと思った。前後左右を窺っても、誰も仕事の手を止めた様子はない。どうやら聞かれずに済んだと知って、肩が抜けるほど安堵した。声が小さくて良かったと、このときばかりは心から思った。
※ ※ ※ ※ ※
『酔い民・池袋2号店』なる居酒屋は、さすがに飲み道楽の尚美の選定らしく、女の子受けしそうな小洒落た内装の店だった。大きな木製テーブルがゆったり間隔をとって列を連ね、それぞれに籐の椅子が四脚ずつ据えられている。作務衣風のお仕着せを纏ったアルバイトの女の子が私たちを席まで案内すると、すぐさま片膝をついて飲み物の注文を聞いた。芸のない吉例に従って、まずは生ビールを注文し、一歩遅れてメニューを開いた。
いろ鶏々(とりどり)のやわらか煮、イチゴ一会の甘い夢、きの子たけの子にしんの子、といった、すぐには味も盛りつけも想像できない品名が何十行も書き連ねられ、一ページに数点、おすすめメニューと思しきものの写真が載せられている。一品680円から千円を超すものまであり、写真を見る限り量は多そうだが、居酒屋としては結構高めだ。
感心したのは客を通して注文を取ったあと、テーブルとテーブルの間に簾を下ろして、隣の席との仕切りを設けたことだ。前は広い通路、後ろは造りつけのパーテーションで初めから区切られているので、これで完全にコンパートメントになる。もちろん会話の声は通うが、見えない客に注意は向かない。これでお酒が体を巡れば、意識の射程は連れを超えない。
「お疲れさま~」ガチャ。
と、いつものように始められた飲み会は、初めのうちこそ幾ばくかの緊張を感じたが、それも次第にほぐれていった。携えてきた期待の大きさもあったろう。でもそのせいだけではない。
私は笑顔で語る西野さんを正面から見て、Vモードの性能に改めて舌を巻いた。Vモードが脳裏に映す相手の表情や身振り手振り、それがいま目の前でそっくりそのまま展開している。慣れ親しんだ虚像に実像の方が焦点を合わせてきた。どっちが本物だか分からない、と言うより別物だと捉える方がむしろ不自然なぐらいだった。
もちろん『西野さん』はクローンに過ぎない。でもそんな正常な認識をお酒は有効に麻痺させてくれた。Vモードでの学習成果は上々で、いつになく親しげに西野さんに話しかける私を見て、尚美は隣で訝しく感じていただろう。当の西野さんも勝手の違いを感じたかも知れないが、楽しく飲めればそれで文句はないようで、概して口調は滑らかだった。次の話題が出るまでは。
この日、西野さんは心に澱を沈めていたらしい。笑顔の中に垣間見せる張りの緩んだ表情に尚美は気づいていたという。有頂天になっていた私は、そんな微妙な陰影はすっかり見落としていた。西野さんが直接それを口にする段になって、ようやく知ったという体たらくだった。
「あのさ…」
短調に転じた口振りに尚美は、来た、と思ったらしい。
「どうしようかな、絶対にまだ内緒だよ」
聞いたことのある前振りだった。
「俺さ、1月から大阪に転勤になるらしいんだ。課長から今日、内々示があった」
私も尚美も驚いて、次のことばが出てこなかった。西野さんは重い間に自分が耐えきれなくなったのか、
「大阪弁でも習いに行こうかな…」
と力の抜けた笑いを浮かべた。余力を絞ったギャグにつられて、
「AVONでですか?」
と私が言うと、「え?」と意外な顔をされた。何で知ってるの?そう翻訳できそうだった。しまった、と思ったが、消沈している西野さんは、そこに拘泥しなかった。
「関西方面のテコ入れに若手の営業を送り込むことになったんだって。ほかにも理由を説明されたけど、頭の中が真っ白になっちゃって何にも聞こえなかったよ」
Vモードでも引き出せなかった思いもかけないこの展開は、胸いっぱいに溜めてきた期待と折り合いのつけようがなかった。抱いたばかりの夢が手をすり抜けて遠くへ去って行こうとしている。目が眩むほど動揺しながらも、落胆を隠さない西野さんを前に黙っているわけにもいかず、宙に浮いた脳みそを不自由に働かせて、その場をつなぐことばを探した。
尚美は、というと、この間ずっと絶句していた。こんなときこそ何か言ってよ。そう思ったが、このときの彼女の気持ちは今でこそ良く理解できる。
「あの、どうして西野さんに決まったんですか?」
予習のヤマを外した私に絞り出せたのは、この程度のことばだった。
「そう、それ。確かに独身で一人暮らしとくれば、白羽の矢を立てやすいんだろうけど、それだけなら他にいくらでもいる。何で俺じゃなきゃいけないんだよ。結局うちの会社は言いやすい人間にばかり負担を集中させる体質なんだ。すぐに文句を言う奴の方が、うるさがられて結果として得をするんだ」
何か言わなきゃ。
「あの、私、うまいこと言えないんですけど、…元気出して下さい」
本当にうまいことが言えない。自分でも情けなくなっている間に、西野さんの愚痴は見る見る冠水していった。でも私には男の人のこんな姿が新鮮に映った。この人は甘えたがっている。慰めてあげられたらいいな。そんな気持ちが湧き出してきた。
そして思った。こんなとき、もし求めてもらえたならば、私は一緒について行くことができるだろうか。
「三年間の期限付きだって話だけど、本当にそれで帰してくれたとしても、そのときは俺も31だよ。三年の空白は大きいよ、公私ともに」
「仕方ないでしょ、サラリーマンなんだもん。転勤はつきものだよ。当然のことじゃない」
平手で張ったようだった。尚美が無表情に言い放った思いっきり険のあるひとことは、プラットホームで通過列車の冷たい風圧に打たれたように、しんみり生温い雰囲気を根こそぎ散らしていった。私は驚きで能面が貼りついたようになってしまった。さすがの西野さんも、ぎゅっと尚美をにらみ返した。
「私、帰る。由紀子、明日返すから悪いけどここ払っておいて」
「おい、待てよ」
そう言う西野さんの声を弾き返す勢いで尚美は席を立ち、脇目も振らずレジの前を抜けていった。私は呆気にとられて見守るばかりだった。
※ ※ ※ ※ ※
「今日は済まないことをしたね。今度飲みに行くときは、こんなことのないようにするから」
こうして西野さんとも別れたあと、私はしばらく一人で池袋の街を歩いていた。珍しくたくさん飲んだお酒の仕業で右へ左へふらふらしながら、新涼の空気をくぐり抜けて、コンサート帰りの人波でにぎやかな西口公園へたどり着いた。
私は噴水の縁に腰をかけ、清爽な水音を背に、たった今までのできごとを思い返していた。
予期した筋書きは大幅に書き換えられたが、心地よい酔いは好都合な演出で、自分をドラマの主人公に仕立て上げていた。転勤の話はショックではあったが、西野さんが本音の弱い部分を隠さず見せてくれたことに私は満足を覚えていた。それ以前の私たちの間ではまず望み得ないことだ。そしてそれに満足せず、示されたばかりの好意を繰り返し確認したい欲求に駆られた。
バッグからケータイを取り出すと、すぐさまVモードを設定した。周囲のネオンサインを映すガラス面に、金色の文字盤が浮かび上がった。
「はい、もしもし。白川さん?いやぁ、さっきはすっかり格好悪いところを見せちゃったね」
「そんなことないです。誰だって愚痴を言いたいときぐらいありますよ」
「愚痴か。確かに愚痴だったね、その通りだ。みっともなかったな、恥ずかしいよ」
「あ、すみません、そんなつもりで言ったんじゃ…」
「謝ることなんかないよ。むしろ聞いてもらえてありがたかったぐらい。ただ、どうせかっこ悪い思いをするなら、欲を言えば最後までぶちまけたかったかな。愚痴り足りなかったよ。うんこを途中で切り上げたみたいな」
「あははは、やだ」
「お、笑った。意外に柔軟な許容力があるね。よし、じゃ愚痴の続きと行こうか」
「どうぞ。私も西野さんの愚痴を聞きたいです。いくらでもお付き合いしますよ」
「そう言われると却って言いづらい。でもおかげさまでずいぶんと気が晴れたよ。いや、実はね、さっき白川さんと話していて感じたんだけど、何て言うかな、その、これまで気がつかなかったけど、俺、白川さんの前だと気取らずにいられると言うか、自然にしていられるんだよね」
「本当ですか。私も西野さんには、すごく話しやすいです」
「本当?」
このあと、『西野さん』の次のことばが出るまでに、ほんのわずかの間があった。それは会話の流れを寸断するものではなく、むしろ凝縮した思いが跳躍するための溜め。そんな緊張をはらんでいた。
「もし…、もしもね、君に一緒に大阪まで…、」
周囲の雑音が一瞬で消えた。『西野さん』の声だけが高音域のジェットエンジン音のように頭蓋骨を揺さぶった。
「いや、何でもない。今日はどうも気持ちが女々しくなっているな。ごめん。いま言ったことは忘れて。へへ、また謝っちゃった」
ことばは気勢を弱めたが、私の胸には興奮が轟いていた。
一緒に大阪まで…。その先に隠したことばを私は聞きたかった。
じゃあ、また。代わりにそのひとことを残して、『西野さん』は電話を切った。
幸福感の飽和の中で、この事態を私は十分冷静に理解していた。
今の会話はこの時点では架空に過ぎない。でもVモードの語ったことばは行動に移せば即事実となる。大阪までついていくとなれば、それなりの決意も困難も伴うが、二人連れ添う想像はあまりにも甘美だった。天から降りてきた夢の架け橋に飛びつきたい思いがした。
喜びが全身に漲り、落ち着きさえ失いかけたとき、ケータイに入った着信のメロディーに目を覚まされた。尚美だった。夢想に耽ってにやけていると、どういう訳だかいつもこれだ。飽和の栓が抜けた気がした。本当に「夢路より帰りて」だ。
「もしもし、由紀子?さっきはごめんね。私、すっかり反省しちゃった」
「そんなこと気にしないでいいのに」気にしないでいいから早く切って。
「西野さんにも謝っておくから安心して。でもさっきはどうしても我慢できなかったんだ。自分でもどうしてこんなにわがままなんだろうって呆れちゃうよ」
あのときの尚美の態度は確かに不可解だった。訳を知りたい気もしたが、今はそれは後回しにしたかった。
「私は本当に何とも思ってないから。今日はもう遅いから、また明日にしようよ」
早く栓をしたい。気が急いて多少邪険に言ったかも知れない。でもそれに頓着しないのが尚美の良いところだ。
「うん、分かった。じゃあ、また明日ね」
いつもの明るい調子に戻って、尚美は電話を切った。私はちょっと後ろめたく感じながらも、急いで気持ちに栓をして、流れ出た分を継ぎ足すべく、新たに充足感の蛇口を捻った。すぐに容量は満たされた。掘り当てたばかりの源泉は溢れんばかりの幸福を埋蔵していた。不夜城のきらめきも喧噪も、私の未来の幸せに喝采するかのように心地よかった。
首筋に噴水の飛沫が舞った。めっ、いたずらするな。小さい子供を戒めるように、私は後ろを振り向いて、笑顔で噴水を睨めつけた。ビル街のネオンを浴びたお花畑のような噴水は、私の胸の内から噴き上がっているようだった。そう、この瞬間までの胸の内から。
縁石に囲まれた噴水のすべての噴水口が一斉に高く水を上げた。私はそれを投げ上げられたボールの行方を追うように見上げた。水の先端が水圧と重力の狭間に踊り、色とりどりの水玉を夜空に打ち上げている。
水勢が弱まるのに合わせて視線を下ろすと、それまで水で遮られていた向こう側の縁石に座る一組のカップルの後ろ姿を見い出した。そして次の瞬間、互いに肩を寄せて向き合う横顔を見て慄然とした。公園の街灯とビルのネオンに頬を照らされ、逆光で浮き上がった見慣れた横顔。ついさっきまで私を含めて、お酒を楽しんでいた二人。
二つの横顔が徐々に近づき、ひとつに重なりそうになったとき、釘付けになった視界は再び高く上がった水の向こうに消えた。
魂が体を置き去りにして、奈落の底に落ちていった。残された体は身動きもできず、石のように立ちすくむだけだった。
花を結んだばかりの丹精した鉢が野球のボールに割られたように、甘く広がった夢が跡形もなく、木っ端みじんに吹き飛んだ。代わりに胸を満たしたのは言いようのない惨めさ。泥道で踏みつけになったハンカチのような、拭いようのない惨めさだった。
いったいどれだけの時間、呆然と立ちつくしていただろう。それから何度目かに高く上がった水を見て、はっと我に返った。二人の姿はすでにそこにはなかった。体を通り抜けていった秋の風に身震いをした拍子に涙がこぼれ、そして止まらなくなった。
私はVモードに弄ばれたのだろうか。
確かにVモードは相手の本音を引き出すものではない。本音は別でも、この人ならこう言うだろう、ときにはこんな嘘もつくだろう、それを聞かせてくれるに過ぎない。でも西野さんの分身が、そんな嘘をつくとは到底思えない。それなら、さっき見た二人はいったい…。
何がなんだか分からなくなった。考えたって答えは出ない。でも考えたくないのに、胸にどっしり落ちた苦痛は考えることを強要した。
手にはまだケータイを握り続けていた。恨めしい思いでそれを見つめているうち、石畳にたたきつけてやりたい衝動に駆られたが、どうしてもできなかった。その代わり、憑かれたようにメモリーから『西野さん』を呼び出してコールした。
「もしもし」
8つ目のコールでやっとつながった。機械のくせに勿体ぶるなと腹が立った。
「西野さん、ひどい。ひどいです。どうして、あんなことを言ったんですか。私を騙して、からかったんですか。西野さんのうそつき、西野さんのうそつき」
私は声を震わせながら、乏しい語彙であらん限りの恨みをぶつけた。
「もしもし、白川さん?白川さんなの?どうしたの、いったい何があったの。俺が何を言ったって?」
電話の向こうで、色を失った様子が見て取れた。取り繕おうというのだろうか。ふざけたぐらいに良くできた機械だ。私は言わせる隙を与えなかった。
「ひどいじゃないですか。私だって、私だって、西野さんが好きです。西野さんのバカ。大阪が、私と一緒に、西野さんについていって……」
支離滅裂になって通話を切った。あとには嗚咽がこみ上げた。私はその場に崩れ落ち、噴水の縁石に顔を埋めて、ひたすら泣いた。それ以外にできることはなく、あとの行動を考えることもできなかった。
が、事の流れは取るべき行動の指針を否応なしに押しつけてきた。
左手に握ったままだったケータイがメロディーを奏で、着信を知らせた。自分の泣き声の内にその音を聞き分け、しゃくり上げながら左手に目をやった。ケータイの点滅が涙目に滲んでいた。とても受け答えをする気分にはなれず、しばらくは無視していたが、着メロは発信者のしつこい意志をいつまでも伝え続けた。とうとうその音を聞き続けている方が苦痛になって、通話キーを押すことになった。
「はい」
「あ、もしもし、西野です。白川さん?」
切迫した口調だった。それらしい表現力が鬱陶しく思えた。
「そうです。何のご用ですか」
「何のご用って、さっきはいったいどうしたの。あんな電話をかけてくるなんて、本当にびっくりしたよ。何かあったの?」
「何かって、…分からないって言うんですか」
「分からないよ、何だかさっぱり。今いったいどこにいるの」
「いまですか。すぐ近くにいますよ。池袋の西口公園」
「え、西口公園のどこ?」
「噴水のところ」
「分かった。とにかく、いますぐ行くから、そこにいて。絶対だよ、いいね」
そう言うなり向こうから切られた。私は疲れた気持ちで終了キーを押した。そして縁石に乗せた右腕に頭を埋め、冷めた思いでケータイを見つめた。本気でここまで来るつもりなのだろうか。かけ直すことさえできないくせに。かけ直すことさえ、……え!?
私は目を見張らせて飛び起きた。そして涙で曇った目をこすり、ケータイを凝視した。
金色に光っていない。近づけて見ても角度を変えて見ても、そこに浮かぶのは白銀の文字盤だった。私は血の気が引くのを感じた。
今のは本物の西野さんだったのだ。と言うことは、その前に泣きながらかけた先も西野さんその人だったのだ。
どうして、いつから通常の通話モードに戻っていたのだ。やみくもに記憶をたどってみたが、へぼカメラマンの仕事のようにピントを合わせ損じた過去ばかりが脳裏に映った。今かかってきたのが西野さん。その前にかけたのも西野さん。その前は、その前は。そうだ、尚美だ。尚美からの着信を受けたとき、Vモードは解除されていたのだ。
根拠の加わった現実は重かった。精神の危機が止む間もなく、体面の危機が畳みかけてきた。どうしよう。蒼然として頭が回らなくなり、私は気を失いたくなった。が、こうしている間にも西野さんは近づいている。
私は再びケータイを見つめた。金色の光を発していなかったことに、どうして気がつかなかったのか。自分を叩いてやりたくなった。
今からでも何とかならないか。通話の事実を消すことはできないか。ここまで非現実的な機械なのだから、たった今の通話を無効にする機能ぐらい備えていたってよさそうなものだ。
私は祈る思いでケータイを繰った。いくつものキーを押しては消し、未だ隠されたままの機能を探した。
そして、念ずれば通ず、だった。
初めてVモードの設定をしたとき、どうして気がつかなかったのだろう。ディスプレイにはVモードの設定途中にその付属機能『R転送モード』の表示が添えられていた。直感的にこれだと思った。私は藁にも縋る思いで、R転送モードの説明をオンにした。私の心境とあまりにかけ離れた、明快で爽やかで生活感のない人工音の女声が響いた。
「Vモードの本領は、それに留まりません。たとえば仲の良い友達や恋人と喧嘩をしてしまい、仲直りをしたくてもなかなか言い出せないとき、あらかじめVモードでの実験結果を得ていれば、相手の出方を承知の上で接することができます。でも実際に当人を前にするのは勇気のいることですし、本番で練習の成果を十分に引き出すのは、やはりあなたの努力によるしかありません。
でもそんな負担な過程を一気に飛び越えて、Vモードで積み重ねた実験データを現実の世界に転送することができるのです。疑似体験をそのまま既成事実にする。それがR転送モードです」
Vモードの能書きと同じぐらいに眉唾物のうたい文句だった。でもこのケータイに関する限り、常識なんか通用しない。それは身をもって体験済みだった。
そして、このとき気づいた。心配そうな表情で辺りを見回しながら、こちらに向かってくる西野さんの姿に。もはや猶予はならない。R転送モードを実行に移す以外に選択の余地はなかった。
私はR転送モードにカーソルを合わせ、開始キーを迷わず押した。
「R転送モードを作動します。まず転送する通話記録を選択して下さい」
女声の案内に続き、これまでVモードで通話したすべての通話先と日時が表示された。
このとき西野さんは噴水の脇にたたずむ私の姿を認めたようだった。その表情がパッと晴れ、私に手を振って駆け寄り始めた。手を振り返すゆとりなどない。R転送モードの操作以外に手の使い道などあるはずがなかった。私は焦って通話記録を選択した。カーソルをずらしては決定キーを押す。もどかしい作業だった。
「おーい、白川さん」
西野さんとの距離は声が届くほどになった。脂汗が手に滲んだ。気が急いて、震えた指が何度もキーを押し損じては、却って焦りを募らせた。悪循環だった。姑息な時間稼ぎのために、足が怪しい横歩きを始めた。
追っ手から逃れる夢にうなされるようにして、ようやく選択の作業を終え、選択終了のキーにカーソルを合わせた。
西野さんの到着は秒読みに入った。『転送』と表示され、間に合ったと息をついたら一拍おいて、『転送します。よろしいですか?はい・いいえ』と確認の画面が現れた。
『はい』に決まってるじゃない!
と目を血走らせて、指いっぱいに力を込め、『はい』のキーを何度も何度も繰り返して押した。『転送中』の文字が画面に点滅した。西野さんの姿は白い息を吐く声が聞こえるところにまで近づいていた。
間に合って、間に合って、お願い。
私は気も狂わんばかりになった。
そのとき『転送中』の文字が消え、ケータイは西野さんと私を金色に塗り上げるほど輝いて、打ち上げ花火が散るように光の粒子をぱらぱらと降らせた。舞い落ちる金色の火の粉の中から、西野さんの狐に摘まれたような顔が現れた。私は緊張で身動きもできず、西野さんの反応を待った。
「し、白川さん」
「は、はい」歯から空気が抜けるような返事だった。
「そうか。俺がここで待っててくれって言ったんだったね。ごめん、走ってるうちに本来の目的を忘れちゃった。にわとりだね、まったく」
そう言って屈託なく笑った顔に、私は口の片端しか呼応できなかった。R転送モードの効果のほどが確認できないうちは、まだ気を許せなかった。
「さっきはどうもありがとう。白川さんの気持ちを聞かせてもらえて、本当に嬉しかった」
「い、いえ…」
「そんなに硬くならないで。俺がはっきりと自分の気持ちを伝えなかったのが良くなかったんだね」
「西野さんの…、気持ち?」
「うん、あらためて言う。今日、白川さんと話をしていて実感した。君に大阪までついてきてほしいって」
当事者でなければ吹き出しているところだろう。でも私は関節が抜けるほどの安堵感から、もはやどこに真実があるのかまったく分からないながら、目の前の事実に身を委ねた。恥をかかずに済んだのみか、R転送モードという転轍機はキューピッドの矢を放って急転直下、切なる想いを現実のレールに乗り入れさせてくれたのだ。
私は疑念を捨て、痺れた幸福感をそのまま受け入れた。そうだ、西野さんの感情そのものに手を加えたわけではない。人工授精で生まれた命も、その尊さに変わりはない。
このときの私は安心と混乱のあまり、この幸福の本質的な空虚さから、あえて目を背けることができた。
でもそれは密封された溶液の中に紛れ込んだ気泡のようなものだ。喜びの圧倒的な体積と比べれば小さなものでしかないけれど、どんなに圧を加えても、決して潰れて消えはしない。押し返す力の強さは、やがて顧みざるを得なくなるが、それに気づくのはもう少しあとのことになる。
※ ※ ※ ※ ※
「白川さん、このごろなんだか楽しそうだね。ちょっと前と比べても、ずっと生き生きして見えるよ。そうか、白川さんにもとうとう彼氏ができたか」
そんな声を聞くようになるにつれ、尚美の元気のなさは次第に目につくようになった。口の悪い人に「君たち二人、いつから入れ替わったんだい」などと言われると、尚美もさすがに、
「ん~、どうやら由紀子にエキスを抜かれているようですね」
と、おどけた返事で応じていたが、それが事実であるだけに私は胸の痛む思いがした。
それでも手にした喜びを手放すなんて考えられない。気の小さい私のこんな大きなエゴを自分でも恐ろしいと思った。ただ手前味噌に分析すれば、対人関係に極端に弱い私だからこそ、やっと出会えた幸福にどこまでも縋っていたいのだった。
もうひとつ、当の西野さんから聞いたことばを私はよすがと頼っていた。
「俺がこれまでつき合っていた女性はね、」
西野さんは尚美のことをこう呼んだ。私は噴水の辺で目撃したシーンのことを黙っていた。見られたかも知れないと思っていないところが、この人らしい。
「愚痴や泣き言を言いにくい相手だった。聞いてくれない訳じゃないだろうけど、自分の弱いところを見せることになぜか躊躇してしまうんだ。俺がかっこつけてるだけなのかも知れないし、そういうつき合い方を育ててしまったのが良くなかったのかも知れない。
でも男にだって弱いときはあるんだ。そんなときにありのままの姿をさらすことができる人こそ、自分にとって大事な人なんだと思う」
そして私を見つめ、「君はね、そういう人なんだ、俺にとって。そう気づいた」と付け加えた。これが私の尚美に対する免罪符となった。
実際、そう言ったときの西野さんの安らいだ表情は、後ろめたい思いを溶かしきるほど私の気持ちを潤わせた。異性と気持ちを通わせること、それがこんなにも甘く心を満たすものだとは想像もしなかった。舞い上がるような思いだった。
自分の幸福と親友の傷心。その狭間で揉まれながらも、私は西野さんとの逢瀬を重ねていった。
「大阪へ行く前にまず、住むところを探しておかないといけないな。二人で暮らすとなると最低でも2DK、できれば3DKぐらい欲しいところだな」
「いいですね」
「俺の荷物は大した量じゃないから、そのぐらいの広さがあれば十分だけど、君はどう?」
「私も洋服ダンスと鏡台を持って行ければ、ほかには特に」
「そう、それなら大丈夫かな。あと家電製品はぼろだけど、いま使っているやつがあるから良しと。食器はある程度新調するしかないな。ほかに何か、これだけは揃えておきたいっていうものはある?」
「そうですね、何があるかな…」
「君はずっと実家で暮らしてきたから、いざとなると思いつかないんだろうね。箱入り娘だからな。その点、俺は大学の頃から一人暮らしを続けているから慣れたものだよ。引っ越しそのものは苦でもない」
「そんなに何度も変わってるんですか」
「ああ。就職してからでも、三、四、もう五軒目かな。昇給するたびにグレードアップを重ねてきたからね。それで今住んでいる六畳一間のアパートまで登り詰めたんだ。ははは。じゃあ最初はどんなところに住んでたんだよって?」
「うふふふ」
「面白い?でも、なんか俺ばっかり話していて悪いね。君も思ったことがあったら、どんどん言ってね」
「はい。でも私、西野さんの話を聞いているだけで楽しいから平気です」
「本当?それなら良かった。そうだよね、それが君と一緒にいる良いところだった」
このことばを聞いて、私の幸福感は充足を募らせた。歓喜が体中で躍動するようだった。だからこそ見抜けずにいた。順風を受けていたはずの帆にわずかなはためきが生じたことを。
俺ばっかり話していて。
いま思えば、このことばには本人も気づかない西野さんの心の声が託されていたのだ。
※ ※ ※ ※ ※
日曜日、良く晴れた空は原宿の街並みに数え切れない人々を招き寄せ、立ち並ぶビルが梢を伸ばすかと思うほどの日射しを注いでいた。
洒落た商店やレストランが軒を連ね、店先の舗道を若いカップルや女子高生たちが楽しげに語らいながら、立ち止まっては通り過ぎていく。オーソドックスなものから流行の最先端まで、思い思いに身を包んだ服装が街に彩りを添えていた。
陽の光は人の表情を生き生きと輝かせる。軒に張り出した庇をくぐり抜けるたび、西野さんの笑顔は見違えるほど新鮮な印象を私に与えた。私の顔もこんなふうに輝いて見えてたらいいな。私はそう思いながらデートの味を甘く噛み締めていた。
「ずいぶんと歩かせちゃったね。ここがそうだよ。Here we are」
明治通りに出たところにある、ヨーロッパの宮廷御用達とかいうカフェの支店で、私たちは足を休めた。
「ここに来たらね、ウィンナコーヒーとザッハトルテ。これが粋なんだよ。でもほかのケーキもみんなおいしいから、どれでも好きなものを頼んだらいいよ」
「でも私もそれを」
「じゃあ決まり。すいません」
西野さんは、ウェイターを呼び寄せて注文を伝えた。
「俺ね、意外とミーハーなのかも知れないけど、雑誌で紹介されてる店を巡るのが結構好きなんだよね。君はそういう趣味はない?」
「私、ほとんど外食しないから」
「そうなんだ。お母さんが作ってくれるのか、いいね。でもたまには外で食べるときもあるでしょ」
「あるけど、ファミリーレストランが多いですね」
「あ、…そう。でもファミレスなら失敗がなくていいよね」
拍子抜けされた様子に多少戸惑いはしたが、私はまだこの幸福の持続を疑っていなかった。私の心はこの日の天気のように、ぽかぽかと晴れ渡っていた。でも心を照らす太陽に、ふっと雲がかかったのはこのあとだった。
「そういえば、俺は君のことをそんなに知っているわけじゃないんだよな。君は自分のことをあんまり話さないからね。もっともお互いのことを知るのは、これから順を追ってでいい。気持ちの問題が一番大切なことだからね」
後半のことばは決して付け足しで言い添えたわけではないと思う。本当にそう思って言ってくれたのだろう。でも感触の物足りなさをはっきり結論づけられて、私の心は翳って冷えた。
自分のことをあまり話さない。
あらためて人から指摘されたのは初めてだが、顧みれば明らかな、紛れもない自分像だった。確かに私は自分のことを人に語らない。意見や感情さえも示すことは少ない。それは披瀝するだけの自分に自信がないからだ。そして、それが生来の弱気と相乗効果を上げている。自ずと会話は平坦になる。
西野さんが無意識に懐かしむのは、打てば響く手応えのある会話。自分の気分や考えを隠さずぽんぽんぶつけてくる相手。それが誰だか分かるだけに、私は身の置き場に苦しんだ。
もしいまここで、西野さんに求めてもらえなくなったら。一人で大阪へ行ってしまったら。手のつけられないほど膨らんだ、私のこの感情を置き去りにして。
それはぞっとする想像だった。私は焦燥に懸命に耐えた。
西野さんは涼しい顔でザッハトルテを頬ばっていた。「おいしいでしょ」と言われ、とっさに「え、ええ、おいしいです」と答えたが、本当は少しにがく感じた。そんな程度の感想さえも口の中で濁してしまう。指摘を受けた矢先からこれだ。無難に逃げる受け答えがすっかり身に染みついている。
しばらくしてから店を出て、再び明治通りを下っていった。私は自分の表情から活気が失せていることに気づいていた。もう少し早い時間だったら、日射しの厚化粧でごまかせたかも知れない。でも日の短い季節なだけに、空はすでに暮れ色に染まりかけていた。それが私の心境の推移と重なっていたため、このまま夜を迎えることが恐ろしくなった。
でも、そぞろ歩きを続けたのち、沿道にあるミッション系大学のキャンパスに足を踏み入れた頃には夜闇は容赦なく訪れていた。
「勝手に入っても大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。大学なんて開門時間内だったら公園みたいなものだから」
確かにそのようだった。奥まで進んでいく間、構内のあちこちに人の姿が認められた。照明灯の下のベンチで本を読む人、語らう人。掲示板の前でメモを取る人。芝生の上でウェートトレーニングに汗を流す人。そして、めいめいの足取りで歩道を行く人。
多くは現役の学生だろうが、中には明らかに年輩の人もいる。教職員かも知れないし、私たちと同様、外部から訪れた人かも知れない。
都内有数の賑やかな街から一歩足を踏み入れただけで、夜にしっくり調和した静かな別世界が広がっていた。瀟洒な雰囲気に包まれて、私はいっとき雑念から解かれた思いがした。
「いいよねえ、憧れだったんだ、ここ。俺もここで大学生活を送りたかったなあ」
と言うことは落ちたのだろう。つい気遣って、返すことばに窮してしまったが、どうやら返事を求めるつもりではなかったらしい。西野さんはポケットに手を入れて、感慨深げに辺りを見回しながら、すたすたと歩を進めていった。
でも尚美なら今の場合どう言ったろう。きっと遠慮のないセリフで古傷をつついて、からかっていたに違いない。そう思うと、また煩いがよみがえった。
「見て。蔦のぉ絡まぁるチャペルだよ」
足を止めた右側に、茶色に枯れた蔦をまとった煉瓦造りのチャペルが姿を見せた。チャペルという語感からも聖堂のような大きなものは想像しなかったが、それは思いのほか小さなかわいらしい建物だった。この大学のシンボルとして四隅からライトアップされた幻想的なたたずまいを、正面に頂く十字架が厳粛に引き締めていた。無信仰の私をも静謐な空気に包むようだった。
「白川さん、君は神様って信じる?」
それは、この上なくこの場にふさわしいものながら、やはり唐突さを否めない問いかけだった。私は驚いて、え?と振り返り、十字架を仰ぐ西野さんの横顔を見つめた。おごそかな答えを求めているのだろうか。安易な返事をすることは西野さんに対してより、この建物に対してはばかられる気がした。
真意を測りかねる質問だったが、そこはやっぱりこの人だった。神妙に見えた横顔をいたずらっぽくこちらに向けると、
「俺は全然信じてないんだけどね。ただ人間の習性なのかな、神様仏様の前で嘘ついたりすると、罰が当たりそうな気がするよね」
と日本人の平均的な宗教観をさらりと述べて、にっこり笑った。私は肩の力を抜いて、
「そうですね。私も信じているわけじゃないんですけど、こういう場所に立つと、やっぱり何か特別な存在を感じますね」
そう答えた。自分でも意外なほど、感じたままを素直に言えた。肩肘張って望みを守ろうとしている自分を見透かされているような決まりの悪さと、それはそれで受け入れてくれる大きな寛容とを私はその場に感じていた。夜に浮き上がる姿の醸す非日常の雰囲気に多分に影響されたものではあろう。自我を優しく戒めながら、心の厚着を脱がせてくれる、そんな気がしていた。
西野さんは、へえ、と感心したような顔をして、
「なるほどね、確かにこういう場所では、正直さが試されるって言うか、心が照らし出される気がするね」
そう言って、再び十字架を見上げ、こう続けた。
「こうして心に耳を澄ましてみるとね、自分がどういう人を求めているのか、だんだん分かってくる気がするよ。俺はね、どんなことでも、そのまま受け入れて聞いてくれる君みたいな人を探していたんだと、…そう、きっと探していたんだと…、分かる、…気がする、……」
心が首を振っているのが見ていて分かる、そんな様子だった。弾かれたように私に向けた目には混乱の色がありありと宿っていた。働き始めた心の抗体が、瞳に映る私の受け入れに拒絶反応を示している。そんな目で見つめられるのは辛かった。
答えの出ないもどかしさに耐えきれなくなったのか、西野さんは自分の心をねじ伏せるかのように私の前に迫り、左右から腕をまわした。私は緊張のあまり金縛りにあったようになった。西野さんの胸が眼前に迫り、視界を覆った。
意外なことに、その緊張を解いたのは軋んだ首の痛みだった。西野さんの両腕は私を首のうしろから、頭部をねじ上げるようにして自分の胸に押しつけた。
目測を誤った訳に西野さん本人は気づいていまい。でも私には分かってしまった。これは尚美だ。本人の意識に反して心と体が求めたものは、抱き慣れた尚美の背の丈だったのだ。
私の胸から大事なものが、すとんと落ちていくのを感じた。
目測の誤りに気づいたのだろう、西野さんはすぐに両腕の位置を矯めたが、落ちていった私の夢を受け止めてくれるには間に合わなかった。
お芝居も終幕だ。そう悟った。本当に素敵な良い夢だった。そう思えるところで大事にしておこう。見残した夢を追ってはいけない。帰りの馬車に乗り遅れてしまう。
私は西野さんの胸を手の平でゆっくりと押し返した。それは私が初めて示した強い意志だった。西野さんの腕を離れ、後ずさりして見上げると、驚いて表情を強張らせた顔が私を見つめていた。私は微笑んで、こう言った。
「英会話は上達しましたか?
I'm going back to my real life. Don't mistake who you need.」
私はもとの世界に帰ります。必要とする人をどうか見間違えないで下さい。
そう言ったつもりだったけど、学生時代の勉強不足が悔やまれた。大阪弁で言ってあげた方が良かったやろか。
ブラスバンドかオーケストラの部員だろう。ホルンが音を裏返らせて、何度も同じ箇所をやり直しながら、牧歌のような優しい旋律を奏でていた。
私は呆然と立ちつくす西野さんから二、三歩退くと、きびすを返して駆けだした。次第に遠ざかる西野さんの背後に建つチャペルが、私たちを包むように見守ってくれている気がした。そこに宿る大きなものが「そう、それでいい」と慰めてくれている、そんな安心を私は感じた。
校門を出て歩道に沿って進み、大学の敷地の角を折れた。塀の陰に隠れると、私はバッグからケータイを取り出して、急いでR転送モードのメモリーを消去した。一瞬の迷いに、キーを押す指は勝つことができた。これで西野さんの傷つく時間は短く済んだ。
これでいい。
大きく吐いた息がのどを震えさせた。
※ ※ ※ ※ ※
その日のうちに、どうしてもやっておかなくてはならないことが、もうひとつあった。
「ごめんね。休みの日に呼び出しちゃって」
「いいよ。どうせ家にいたって何もやることなんかないんだから。でも珍しいね、由紀子の方から飲みに行こうなんて。しかも休みの日なのに。どうせなら朝から誘ってくれれば、どこかに気晴らしにでも行けたのに」
「気晴らししたいことでもあるの?」
「…別に。そんな意味じゃないよ。揚げ足取らなくたっていいじゃない」
尚美は憔悴の色あらわな目でちらりと私をにらんだ。もともと大きな目が眼窩からこぼれ落ちそうに見えた。以前なら私をたじろがせた一瞥が、まったく生気を欠いている。男のように快活でさばさばして遠慮のない尚美が、こんなに脆い部分も持つことに、これまでとんと気づかずにいた。職場では気を張って振る舞っているが、それはどんなに気持ちを疲れさせたことか。それだけに緊張という支えを外すと、心のぬかるみにどっぷり身を沈めてしまうのだろう。気丈さが健気に思えた。
ここまで彼女を追いつめてしまった責任の大きな一端が私にあることは明らかだった。その償いはしなくてはいけない。
まずは彼女にお酒を勧め、率直な感情の中に意地が溶け込むのを待った。そして、ぴりりとした目つきが、とろんと垂れてきた頃合いを見計らって言った。
「尚美、このあいだ西野さんが転勤の話をしたとき、どうして怒って帰っちゃったの?」
「何で、そんな話を。いいじゃない、どうでも」
まだまだお酒が足りないようだ。さあ、飲んで飲んで。
ところが飲ませ過ぎたらしい。「気持ひ悪い」と言い出した尚美を、私は外へ連れ出す羽目になった。
商店街の奥に忘れ去られたような、うらぶれた公園を見つけ、トイレに連れ込んで楽にさせたあと、ベンチにかけて休ませた。私には寒かったが、飲み過ぎた体には夜風が心地よかったようだ。結果として、これで感情と体調と意識レベルの一致を見た。尚美はつやのない声で、唇をぼそぼそ動かしながらしゃべり始めた。
「あいつさ、由紀子になら言いやすいと思って弱音を吐いたんだよ。そういうときだけ相手を選ぶなんてずるいよ。どうして私に、私だけに先に言ってくれなかったの。本当のことを言うとね、あのあと西口公園でもう一回会ったんだ。そうしたら、『さっきはごめん、さっきはごめん』ばっかり繰り返して、てんで本音を言いやしない。だからまた怒って帰っちゃった。それっきり、ひとことも口きいてない。私だって、愚痴やわがままぐらい思いっきり聞いてあげたかったのに。一緒に悩んであげたかったのに」
「そう言ってあげればいいのに。西野さんだって、きっと尚美に聞いてもらいたかったんだと思うよ」
「私にだって、思ったことを言えなくなるときぐらいある。それに、そのぐらいは黙っていても分かってほしかった」
効果があるだろうか。私は尚美から見えないように、さっきからケータイをつないだままにしていた。警戒も牽制もない尚美の声をそのまま届けたままにしていた。
「あいつは結局、私のことを本当の気持ちをぶつける相手とは思っていなかったんだろうな」
「違う!それは違うんだ、尚美!」
その反応を期待していた私でさえ、びくっと飛び上がったほどの臨場感だった。隣に現れたとしか思えないその声が、ケータイを通して尚美に訴えかけてきた。
愁然としていた尚美の目に焦点が甦り、声の出所を求めて虚空を駆け巡った。私は手許に隠していたケータイを尚美に差し出した。尚美は一瞬まぶしげに逸らした目をゆっくり戻すと、私から受け取ったケータイをぎこちなく耳に当てた。
「尚美、俺がいけなかった。君に思ったことを何でも言ってもらえる相手でいたかったばっかりに、つい君に合わせるばかりで、いつの間にか自分の思いを伝えることを忘れるようになってしまったんだ」
その叫びは尚美の心の弦を打った。彼女の声に張りが戻った。
「本当だよ。あなた、いつも私の前だと自分を演じてばかりいた。私にどんなわがままを言われても、何でも受け止める余裕を見せなくちゃって、そう思ってたんでしょ。意識してそうしてるのに気づいたとき、すごく寂しかった。わざと強い調子で言うこともあったのは、あなたにもっとありのままの感情をぶつけてほしかったから。怒られたって、私は平気だよ。それでも私は言うこと言うもん。かっこつけすぎなんだよ」
「だって、俺、君にわがままを言ってもらえることが嬉しかったんだ。思ったことを隠さず言ってもらえることに、すっごく手応えを感じてた。だから、そういう相手でいたかったあまり…」
「本当の気持ちをぶつけてもらえた方が嬉しいのは私だって同じだよ。私にだってそのぐらいの度量はあるんだからね。この間だってそうだよ。転勤のこと悩んでたんなら、どうして私に言ってくれなかったの?」
「…。身についてしまった習性かな。余裕のない姿を見せるのを、ついためらってしまった」
「だったら最後まで言わなければいい。でもあなたは由紀子に言った。由紀子にだったら良いわけ?私は弱音も聞かせてもらえないんだって思ったら、本当に寂しかった」
「そう責めないでくれよ。あのときは参ってしまって、ついこぼしやすいところにこぼしてしまった。だって俺の気持ちにもなってくれよ。友達も親戚もいない大阪に飛ばされることになって、寂しい気持ちにもなるよ」
「『俺の気持ちにもなってくれよぉ』。アフリカの僻地に飛ばされるわけじゃあるまいし、そんなに寂しいわけ!?」
「!。ああ、寂しいよ。めちゃくちゃ寂しいに決まってる。悪いかよ!」
「……二人でも?」
「…え?」
「二人でも寂しい?」
本当に良い音質だ。人気のない公園は二人のやりとりを余すところなく夜空に響かせた。ベンチを離れて、歩を遊ばせる私にも全部聞こえてしまった。
卒直な思いを相手にぶつけない。西野さんが私と同じつまづき方をしていたとは皮肉なことだった。
尚美が鮮やかに焼き付いて、気ままに明るく躍動している。そんな心には、何を考えているのか分からず、ただにこにこと頷いているばかりの私は、さぞ物足りなく映ったことだろう。でも意外としっかり受け止めている自分に感心した。
振り返るとベンチで話し続ける尚美は、いつもの大きな目を細めて、心がそのまま立ちのぼったような柔らかな笑顔でケータイからの語りかけに頷いていた。
彼女からこんな表情を引き出すなんて、西野さんも尚美にとって大事な存在だったのだろう。私は二人の関係がたまらなく羨ましくなった。そして、それだけに自分の決断に満足した。
尚美の耳に当てたケータイが、彼女の頬を、瞳を、潤んだまつげを金色に照らしていた。そんな彼女を私はいじらしいと思って見つめた。
ああ、これなら大丈夫。Vモードの出る幕ではなかった。
私は尚美と別れたあと、彼女から受け取った胃液臭いケータイを開き、彼女たちの通話を二人の未来に転送した。
※ ※ ※ ※ ※
12月になって、西野さんの人事異動が正式に発表された。職場の常として、社内の各所で話頭を賑わせたが、続いて発表された尚美の結婚退職は、鎮まりかけた先行の話題に新たな息を吹き込んで社内を席巻した。
私はそんな渦中の外で一人我が身をいたわっていたが、やがてはそれにも慣れ、二人に向けた「おめでとう」のことばにも装いのない祝福を込められるようになった。好きな人と親友とをいっぺんに失ってしまった。これも過ぎたいたずらの罰だろう。
これまでのことを思い返すと、催眠電波にでも操られて空想の世界を旅していたような気さえする。それでも素敵な経験だった。人とふれあうって、こんなにもすばらしいことだったんだ。臆病な性格にちょっぴり勇気を与えてくれた。おかげで一人でやっていける自信がついた。
私の前だと自然になれる。
気の迷いが手伝ってとは言え、そう言ってくれた人がいたことは事実だ。だから寂しいけれど辛くはない。
これからは仮想ではない現実の人間に、もっと恐れずぶつかっていこう。雑踏を歩くときのように、ぶつかって押し戻されることもあるだろう。でもそれは傷つくのではない。磨かれるんだ。私という人間に輝きを加えるのだ。
ある土曜の午後、私は池袋の街を訪れ、通りを一人で歩いてみた。秋の深まったばかりのあの日、キラキラ光る笑顔で私にハガキを手渡した、あの女の子はもういないだろうか。また会えたらいいな。そう思って、きょろきょろ辺りを見回してみたが、どこにもその姿は見つからなかった。
いや、そうじゃない。ここにいる。私が今立つこの場所に。踏みしめた地面にくっきりと影を描いて、その足で歩き始めている。
あの女の子は、こうありたい、と願う私の姿だった。いま私はその姿に変わろうとしている。
♪ Gone are the cares of life's busy throng,
Beautiful dreamer,awake unto me
♪ なりわいの憂いは跡もなく消えゆけば、夢路より帰り来よ
気がつくと封印したケータイの調べを自分の声で歌っていた。気持ちが前に弾み、おのずと早足になった。私は溢れる人でにぎわう街に駆け足で進んでいった。
赤いダッフルコートがぴったりの季節になった。街並みに溶け込み、人の波にしっくりと調和している。私は自分を着こなし始めた。そういう実感がある。
(了)