ゆっくりいらっしゃい
妻が亡くなって、もうすぐ一年になる。
一人になった生活には、いまだに慣れない。
朝起きれば隣に誰もいない。食卓に着けば向かいの席が空いている。出かけようとすれば、今日の帰りは何時になるの、と聞く声を待ってしまう。
何十年も一緒にいたのだから仕方がない。
そう思えるようになっただけ、亡くなったばかりの頃よりはましなのだろう。
その日、私は久しぶりに妻の部屋へ入った。
亡くなってからも、ほとんど何も変えていない。
窓辺の椅子も、本棚に並んだ本も、妻が使っていた机もそのままだった。
椅子を引いて腰を下ろし、引き出しから便箋を一枚取り出す。
なぜ手紙を書こうと思ったのかは、自分でも分からない。
ただ、話したいことがあった。
『一年になる。
お前がいなくなってから、家が随分広くなった。
別に部屋が増えたわけでもないのにな。
食事はちゃんと取っている。
だから、そのことは心配しなくていい。
庭の薔薇も無事だ。
お前があれほどうるさく言っていたから、私だって水をやるくらいは覚えている』
そこまで書いて、手を止めた。
返事が来るわけでもないのに、何を書いているのだろう。
自分でも可笑しくなった。
それでも便箋を捨てる気にはならず、最後に自分の名前を書いて封筒へ入れた。
宛名を書く必要はない。
封筒を妻の机の上へ置き、私は部屋を出た。
翌朝、執務室へ入った私は足を止めた。
机の中央に、一通の封筒が置かれている。
見間違えるはずがなかった。
何十年も見てきた文字だった。
私の名前が、妻の字で書かれている。
しばらく封筒を見つめてから、私は扉のそばに控えている執事へ目を向けた。
彼は昔と変わらない顔で一礼した。
何も言わない。
私も何も聞かなかった。
椅子へ座り、封を切った。
『あなたへ。
一年経った頃、あなたなら私に何か言いたくなるのではないかと思って、これを書いています。
まず、ちゃんと食事を取っていますか。
あなたは私がいなくなると、面倒だからと簡単なもので済ませそうで心配です。
それから薔薇。
水をやりすぎてはいませんか。
あなたは昔から、足りないより多いほうがいいと思っているところがあります。
水は多ければいいというものではありませんよ』
思わず庭へ目を向けた。
数日前、葉が少し黄色くなっていると庭師に言われたばかりだった。
原因は、水のやりすぎだった。
「……死んでもうるさいな」
そう呟きながら、もう一度最初から読んだ。
◇
翌年、私はまた妻の机へ向かった。
今年は迷わず便箋を取り出した。
『今年も薔薇は咲いた。
水は庭師に任せることにした。
お前の言う通りだったからではない。
専門家に任せるのが一番だと思っただけだ。
娘が結婚することになった。
相手は悪い男ではない。
だが、わざわざ遠いところへ嫁ぐこともないと思う。
本人が決めたことだから反対はしないが、お前ならどうする』
封筒へ入れ、妻の机に置いた。
翌朝。
執務机には、また妻の字で私の名前が書かれた封筒があった。
『娘に大切な人ができたら、あなたはきっと気に入らないでしょうね。
どんなに立派な人でも、あの子を連れていく人なのですから。
でも、あの子が自分で選んだ人なら、まず信じてあげてください。
あなたは反対などしないでしょうけれど、相手の方を怖がらせるくらいはしそうなので、それも駄目ですよ』
「していない」
昨日、娘の婚約者を執務室へ呼んで二人きりで話をしたことは黙っておくことにした。
それから毎年、私は妻へ手紙を書いた。
娘が嫁いだ翌年には、その後の暮らしについて。
孫が生まれた年には、髪の色が妻によく似ていることを。
『あなたのことだから、きっと私に似ているところを探しているのでしょう。
何でも私に似ていることにしないでくださいね。
その子はその子です。
それから、抱き方が怖いなどと言って遠くから見ていないで、ちゃんと抱いてあげてください』
「……見ていたのか」
思わず口に出した。
孫を初めて連れてきた娘に、抱いてみるかと聞かれ、首が据わってからでいいと断ったばかりだった。
結局、その日のうちに抱いた。
大きな病気をした年もあった。
退院してから妻へ書いた。
『少し体調を崩した。
もう治った。
医者も問題ないと言っている。
大したことではない』
翌朝には、
『あなたが「大したことではない」と書いているなら、たぶん大したことだったのでしょう。
昔からそうでした。
本当に何でもないときは、あなたはわざわざ大丈夫だなんて言いません。
医者の言うことを聞いて、しばらく大人しくしてください。
私にはもう、あなたを寝台へ押し戻すことができないのですから』
私は読み終えると、その日に予定していた外出を取りやめた。
何年経っても、妻には敵わなかった。
私が何を書いても、返ってくる手紙には私が次に言おうとしていたことまで書かれている。
妻が亡くなってから起きたことを知っているわけではない。
娘が誰と結婚したのかも、孫が何人できたのかも、私がどんな病気をしたのかも知らない。
それなのに、私が何を考えるかだけは分かっている。
不思議だとは思った。
けれど、妻が何かを残していたことくらいは、最初の手紙を受け取った日に分かっていた。
どういう仕組みなのかを執事へ尋ねたことはない。
知る必要もないと思っていた。
私は妻へ書く。
妻から返事が来る。
それでよかった。
◇
二十年を過ぎた頃には、私も随分年を取った。
妻が亡くなった年齢を、とうに追い越した。
杖を使うようになり、階段を上るのにも時間がかかる。
それでも年に一度、妻の部屋へ行くことだけはやめなかった。
その年も椅子へ腰掛け、震えるようになった手でペンを持った。
『今年も一年経った。
お前がいなくなってから、随分長く生きたものだ。
ひ孫が生まれた。
お前が見たら、きっと喜んだだろう。
最近は娘がよく顔を出す。
用もないのに来るから、何をしに来たのかと聞いたら怒られた。
医者も以前より回りくどい話し方をするようになった。
どうやら私も、そろそろらしい。
次の手紙は書けないかもしれない。
私もそちらへ行く。
そのときは迎えに来てくれ』
書き終えて、封筒へ入れる。
妻の机へ置き、軽くその上を叩いた。
「今度は直接話せそうだな」
翌朝。
執務机には、いつもの封筒があった。
『あなたへ。
いつか、あなたが自分もこちらへ来ると言い出すと思っていました。
でも、急いでは駄目ですよ。
あなたは昔から待ち合わせの時間より早く来る人でしたから。
結婚する前もそうでしたね。
約束より随分早く着いて、何食わぬ顔で私を待っていました。
私は知っていたんですよ。
今度くらい、私を待たせてください。
私はもう、どこにも行きません。
だから、ゆっくりいらっしゃい』
最後まで読み、私はしばらく動けなかった。
やがて息を吐き、背もたれへ身体を預ける。
「……分かったよ」
妻の手紙を畳んだ。
「ゆっくり行く」
◇
一年後。
私はまた妻の机に座っていた。
「まったく」
思わず笑ってしまう。
今年もここにいる。
妻の言いつけを忠実に守りすぎたらしい。
『まだ生きている。
お前がゆっくり来いと言うから、もう一年生きてしまった。
去年より足は悪くなった。
耳も遠くなった。
だが、食欲はある。
ひ孫が歩いた。
庭の薔薇も今年はよく咲いた。
どうだ。
お前も、私が今年また手紙を書くとは思わなかっただろう』
少し考えて、最後に付け足した。
『今度こそ、驚いたか?』
我ながら子どもじみている。
それでも楽しかった。
封筒を机に置いて、部屋を出る。
扉が閉じてしばらくしてから、老執事が部屋へ入った。
彼もまた、二十年前とは違っていた。
背は少し曲がり、歩みも遅くなった。
それでも毎年この日だけは、自らこの部屋へ来た。
机の上の封筒を手に取り、封を開く。
主人の手紙を読むことについて、最初はためらいがあった。
だが、それが奥様から頼まれたことだった。
亡くなる少し前、奥様は彼にいくつもの箱を託した。
中には大量の手紙が入っていた。
『主人が娘のことで悩んでいたら』
『孫のことを自慢してきたら』
『病気をしたと書いてきたら』
『一人でいるのが寂しいと書いてきたら』
同じような内容でも、少しずつ違う手紙が何通もあった。
主人から届いた手紙を読み、そのときの主人にもっとも合うものを選ぶ。
それが、奥様から託された役目だった。
「あの人のことですもの。何を書くかくらい分かるわ」
そう言って笑っていた奥様の姿を、今でも覚えている。
実際、その通りだった。
二十年以上、一度も困ったことはなかった。
老執事は主人からの手紙を読み終えると、いつもの場所へ向かった。
そして、足を止めた。
そこにはもう、箱がなかった。
昨年、最後の一通を主人の机へ置いた。
それで、奥様から預かった手紙はすべてなくなっていた。
老執事は手元の便箋へ目を落とした。
『どうだ。
お前も、私が今年また手紙を書くとは思わなかっただろう。
今度こそ、驚いたか?』
「……奥様」
老執事の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「旦那様は、まだお元気でございますよ」
◇
翌朝。
執務室へ入った私は、机を見た。
何もない。
珍しいこともあるものだと思った。
翌日もなかった。
三日経っても、一週間経っても、妻からの手紙は置かれなかった。
二十年以上続けてきて、初めてのことだった。
ひと月ほど経った頃、私は引き出しから昨年の手紙を取り出した。
『私はもう、どこにも行きません。
だから、ゆっくりいらっしゃい』
何度も読んだ文字を指でなぞる。
それから、思わず笑った。
「……そうか」
今年の私に返す手紙がなかったのだ。
妻が何通の手紙を残していたのかは知らない。
何を書いていたのかも、どうやって選ばれていたのかも知らない。
ただ、二十年以上、一度も外したことのなかった妻から初めて返事が来なかった。
「やっと外したな」
誰もいない部屋で笑った。
「私がもう一年生きるとは思わなかっただろう」
妙に嬉しかった。
何十年も一緒にいて、何を考えても先回りされてきた。
死んでからでさえ敵わなかった妻に、ようやく一つ勝った。
◇
その年の冬、私は体調を崩した。
これまでにも病気をしたことはあったし、そのたびに医者から大人しくしていろと言われてきた。
今回も同じだと思っていた。
春を迎える頃には寝台を離れられるようになったものの、杖をついて屋敷の中を歩けるほどには戻らなかった。
そして、妻へ手紙を書く日が来た。
朝から何度か、妻の部屋のある方角へ目を向けた。
同じ屋敷の中だ。
若い頃なら、ほんの少し歩くだけで着いた。
今の私には、それが遠かった。
執事を呼び、妻の机から便箋を持ってこさせればいい。
そうすれば、ここでも書ける。
けれど、そうする気にはならなかった。
妻への手紙は、妻の部屋で書く。
あの椅子に座り、あの机を使い、書き終えたものをそこへ置く。
最初の一通から、ずっとそうしてきた。
「来年でいい」
誰に言うでもなく呟いた。
来年には、もう少し歩けるようになっているかもしれない。
そのときに書けばいい。
だが翌年も、妻の部屋まで行けるほどには戻らなかった。
その次の年も同じだった。
体調のいい日には寝台を離れ、窓辺の椅子へ移ることくらいはできた。
庭の薔薇も、そこからなら見えた。
ひ孫たちが遊びに来れば、以前のように抱き上げることはできなくても、話を聞いて笑うことはできた。
妻に話したいことは、毎年増えていった。
それでも、手紙を書くことはできなかった。
いつかもう一度、あの机まで行けたら。
そう思っていた。
◇
それから数年が過ぎた。
その日は朝から娘も孫も、ひ孫まで屋敷へ来ていた。
皆、特に用事があるわけでもないと言う。
そんなはずがない。
私が何も分からないと思っているらしい。
「まったく。揃いも揃って」
そう言うと、娘に怒られた。
夕方になって皆が帰ると、急に屋敷が静かになった。
少し疲れた。
目を閉じていると、扉を叩く音がした。
「入れ」
入ってきたのは、老執事だった。
彼もずいぶん年を取った。
今では杖を使っている。
「どうした」
「旦那様に、お伝えしておきたいことがございます」
「珍しいな。お前がそんな顔をするのは」
老執事は寝台のそばまで来ると、深く頭を下げた。
「あの年のことでございます」
「あの年?」
「奥様からのお返事が、初めて届かなかった年でございます」
すぐに分かった。
「ああ」
私は笑った。
「覚えているとも」
あれから何年経っただろう。
「初めてあいつが私を読み違えた年だ」
老執事は何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……いいえ、旦那様」
「何?」
「あのときにはすでに、奥様からお預かりしていたお手紙は、一通も残っておりませんでした」
しばらく、言葉の意味が分からなかった。
「一通も?」
「はい」
老執事が頷く。
「前年、旦那様が『自分もそちらへ行く』とお書きになった際にお渡ししたものが、奥様からお預かりしていた最後の一通でございました」
私は何も言えなかった。
枕元の引き出しを見る。
「あれを」
老執事はすぐに察し、引き出しから一通の封筒を取り出した。
何度読み返したか分からない。
最後に妻から届いた手紙だった。
震える手で開く。
『あなたへ。
いつか、あなたが自分もこちらへ来ると言い出すと思っていました。
でも、急いでは駄目ですよ。
あなたは昔から待ち合わせの時間より早く来る人でしたから。
結婚する前もそうでしたね。
約束より随分早く着いて、何食わぬ顔で私を待っていました。
私は知っていたんですよ。
今度くらい、私を待たせてください。
私はもう、どこにも行きません。
だから、ゆっくりいらっしゃい』
あのとき、私は妻が私を読み違えたのだと思った。
自分がもう一年生きるとは、妻にも分からなかったのだと。
違った。
あの手紙を受け取った時点で、妻の返事はもう一通も残っていなかった。
それでも最後に妻が私へ残した言葉は、急ぐな、だった。
「……そうか」
声にすると、思っていたより弱かった。
妻の手紙を見つめる。
あれから何年生きただろう。
翌年も生きた。
その次の年も。
ひ孫が歩くところを見た。
言葉を覚えるところも見た。
庭の薔薇も何度も咲いた。
妻に話したかったことも、随分たまった。
私は勝ったつもりでいた。
妻にも分からないところまで生きたのだと。
なのに、その時間さえ、妻が最後にくれたものだった。
ゆっくりいらっしゃい。
言われた通りにしただけではないか。
「……また私の負けか」
老執事が、わずかに目を伏せた。
私は笑った。
「最後まで敵わなかったな」
胸の上へ手紙を置く。
もう一度、妻の文字を見る。
不思議と顔まで思い浮かんだ。
若い頃の妻ではない。
長い年月を一緒に過ごし、髪に白いものが混じり、笑うと目尻に皺が寄るようになった妻だった。
長いこと待たせた。
だが、それについては文句を言わせるつもりはない。
待てと言ったのは妻のほうだ。
「今度は、待ち合わせに遅いと怒られるかもしれんな」
老執事が小さく笑った。
「奥様でしたら、旦那様がそう仰ることもお分かりかもしれません」
「やめろ」
私も笑った。
「それでは本当に、最後まで勝てんではないか」
しばらくして、目を閉じる。
妻に話すことはたくさんある。
手紙を書けなかった数年分もある。
何から話そうか。
ひ孫のこと。
娘が相変わらず口うるさいこと。
薔薇が今年も咲いたこと。
きっと妻は、知るはずのない話を聞きながら笑うだろう。
「……まあ、いい」
急ぐ必要はない。
今度は手紙ではなく、直接話せるのだから。
胸の上の手紙に手を添える。
「ずいぶん待たせたな」
妻の最後の言葉を、もう一度思い出した。
――私はもう、どこにも行きません。
「今度こそ行くよ」
そのまま、私は目を閉じた。
泣ける話を読みたくて作りましたが、作者はとても涙もろく、泣きながら書いていました。




