第1話「英雄の条件」
岡山の空は、やけに澄んでいた。
潮の匂い。
港に近い工事現場。
クレーンが動き、鉄が鳴る。
どこにでもある、いつもの現場——のはずだった。
「……なんか静かやな」
ゆたかが呟く。
普段ならもっと雑音がある。
怒号。
笑い声。
だが今日は——
ざわつきだけがある。
不自然なざわめき。
ななが腕を組む。
「嫌な感じするわ」
神父も周囲を見ている。
「視線が集中しています」
確かに。
作業員たちの目が、同じ方向を向いている。
現場の奥。
資材置き場の影。
「……あっちやな」
ゆたかが歩き出す。
一歩。
また一歩。
近づくにつれて、空気が変わる。
重い。
息が詰まるような圧。
そして——
“いる”
影の中。
それは、うずくまっていた。
人の形。
だが歪んでいる。
背中が曲がり。
呼吸が荒い。
「……鬼や」
誰かが小さく言う。
ざわめきが広がる。
「ほんまに出たんか」
「やばいやろ……」
だが——
ゆたかは違和感を覚える。
(なんか……ちゃう)
鬼は、暴れていない。
襲ってもいない。
ただ——
怯えている。
震えている。
ななが小さく言う。
「これ……助け求めてへん?」
その瞬間——
空気が、変わる。
一気に。
風が吹く。
強く。
まっすぐに。
全員が振り向く。
そこに——
一人の男が立っている。
白い装束。
腰に刀。
背筋が伸びている。
そして——
迷いがない。
「安心してください」
静かな声。
だが、よく通る。
「ここは私が処理します」
空気が変わる。
張り詰めていた恐怖が、一瞬で緩む。
「来た……」
誰かが呟く。
「桃太郎や」
ざわめきが、歓声に変わる。
拍手すら起きる。
「助かった……」
「これで大丈夫や」
その中心で——
桃太郎 は、静かに歩く。
鬼の前へ。
距離、数メートル。
鬼が顔を上げる。
目が合う。
その瞬間。
鬼の体が、大きく震える。
「……やめ」
かすれた声。
「やめてくれ……」
誰も聞いていない。
聞こうとしない。
桃太郎は、ゆっくりと刀を抜く。
無駄のない動き。
美しいほどに整っている。
「悪は——」
一拍。
「ここで終わらせます」
振るう。
一閃。
速い。
見えないほどに。
次の瞬間——
鬼の体が崩れる。
霧のように。
消えていく。
静寂。
そして——
歓声。
「すげえ……」
「一発や……」
「やっぱり本物や」
拍手。
称賛。
誰も疑わない。
誰も止めない。
完璧な“正義”。
ゆたかだけが、動かない。
視線は、消えた場所に向いたまま。
(今の……)
ななが小さく言う。
「なあ」
「おかしくなかった?」
ゆたかが頷く。
「ああ」
一拍。
「助け求めとった」
そのとき。
桃太郎が振り向く。
まっすぐに、こちらを見る。
優しい目。
穏やかな表情。
「大丈夫ですか?」
歩み寄ってくる。
ゆたかたちの前に立つ。
「危険は取り除きました」
ななが少し身構える。
だが周囲の空気は——
完全に味方。
誰もが安心している。
桃太郎が続ける。
「最近、鬼の発生が増えています」
一拍。
「見かけたら、近づかず私に連絡してください」
完璧な対応。
非の打ち所がない。
だが——
ゆたかは、聞く。
「……あいつ」
一拍。
「何もしてへんかったで」
空気が、止まる。
周囲の視線が、一斉にゆたかに向く。
ななが小さく息を飲む。
桃太郎は、少しだけ目を細める。
だがすぐに、元の表情に戻る。
「そう見えただけです」
穏やかに言う。
「鬼は本質的に危険です」
一拍。
「被害が出る前に処理する必要があります」
誰も反論しない。
できない。
その空気。
その“正しさ”。
ゆたかは、確信する。
(これ……)
(あかんやつや)
ななが小さく呟く。
「……完全に“そっち側”やな」
たぬきが、低く笑う。
「来たな」
一拍。
「一番厄介なんが」
ゆたかは桃太郎を見る。
完璧な正義。
疑われない存在。
「……やるしかないな」
小さく呟く。
その背後。
遠くの山。
ほんの一瞬だけ——
“影”が揺れる。
誰も気づかない。
ただ、ななだけが顔をしかめる。
「……なんか、まだおる」
その違和感だけが、残る。
■ 第6章 第1話 終




