第19話 泡沫の残滓
「ニノ、起きたか」
自分よりやや幼く、高い声。いつの間にか聞き慣れたそれに、がばっと身体を跳ね上げる。文字の記された帯を纏った、やけに古風な白装束。黒々とした目が寝坊助の相棒を覗き込んでいた。今から出かけるぞと続けんばかりの気配に、気安く返すべきか、これは夢かと声に出してしまうか、それとも。幾多の選択肢よりも早く、反射的な言葉が滑り落ちた。
「誰だ、お前」
黒い目がほんの僅か見開き、ニヤリと笑う。違和感があったと言うよりも、警戒心が先走ったが故の確認だった。アダカらしからぬ笑みを浮かべられ、やはり違うのかと内心で落胆する。反して目の前の少年は満足そうに頷いた。
「あの子が選んだ相棒なだけはある」
風もないのに、着物の裾が揺れる。周囲には乳白色の霧が立ち込めていて、ここがどこか判別がつかない。夢の中ならば場所を特定するのも意味がなかろう。ニノは努めて自然な動作で腰に手をやった。荷物はおろか、武器一つ所持していない状況に、落ち着かなさが迫ってくる。
「一体誰だ。アダカはどうした!?」
「まあ落ち着け、あの子は力を温存している所でな。ちゃんと後で逢わせてやるから安心しろ」
こちらの焦燥を軽く手を振って躱される。妙にでかい態度に別人ながらも懐かしさを覚え、少し冷静さを取り戻した。
「これ、……夢なのか」
「まあそんなものだ。お前の夢とこの身の意識を繋げて逢いに来てやったぞ。喜べ」
「勝手に夢に不法侵入して相棒面してくるやつにどう喜べってんだよ」
自分がまだ自己紹介もしていないのをようやく理解したのか。少年はくつくつと声を漏らしてからくるりと身を翻した。ほんの一瞬、霧に隠れるようにして小柄な身体の姿がブレる。どこか顔立ちが似た、大柄な赤髪の男へと。
「俺はそうさな、シャクヤと名乗っておこうか」
「古代王朝を滅ぼしたっていう、あの?」
「厳密には違うが、そういう認識でいい。今となっては観光大使としてマスコット化もしている、あのシャクヤだ。どうだ凄いだろう」
顎に手を当て、ふふんと得意げに名乗ってきた。物騒な逸話と異なり、随分茶目っ気のある言動だ。そしてアダカと違い、言動や動作が所々大人びているというか、どこかおっさん臭い。
「お前にはジュズマル……、いや、あの子が世話になったからな。一度位は挨拶をしておかねばと思っていた」
「……ジュズマルが、アダカの本当の名前なのか」
「そうとも言うが、そうではない」
皇族の系譜から抹消された名前。ニノの問いかけに、シャクヤは曖昧な返答をしてきた。煙に巻こうという意図はないらしく、面倒そうに頭をばりぼりと掻く。
「ううん、説明が難しいな……仕方がない。散々巻き込んだ詫びも兼ねて、恥を忍んでお前に見せてやろう」
とん、と。シャクヤは一息で懐まで踏み込み、ニノの眼を塞ぐように両手で覆った。振り払う隙すら与えず、ふっと冷たい息を手のひら越しに吹きかけられる。真っ暗な視界の裏で光が瞬き歪み、それはとある一室を描き出した。
窓がなく、障子もなく、光源と言えばふらふらと揺れる小さな蝋燭だけ。そこにじっと座っている、小さな子供。部屋自体は広く、代わる代わる様々な大人が訪問してくる。時には学問を教わり、時には鍛錬を行う。そして時には、呪術師らしき装いの者が頼みごとをしに訪問してくる。
『アダカ様、どうかお清めを』
『……わかりました』
平伏されるたびに、子供はこくりと頷く。手をかざせば、渡されたものから黒々とした何かが自らの内へ移動し、侵食していく。その感覚を厭うていたのは、いつ頃までだったか。身体を這う冷たい感触にとっくに慣れた子供は、その日も手早く依頼を終わらせた。
負の感情。凝れば呪いと化し、災いと成る。そうなる前に自らの身体に取り込むのが、アダカとしての大切なお役目だ。今代のアダカは歴代の中でも特に優れていて、民を苦しめる悪しき神を器として受け入れたのも一度や二度ではなかった。
『ありがとうございますアダカ様。これでミノハナの憂いがまた一つ祓われました』
『いえ、お役目ですから』
仰々しい感謝の言葉に淡々と答え、正座をして目を閉じる。勉学と鍛錬と依頼。決められた役割をこなす時以外は、ただ只管じっとしていた。命じられるままに動き、休む。いつかこの身が壊れるまで。その繰り返しにも、唯一例外があった。
『よう数珠丸、息災か!』
勇ましく低い声は、闇のへばりついた部屋に殊更響いた。閉じていた目をパッと開け、子供はいそいそと立ち上がる。格子のついた扉を開けて入ってきた途端、男は逞しい腕で子供を抱え上げてニヤリと笑った。
『灼夜叔父上、数珠丸はもう抱っこをされてよろこぶ歳ではありません』
『いやあ悪い悪い、俺からすれば、いつまで経っても可愛い甥っ子だからな』
豪快に笑うと、灼夜は甥をそうっと床に下ろした。雑に撫でてくる手からは、いつも嗅いだ事のない匂いが漂ってくる。きっと太陽と風のにおいだ、と数珠丸は思っていた。
『今回は北方の土産話を携えてきたぞ。今の季節は大雪で、お前の身の丈よりも高く雪が積もっていてな……』
軍の遠征から帰ってくると、彼は部屋から殆ど出られない甥へ溢れんばかりの外の光景を語ってくれた。木々が連なる山も、うねりを上げる波も、肌を焼く灼熱の陽射しも、全て彼から教えられた。とはいえ言葉だけで想像するのは難しくて、いつも何だか胸がいっぱいになってしまう。以前そう伝えると、何故か灼夜は益々熱心に話してくれるようになった。
『側近共の目が厳しくて、中々会いに来てやれなくてすまんな。帝は兄上であらせられるのに、呪術師連中ときたら相も変わらず好き放題に権力を握りよって。数珠丸、酷い目に遭わされていないか』
『いつも通りです、叔父上』
安心させようと、いつも呪術師達に向ける笑顔を形作る。抑揚なく返すと、彼はさっと眉を潜めた。部屋の隅に残る血痕を睨み、気づかわしげに見つめてくる。
『また死体から負の感情を抜き取らされたのか。呪具に籠めず直接回収させるとは、あいつらも反乱軍の多さに余裕がなくなっているのだろうな』
『もう慣れました、叔父上。心配されずとも結構です』
『慣れるな、そんなもの。素質によっては兄上や俺も同じ道を歩んでいたのやもしれんのだぞ。お前の瞳から生気が失われていくと、自らと重ね合わせて余計に辛い』
皇族の血筋は呪術の素養が高い者が多い。灼夜も類まれなる呪術の才能が有り、数珠丸が生まれる前まではアダカに成る第一候補だったと聞く。責務を任されるのは光栄であり、ミノハナを支える重要な役目である──そう教わった。それに、自由を好む快活な叔父がこの役目を負わされずよかったとも、思っている。
扉の向こうで、小さく叩く音が響く。面会の時間は終わりという合図だろう。去り際に灼夜はぐっと顔を近付け、外の者に聞こえない声音で囁いた。
『なあ、数珠丸。もし自由になれるとしたらどうしたい?』
『どうもしません』
本当に、どうでもよかった。命じられた事をこなしてお役目を果たせば、ミノハナの民の暮らしを護れる。それに記憶にない外の世界への興味は薄く、灼夜の話を聞いているだけで充分満足できた。それ以上の何を望むと言うのか。本当に何も望まない甥を寂しそうに見やってから、明るい声で提案される。
『なら、俺の相棒になってあちこちを冒険してみるのはどうだ』
『相棒……』
『そうだ。困った時は助け合い、悲しい時は二人で乗り越え、共に楽しむ。面白そうだと思わないか』
『……面白い、かもしれませんね』
今の自分からあまりにかけ離れていたから、それがどんなものなのか空想すらできない。けれど灼夜と一緒にいるのは好きだ。だからきっと、一緒に冒険するのもやはり好きだろう、と思った。
退出を催促する音が執拗に響く。名残惜しそうに頭をかく灼夜へ、なるべく寂しい素振りを見せないようにしつつ、いつもの通り声をかけた。
『叔父上、お体に気を付けてください』
『ああ、ありがとうな、数珠丸』
ぽん、と優しい手つきで頭を撫でられる。他の誰に感謝されてもどうとも思わないのに、叔父に言われるとどれだけ軽い響きでも心の奥がぽかぽかと灯るのが、数珠丸は好きだった。この暖かな光さえあれば、きっと最期まで役目を果たせるだろうと思っていた。
本当に、それだけでよかった。
多くは望まなかったのに。
それすら、少年には許されなかった。
『アダカ様、さあ、これの悪しき気を浄化なさってください』
血塗れの重たい身体が眼前に横たえられる。いつもの事だった。なのに虚ろな瞳と目が合い、呼吸が停止する。激しく動揺したのは浄化に慣れていなかった頃以来だった。
『灼夜様は謀反を企て、恐れ多くも親族を手にかけました。その身に皇族の方々の怨みを一心に背負っておられます。さあ、一刻も早く浄化を』
嘘だ、と思った。灼夜が反乱軍に加わったのは事実だろうが、呪術師達の利権争いや、それに不満を抱く民の暴動が活発化している事位、感情を散々取り込んできたのだから知っている。彼らは今こそ自分達が天に立つ好機であるとして、皇族を虐殺し、灼夜一人に罪を擦り付けようとしているのだ。
『さあ、早く』
『そして、仇禍として完成なされませ』
『さあ!』
完成する直前に命を絶つという使い捨ての受け皿としてではなく、アダカを完成させればどうなるか、自らを苛む力で本能的に理解している。きっと魂は怨恨に染め上げられ、敵対者を屠る殺戮の道具として呪術師達に利用されるのだろう。
嫌だ、と強く思った。自分はどうなってもいい。でも、ミノハナの民達を傷つけるのも、灼夜を呪いの養分として取り入れてしまうのも、嫌だった。
『……分かりました。数珠丸は、アダカのお役目を果たします』
震える手で、冷たくなった頭を抱きかかえる。いつもと同じ風に振る舞いながらも、静かに決意を秘めて。
『どうか、夢の続きがあれば、叔父上だけでも……』
もう届かぬ願いを、誰にも聞こえない声で小さく呟く。目を閉じると、元より昏い景色はおろか、周囲の声すら急速に遠のいていく。彼を助けたい、彼には生きていて欲しい。この想いだけは、最期まで手放さず。
『アダカ様、何を』
『呪いを封じるなど命じてはおりませぬ──』
何本もの手が身体を掴む。ばらばらに引きちぎられ、霧散して。見せられていた暗い夢は唐突に醒めた。




