<後日談>目覚めのクロワッサン
アマルフィの喧騒から離れた、ニコラスの私有別荘。遮光カーテンの隙間から、地中海の穏やかな朝の光が、シーツの上に柔らかな筋を描いている。
アリスは、隣に眠る男の規則正しい鼓動を感じながら目を覚ました。かつては鉄の鎧のように硬かったニコラスの腕が、今は彼女を壊れ物を扱うように、けれど片時も離さないという強い意志を持って抱き締めている。
「……おはよう、ニコラス」
アリスが微かに囁くと、ニコラスはまどろみの中から彼女をさらに深く、自らの胸へと引き寄せた。
「あと五分、このままで。……今の私のスケジュール表には、君を抱きしめる時間しか書き込まれていない」
「効率主義のCEOはどこへ行ったのかしら?」
アリスがくすくす笑うと、ニコラスは彼女の肩口に顔を埋め、その柔らかな肌の香りを深く吸い込んだ。
「あんなものは、君というスパイスに溶かされて消えてしまったよ。……今の私にとって、世界で最も価値のある数字は、君の体温と、君が一日の中で何度微笑んでくれるか、それだけだ」
ニコラスはベッドを抜け出すと、まだ微かに火照るアリスの額に短い口づけを残し、キッチンへと向かった。やがて、階下から漂ってきたのは、目覚めの脳を優しく刺激する芳醇な香りと、バターが焼ける芳しい匂い。
アリスがゆったりとしたローブを纏ってキッチンへ降りていくと、そこには驚くべき光景があった。
世界屈指のホテル王が、自らエプロンを締め、手際よくクロワッサンをオーブンから取り出していたのだ。傍らには、摘みたてのイチゴと、地元産の濃厚な蜂蜜、そして完璧な温度で淹れられたカプチーノ。
「さあ、アリス。今朝のメニューだ。カロリーの計算は……もう忘れたよ。ただ、君の舌が『幸福だ』と叫ぶことだけを考えて作った」
アリスは、ニコラスが差し出した焼き立てのクロワッサンを一口齧った。サクッ、という軽やかな音と共に、バターの海が口の中に広がる。それは、かつて彼が「燃料」と呼んでいたものとは正反対の、愛という名の贅を尽くした一品だった。
「……最高よ、ニコラス。あなた、本当にシェフに転職するつもり?」
「君という専属の評論家が、一生私のそばにいてくれるなら、それも悪くない」
ニコラスは、クロワッサンの欠片をつけたアリスの唇を、愛おしそうに親指で拭った。二人の視線が重なり、言葉にならない熱い情熱が再びキッチンに満ちていく。
「アリス、次の目的地は決まったか?シチリアの市場か、それともパリの隠れ家レストランか」
「どこへでも。あなたが隣にいて、一緒にその味を楽しんでくれるなら」
ニコラスはアリスの腰を引き寄せ、彼女の耳元で囁いた。
「ああ、約束しよう。私たちの人生というフルコースは、これからが本番だ。……そして、今夜のデザートの準備も、もう始まっている」
テラスの向こうに広がるアマルフィの海は、どこまでも青く、輝いている。二人の前には、まだ手付かずの「喜び」という名の時間が、永遠に続いていくフルコースのように広がっていた。
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