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アマルフィの誘惑、理性が溶けるまで  作者: Lucy M. Eden


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情熱のビステッカ

メニュー刷新プロジェクトの最終プレゼンを翌日に控えた夜。アリスは、ホテルの地下にある、宿泊客には決して公開されていない「秘密のワインセラー」にニコラスを呼び出した。そこは、数世紀前の石組みがそのまま残る、ひんやりとしていながらも、どこか古の情熱が眠っているような神聖な空間だった。


セラーの片隅にある暖炉では、ルカが特別に用意した樫の木が、パチパチとはぜる音を立てて燃えている。


「……こんな場所で、何の真似だ。最終プレゼンの準備は終わったのか」


ニコラスの声が石壁に反響する。彼はまだ、昨夜のティラミスの件による苛立ちと、自分の中に芽生えた制御不能な独占欲に、戸惑いを隠せないでいた。


「準備はできているわ、ニコラス。これこそが、私の答えよ」


アリスは、暖炉の火に照らされて、ゆらゆらと揺れる影の中に立っていた。今日の彼女は、いつもより少しだけ大胆な、深いワインレッドのドレスを纏っている。彼女の柔らかな曲線が、火の粉を浴びてより一層、官能的な陰影を描き出していた。


テーブルの上には、巨大な肉の塊が鎮座していた。『ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ』。キアナ牛のTボーンを、厚さ五センチ以上にも切り分けた、まさに肉の王様だ。


「……ステーキか。高タンパクで合理的だが、新メニューの驚きとしては平凡ではないか」


「ただのステーキだと思わないで。これは、火と塩、そして時間の結晶よ」


アリスは慣れた手つきで、暖炉の熾火の上に置かれた鉄網に、肉を載せた。「ジューッ!」という、暴力的なまでに食欲をそそる音がセラーに響き渡る。滴り落ちた脂が火に触れ、香ばしい、それでいてどこか官能的な香りが立ち上った。


「味付けは、地中海の岩塩と、挽きたての黒胡椒、そして最高級のオリーブオイルだけ。余計な計算も、装飾もいらない。必要なのは、この熱を受け止める覚悟だけよ」


肉が焼き上がるのを待つ間、二人の間に重密な沈黙が流れた。ニコラスは、網の上で激しく汗をかく肉の塊と、それを見つめるアリスの横顔を交互に見た。火照った彼女の頬、そして熱に当てられてわずかに潤んだ瞳。彼は不意に、目の前の肉ではなく、その肉を扱っている女性そのものを「味わいたい」という、抗いがたい衝動に駆られた。


「……焼き上がったわ」


アリスが肉を切り分ける。中心部は、ルビーのように鮮やかなレア。彼女は一切れの肉を、木製のボードに載せてニコラスの前に差し出した。


「さあ、食べて。燃料としてじゃなく、この命の輝きを感じて」


ニコラスは、差し出されたフォークを拒み、アリスの手をじっと見つめた。そして、自らの指先で、まだ熱い肉の一片を摘み上げた。


一口、噛み締める。


その瞬間、ニコラスの脳内を支配していた冷徹な数値が、一気に霧散した。歯を押し返すような力強い弾力。そして、噛むほどに溢れ出す、濃厚で、野性味溢れる肉汁。岩塩のミネラルが肉の甘みを引き立て、鼻を抜ける炭の香りが、彼の眠っていた本能を激しく揺さぶる。


「……っ」


ニコラスは目を見開き、喉を鳴らした。美味い。そんな単純な言葉では到底足りない。それは、彼が長年恐れ、遠ざけてきた「喜び」という名の暴力だった。


「どう?ニコラス。あなたの筋肉が求めているのは、数字じゃない。この、心が震えるような充足感でしょう?」


アリスは、彼に一歩近づいた。ニコラスは肉を飲み込み、脂で濡れた唇を拭おうともせず、アリスを見つめた。


「……君の勝ちだ、アリス」


彼の声は、もはや深海の底流ではなく、マグマのような熱を帯びていた。


「私は間違っていた。計算で満たせるのは腹だけで、魂は……ずっと、飢えていたんだ」


ニコラスは、自らの指先に残った肉の熱を、そのままアリスの頬へと移した。熱く、わずかに震える彼の指先が、彼女の肌をなぞる。


「君が私を狂わせた。……君の言う通り、私の氷の鎧は、もう形を保てない」


彼はアリスの腰を引き寄せた。ドレス越しに伝わる、ニコラスの硬い筋肉の感触。そして、アリスの柔らかな体が、彼の渇望を優しく受け止める。


「眼鏡は……どこだ」


「……また、どこかに忘れてしまったみたい」


アリスが至近距離で囁くと、ニコラスは微かに笑った。それは、初めて彼が見せた、人間味に溢れた、けれど最高に魅力的な微笑みだった。


「なら、何も見なくていい。……ただ、私を感じろ」


ニコラスの唇が、アリスの唇へと重なった。それは、ビステッカの余韻を残した、熱く、情熱的な、魂を交わすための儀式。アリスは彼の首に腕を回し、その強靭な肉体に自らを預けた。


石造りのセラーの中で、暖炉の火だけが二人を照らし続けていた。数字と効率に支配されていたニコラスの人生が、アリスという至上のスパイスによって、今、真実の色彩を取り戻そうとしていた。

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