禁断のティラミス
深夜二時。ホテルのメインキッチンは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていたが、そこには一つの濃厚な熱源があった。
「いいかい、アリス。『ティラミス』という言葉には、イタリア語で『私を引っ張り上げて』、つまり『私を元気にして』という意味があるんだ」
ルカの声が、甘く低い温度で響く。彼はアリスの背後に立ち、ボウルの中で完璧に泡立てられたマスカルポーネ・クリームの状態を、彼女と一緒に確認していた。
「このクリームの滑らかさを見てごらん。シルクのようだろう?君の肌みたいに」
ルカの逞しい腕が、アリスの横から伸びてくる。彼は指先に少しだけクリームを掬うと、それをアリスの唇にそっと近づけた。
「味を見て。エスプレッソをたっぷり染み込ませたサヴォイアルディ(ビスケット)の苦味と、このクリームの甘美な抱擁。これこそが、絶望の淵にいる人間を天国へ引き上げる魔法なんだ」
アリスは、ルカの情熱的な視線に少し気圧されながらも、差し出されたクリームを口に含んだ。舌の上で、雪のように溶けるマスカルポーネ。そこに、ガツンと響く深いエスプレッソの香りと、隠し味に効かせたマルサラワインの芳醇な刺激。
「……信じられない。こんなに濃厚なのに、後味はどこまでも気高くて、軽やかだわ」
アリスが感嘆の溜息を漏らす。その瞬間、ルカが彼女の耳元に唇を寄せた。
「そう、それが恋の味だ。……ねえ、アリス。あんな氷の塊のような男の指示に従うのはもうやめて、僕と新しい世界を作らないか?君のようなミューズには、数字ではなく愛が必要だ」
ルカの手が、アリスの豊かな腰の曲線へ、吸い寄せられるように伸びていく。その時だった。
「――深夜の厨房で、福利厚生の範囲を超えたサービスが行われているようだな」
キッチンの自動ドアが開き、あの「陽の光さえ届かない深海の底流」のような声が、凍てつく冷気とともに流れ込んできた。
そこには、ネクタイを少し緩めただけの、完璧に隙のない姿のニコラスが立っていた。彼の眼差しは、ルカがアリスに触れようとしていたその一点を、逃さず射抜いている。
「ヴォーン氏……。どうしてここに?」
アリスが驚いて一歩退がると、ニコラスは迷いのない足取りで二人の間に割り込んだ。
「経営者として、プロジェクトの進捗を確認しに来ただけだ。……ルカ、シェフとしての職務を全うしろ。テイスティングが必要なら、私がやろう」
ニコラスは、アリスの手元にあったスプーンを無造作に取り上げると、ボウルに残ったクリームを掬い、口に運んだ。彼の端正な眉が、一瞬だけ動く。
「……甘すぎる。そして、刺激が強すぎるな」
「それは、君の味覚が死んでいるからだよ、ニコラス」
ルカが不敵に笑う。
「これは『喜び』の結晶だ。効率や数値で管理できるような代物じゃない。アリスは、この味の価値を理解してくれた。彼女を君の無機質なルールで縛るなんて、才能の無駄遣いだと思わないか?」
「彼女の才能をどう使うかは、契約を結んでいる私が決めることだ」
ニコラスの声に、初めて剥き出しの「怒り」が混じった。彼はアリスの腕を掴むと、強引に自分の方へと引き寄せた。
「っ……、ヴォーン氏」
アリスは彼の胸板にぶつかりそうになり、思わず彼の腕を掴んだ。昼間の冷徹な彼からは想像もつかないほど、掴まれた腕からは荒々しい熱と、制御しきれない独占欲が伝わってくる。
「ルカ、今夜の作業はここまでだ。明日までに、この『甘すぎる』要素をどう削ぎ落とすか考えておけ」
「おい、待てよ、ニコラス!」
ルカの声を背に、ニコラスはアリスを連れて厨房を出た。静まり返った廊下を、彼の硬い靴音だけが冷たく響く。しばらくして、彼は誰もいないテラスへとアリスを連れ出すと、ようやくその手を離した。
「……何をするの?乱暴だわ」
アリスが赤くなった手首をさすりながら睨むと、ニコラスは背を向けたまま、夜の海をじっと見つめていた。
「……あいつに、あんな顔を見せるな」
「え?」
「ルカの前で、あんな……無防備に、悦びに浸ったような顔をするなと言っているんだ」
ニコラスが振り返った。その瞳には、かつて見たことのない、激情の影が揺らめいている。
「君は、私のプロジェクトのために雇われたライターだ。私の管理下にある間は、勝手な振る舞いは許さない」
「管理下?私はあなたの所有物じゃないわ。それに、ルカはただ、私を元気付けようとして……」
「『ティラミス』だろう?私を元気づけて、私を引き上げて。……甘い言葉で誘惑されていることにも気づかないのか。君は本当に……」
ニコラスは言葉を切り、アリスを一歩ずつ追い詰めるように距離を詰めた。背後に手すりを感じ、アリスの逃げ場がなくなる。眼鏡の奥で、アリスの瞳が激しく揺れた。
「……君は、あまりにも無防備すぎる。その豊かな体も、美味しそうに食べるその唇も、すべてが……男を狂わせる毒だという自覚がないのか」
「ヴォーン氏……」
「ニコラス、と呼べ」
彼はアリスの両サイドに手を突き、彼女を閉じ込めた。深夜の冷たい潮風が吹き抜ける中、二人の間に漂うのは、先ほどのティラミスの甘い香りではなく、焦げ付くような情熱の匂いだった。
「数字で測れないものなど、この世にはないと思っていた。だが……」
ニコラスの低い声が、アリスの首筋に触れる。
「君という存在だけは、どうしても私の計算に収まらない。……あいつに触れさせるな。私以外の男に、そんな顔を見せるな」
それは、冷徹なCEOの言葉ではなく、一人の男としての「宣戦布告」だった。アリスは、彼の瞳の中に、初めて自分という光に焼かれ、溶け始めている「氷の深海」を見た。




