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アマルフィの誘惑、理性が溶けるまで  作者: Lucy M. Eden


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3/7

月影の魚介フリット

アマルフィの夜は、昼間の喧騒が嘘のように甘く、そして深い。アリスがニコラスを連れ出したのは、ホテルの華やかなレストランではなく、海岸線の端、波しぶきが届くほど海に近い場所にある小さな「フリッタリー」だった。


粗末な木のテーブルに、プラスチックの椅子。頭上には裸電球が数個ぶら下がっているだけ。しかし、そこには夜釣りを終えた漁師や、恋人と肩を寄せ合う地元の人々の熱気が渦巻いていた。


「……ミス・リード、正気を疑う。ここが、新メニューのインスピレーションを得る場所だと言うのか?」


ニコラスは、高級なオーダーメイドのスーツが汚れるのを嫌うように、眉間に深い皺を寄せて立っていた。彼の存在は、その場に不釣り合いなほど高貴で、冷たく、そして美しかった。


「そうよ、ヴォーン氏。最高の贅沢は、金銀の食器の上にあるとは限らないわ」


アリスは彼の不満を笑い飛ばすと、店主から手渡されたばかりの、油の染みた円錐形のワックスペーパーを受け取った。中には、揚げたての魚介――小さなイカ、エビ、小魚が、雪のように白い塩を振られて山盛りになっている。


「『フリット・ミスト・ディ・ペッシェ』。これが今夜の私たちのフルコースよ。さあ、座って」


ニコラスは渋々、アリスの向かい側に腰を下ろした。


アリスは躊躇なく、指先で揚げたての小エビを摘み取った。狐色に輝く衣が、彼女の指の圧力で「サクッ」と小さな音を立てる。彼女はそれを口に運び、熱さを逃がすようにハフハフと息をつきながら、豪快に噛み締めた。


「んん……!最高。ヴォーン氏、見て。この衣の軽さ。中のエビは、ついさっきまであの海で泳いでいたのよ。ぷりぷりとしていて、噛むたびに甘みが溢れてくるわ」


アリスの唇には油が艶やかに光り、指先には岩塩の粒が輝いている。彼女が悦びに身を委ね、喉を鳴らして味わう姿は、どこか野生的で、それでいて強烈に官能的だった。


ニコラスは、その光景から目を逸らすことができなかった。彼が知る女性たちは皆、食事を「敵」として扱っていた。優雅に、けれど極少量を、カロリーという数値を怯えながら計算して口にする。だが、目の前のアリスは違う。彼女は生命そのものを、その豊かな肢体に取り込もうとしている。


「……フォークはないのか」


「そんなの邪魔なだけよ。指先で感じる熱も、美味しさのうちなんだから。さあ、あなたも」


アリスは、一番形の良い小イカのフリットを摘むと、それをニコラスの唇に差し出した。ニコラスの瞳が、驚きに微かに見開かれる。


「……自分で行う」


「拒絶は禁止。これは私の『調査』の一環なんだから」


アリスの瞳には、茶目っ気とともに、彼を逃さないという強い意志が宿っていた。ニコラスは、降参したように溜息をつくと、ゆっくりと口を開いた。アリスの指先が、彼の唇に触れる。その瞬間、電流のような熱が、二人の間に走った。


ニコラスは、ゆっくりとフリットを咀嚼した。高温の油で一気に閉じ込められた海の旨味。新鮮なオリーブオイルの香ばしさ。そして、アリスの指先に残っていた、彼女自身の甘い体温。


「……どう?数字では測れない味がするでしょう?」


ニコラスは無言のまま、レモンを手に取った。彼はそれを、自分の分だけでなくアリスのペーパーの中にも、丁寧に絞り落とした。その指先は相変わらず器用で、無駄がない。


「……確かに、悪くない。だが、私には理解できない。なぜ君は、これほどまで無防備に、自らを『喜び』にさらけ出せるのか」


ニコラスの言葉は、海の音に溶けてしまいそうなほど低かった。


「かつて、私のそばにいた女性は、食事を『恐怖』だと呼んだ。一口食べるごとに、彼女は鏡を見て、自分の体型が崩れていないか確認し、カロリー計算ばかりで……食事を心から楽しむことなんて、一度もなかった」


「……その人は、あなたの愛した人だったのかしら?」


アリスの静かな問いに、ニコラスは応えなかった。だが、彼の握りしめられた拳が、答えを物語っていた。


「とても、大切に思っていたのね。でも、彼女の不安を溶かしてあげる術を、当時のあなたは知らなかった……。その痛みが、今のあなたを縛り続けているのね」


アリスは、テーブルの上に置かれた彼の手に、そっと自分の手を重ねた。ニコラスは反射的に手を引こうとしたが、アリスの温もりがそれを許さなかった。彼女の肌は柔らかく、豊かな生命力に溢れている。


「あなたは自分を冷徹なCEOだと思わせたいようだけど、本当は、壊れやすいものを守りたいだけなんじゃないの?」


「……勝手な推測はやめたまえ」


ニコラスは冷たく突き放そうとしたが、その瞳はアリスを見つめたまま動かない。月明かりの下、アリスの眼鏡の奥にある瞳は、宝石のように輝いていた。


「私を見て、ニコラス。私はこんなに食べて、こんなに柔らかいけれど、壊れたりしないわ。むしろ、喜びを吸収するほど、私は強くなれる。……あなたのその氷の鎧も、いつか私が美味しく溶かしてあげたいくらい」


アリスの指が、ニコラスの指の間に入り込み、深く絡み合う。ニコラスの胸の奥で、長年閉じ込めてきた何かが、音を立てて軋んだ。


「君は……恐ろしい女性だ。私の計算を、すべて狂わせてしまう」


ニコラスはそう呟くと、自らアリスの手を強く握り返した。潮風が、フリットの香ばしい匂いと、二人の高鳴る鼓動を乗せて、夜の海へと消えていった。

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