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アマルフィの誘惑、理性が溶けるまで  作者: Lucy M. Eden


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太陽のレモン・リゾット

ニコラス・ヴォーンの執務室は、この南イタリアの色彩豊かな風景の中で、唯一「冬」を切り取ったかのような空間だった。磨き上げられたスチールのデスク、装飾を排した無機質なソファ、そして壁一面の大きな窓の向こうにはアマルフィの碧い海が広がっているが、室内の温度は常に一定の低さに保たれている。


「これが、新しいダイニングに求める要件だ」


ニコラスがデスクの上に滑らせたタブレット端末には、冷徹なフォントで並んだ数字とグラフが並んでいた。


「すべてのメニューを糖質30グラム以下、高タンパク、そして抗酸化作用の高いスーパーフードを中心に構成する。宿泊客はここで贅を尽くすだけでなく、滞在を通じて心身を最適化する権利がある」


アリスは眉をひそめ、その画面を睨みつけた。


「ヴォーン氏、あなたは大きな勘違いをしているわ。客は『最適化』されるために、わざわざこの美しい海岸まで来るんじゃない。日常という檻から解放され、人生の喜びを再発見するために、高い対価を払うのよ」


「喜びなどという曖昧な言葉で、非効率な糖質摂取を正当化するのはやめたまえ、ミス・リード」


ニコラスは深く椅子に背を預け、組んだ長い足のラインを強調した。その無駄のない肉体は、彼が自身の提唱する「効率」の体現者であることを示している。


「感情はホルモンの反応に過ぎない。正しい栄養素を摂取させれば、幸福感は人為的に作り出せる」


「……本気で言っているの?」


アリスが呆れ果てて言葉を失ったその時、重厚な扉が勢いよく開け放たれた。


「待たせたね!議論で干からびた脳には、これが必要だ!」


芳醇なバターと、弾けるようなレモンの香りが部屋中に溢れ出した。ルカが、輝く銀のクロッシュを掲げて現れたのだ。彼がテーブルに置いた一皿には、アマルフィの太陽をそのまま閉じ込めたような、鮮やかな黄色いリゾットが盛り付けられていた。


「『リゾット・アル・リモーネ』。アリス、君のために、今朝摘んだばかりの最高級レモンで作ったよ」


ルカはニコラスの不快そうな視線を涼しい顔で受け流すと、アリスの隣に跪き、銀のスプーンで一口分を掬い上げた。


「さあ、あーんして。君のその瑞々しい唇が、このソースをどう評価するか聞かせてくれ」


「ルカ、ここは私の執務室だ。衛生管理はどうなっている」


ニコラスの声が、一気に氷点下まで下がった。アリスはルカの情熱的な振る舞いに少し照れつつも、挑発するようにニコラスを見つめ、ルカが差し出したスプーンを迎え入れた。


熱いリゾットが舌の上でほどける。米の芯がわずかに残る絶妙なアルデンテ。そこに、レモンの爽やかな酸味と皮のほろ苦さ、そして最高級のパルミジャーノ・レッジャーノの濃厚な旨味が、波のように交互に押し寄せてくる。


「……素晴らしいわ、ルカ」


アリスはうっとりと目を細めた。


「レモンの酸がクリームの重さを完璧に中和して、まるで夏風そのものを食べているみたい。これこそ、魂を震わせる味よ」


「だろう?ニコラス、君もどうだい?その不機嫌な顔の筋肉をほぐすには、このアミノ酸が効くはずだぜ」


ルカが勝ち誇ったように笑い、アリスの肩に親密に手を置く。その瞬間、ニコラスの瞳の奥で、深海の底流が激しく渦を巻くのをアリスは見逃さなかった。


「……その皿を下げろ。会議は終わりだ」


ニコラスは吐き捨てるように言い、視線を書類に戻した。だが、彼の手元にある万年筆が、心なしか強く握りしめられていることに気づいたルカは、アリスにウィンクをして部屋を後にした。



その日の深夜。


アリスはホテルの一室で、ルカからもらった資料と自らのメモを照らし合わせながら、執筆に没頭していた。


「効率と喜びの融合……難しいけれど、不可能じゃないはず」


集中力が頂点に達した時、彼女は疲労で熱を持った瞳を休めるため、愛用の黒縁眼鏡を外して机の上に置いた。数分間、暗闇の中で目を閉じ、思考を整理する。


「よし、続きを書こう……あれ?」


再び目を開けた時、視界は淡い霧に包まれていた。重度の近視である彼女にとって、眼鏡のない世界はすべてがパステル画のように輪郭を失う。


「どこ?さっきここに置いたはずなのに」


アリスは机の上を這うようにして手探りで探し始めた。しかし、指先が触れたのは冷たい木目の感触ばかり。焦れば焦るほど、眼鏡は見つからない。彼女はついに、膝をついて床を這い回り始めた。


その時、カチリとドアが開く音がした。


「まだ起きていたのか。明日の視察スケジュールを……」


聞き慣れた「深海の声」が聞こえた。アリスは顔を上げ、声のする方を見たが、そこには背の高い人影がぼんやりと立っていることしかわからない。


「ヴォーン氏?助けて、眼鏡がないの!何も見えなくて……」


アリスが情けなく声を上げると、人影がゆっくりと近づいてきた。ニコラスは、床に這いつくばり、無防備に腰を突き出しているアリスの姿を、信じられないものを見るような目で見つめていた。


昼間の、あの鋭く理知的なグルメライターはどこへ行ったのか。今の彼女は、足元もおぼつかない、柔らかで儚い生き物にしか見えない。


「……足元にある。そのまま動くな。踏むぞ」


ニコラスは溜息をつき、長い指先でアリスの膝のすぐ近くに落ちていた眼鏡を拾い上げた。彼はアリスの前に屈み込み、彼女の顔を覗き込んだ。


「眼鏡がないと、私の顔も見えないのか?」


「ええ、あなたのその怖い顔が、ただのぼんやりした彫刻みたいに見えるわ」


アリスが少し強がって笑うと、ニコラスとの距離が、不自然なほどに近いことに気づいた。彼の体から漂う、潮風と高級な石鹸の香り。そして、昼間の冷徹さとは裏腹な、生身の男としての強い熱量。


ニコラスは無言のまま、眼鏡のテンプルを持ち、アリスの耳にゆっくりとかけた。彼の指先が、彼女のこめかみの柔らかな肌に触れる。


視界が、一気に鮮明になった。


レンズ越しに飛び込んできたのは、驚くほど近くにある、ニコラスの灰色の瞳だった。彼はアリスを解放しようとはせず、その瞳で彼女を射抜くように見つめ続けている。


「……見えたか」


「ええ……。思っていたより、ずっと……」


「ずっと、なんだ」


「……熱いのね。あなたの指先」


アリスの言葉に、ニコラスの喉仏が小さく動いた。深夜の静寂の中、二人の吐息が重なり合う。ニコラスの瞳の中に、冷徹な数字ではなく、言葉にできない熱い情動が揺らめくのを、アリスは確かに見た。

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