檻の中から見た、偽りの空(雨宮美雨 視点)
「愛してるよ、美雨」
スマートフォンのスピーカーから聞こえてくるその声は、かつて私をときめかせた響きとは似ても似つかない、冷たい鎖の音に聞こえた。私は、ベッドの上で膝を抱えながら、必死に作り物の声を絞り出す。
「……うん、私も」
電話が切れる。途端に、張り詰めていた全身の力が抜けて、どっと疲労感が押し寄せてきた。今日もまた、夜凪奏という名の看守の監視下で、無事に一日を終えることができた。その安堵と、こんな日々が明日も続くという絶望とで、胸が張り裂けそうだった。
奏と付き合い始めたのは、大学に入学してすぐのことだった。真面目で、少し不器用だけど、一途に私だけを見てくれる。最初は、彼のそんなところに惹かれた。他の誰もが見向きもしなかった、地味で物静かな私を見つけてくれた、王子様のように思えた。
でも、その認識が甘い幻想だったと気づくのに、時間はかからなかった。
「そのスカート、短すぎない? 俺以外の男に見せたいの?」
「今の男、誰? なんで挨拶されただけで笑うの?」
「サークルの飲み会? だめだ。男がいる場所に行かせるわけないだろ」
彼の「愛」は、私のすべてを管理し、支配し、彼の理想の型にはめようとする「束縛」だった。私の世界から、少しずつ色が失われていく。友人からの誘いを断り続け、着たい服も着られなくなり、彼の許可なく誰かと話すことすらできなくなった。
彼の機嫌を損ねると、待っているのは執拗な詰問だ。何時間も電話で問い詰められ、私が泣いて謝るまで、決して許してはくれない。その声は、普段の穏やかな彼からは想像もつかないほど冷たく、鋭く、私の心を深く抉った。
いつしか、私は奏の前で心から笑うことができなくなっていた。彼が喜ぶ「彼女」を演じ、彼の言葉に怯え、彼の機嫌を損ねないことだけを考えて生きるようになった。親友の沙羅には何度も「別れなよ」と言われた。自分でも、そうすべきだとわかっている。でも、できなかった。
もし、別れを切り出したら?
彼が激昂し、私に何をするかわからない。彼の粘着質で執拗な性格を考えると、ストーカーになったり、危害を加えられたりするかもしれない。その恐怖が、私をこの息苦しい檻の中に縛り付けていた。
そんな灰色の日々の中で、唯一、私が息をすることができた場所があった。それが、テニスサークルだった。奏は快く思っていなかったけれど、「運動不足解消のため」という建前で、なんとか続けることを許してもらっていた。
コートの上で無心にボールを追いかけている時間だけは、奏の監視から逃れられる。そして、そこにいる天羽玲央先輩の存在が、私の心を少しずつ溶かしていった。
玲央先輩は、奏が言うような「チャラくて不誠実な男」ではなかった。確かに見た目は派手だし、誰にでも気さくに話しかける。でも、彼の本質は、驚くほど優しくて、周りをよく見ている人だった。
練習で私がうまくいかずに落ち込んでいると、彼は「今のフォーム、惜しかったな! もうちょい腰を落とせば完璧じゃん?」と、決して否定しない言葉で励ましてくれる。サークル全体の雰囲気が悪くなれば、冗談を言って場を和ませる。彼の周りには、いつも自然と笑顔の輪ができていた。
ある日の練習後、自動販売機の前で彼と二人になった。
「美雨ちゃん、なんか最近元気なくない? 彼氏と喧嘩でもした?」
軽い口調で尋ねられ、心臓が跳ねた。奏とのことだと、すぐにわかったのだろうか。
「い、いえ! そんなことないです!」
慌てて否定する私を見て、玲央先輩は苦笑した。
「そっか。まあ、無理して話さなくていいけどさ。でも、あんたが笑ってないと、なんか調子狂うわ。サークルの太陽なんだからさ」
太陽、なんて言われたのは初めてだった。奏は私のことを「俺だけのミューズ」とか「守ってあげたい小鳥」とか言うけれど、それは彼の所有物としての呼び名だ。玲央先輩の言葉は、私の存在そのものを、ありのままに肯定してくれているように聞こえた。
その日を境に、私は玲央先輩の姿を目で追うようになっていた。彼の前では、気づくと自然に笑顔になっている自分がいた。奏といる時の、引きつった作り笑いとは違う、心からの笑顔。そのことに気づいた時、私はどうしようもなく悲しくなった。そして同時に、この温かい光をもっと浴びていたいと、心の底から願ってしまった。
運命が変わったのは、あの飲み会の夜だった。
奏にGPSでの監視を条件に、なんとか参加を許してもらったサークルの飲み会。楽しいはずのその場所で、私はテーブルの上のスマートフォンに釘付けになっていた。
五分おきに届く『今どこだ』『返信しろ』というメッセージ。画面が光るたびに、心臓が鷲掴みにされるような感覚に陥る。周りの楽しそうな声が、どんどん遠くなっていく。
そして、ついに奏からの着信が、静寂を求める私の耳にけたたましく鳴り響いた。血の気が引き、指先が冷たくなる。この電話に出なければ。出なければ、またあの詰問が始まる。
席を立とうとした私の腕を、誰かが掴んだ。玲央先輩だった。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
真剣な眼差しに、私は何も言えなくなる。彼が私のスマホを取り上げ、奏に電話をかけた時、私は恐怖で叫び出しそうだった。やめて、奏を刺激しないで。後で私が何をされるか……!
「俺なら、君をそんな顔にさせない」
電話を切った後、玲央先輩が私に告げた言葉。
その一言が、私の心をがんじがらめにしていた恐怖の鎖を、粉々に砕いてしまった。
涙が溢れた。この人の手を取れば、私は変われるかもしれない。この息の詰まる檻から、抜け出せるかもしれない。初めて、恐怖よりも「解放されたい」という願いが、強く心を支配した。
それからの私は、人が変わったようだったと思う。玲央先輩と、奏に隠れて連絡を取り合うようになった。最初は罪悪感でいっぱいだったけれど、彼と交わすメッセージは、私の乾ききった心に潤いを与えてくれた。
『奏とのこと、もう限界かも……。玲央先輩みたいに、優しくされたいな』
勇気を出してそう送った時、すぐに返ってきた彼の言葉。
『俺じゃダメかな。彼氏にするの』
画面が滲んで、文字が読めなくなった。こんな私でも、幸せになっていいのだろうか。奏を裏切るという罪を犯してでも、自分の人生を取り戻したい。そう、強く思った。
そして、私たちは約束をした。彼の部屋で、誰にも邪魔されずに会うことを。
それが、奏との関係を終わらせるための儀式になることは、わかっていた。奏は必ずGPSを見て、ここに乗り込んでくるだろう。そうなればもう、後戻りはできない。それが、怖くて逃げ続けてきた私にできる、唯一の決意の示し方だった。
玲央先輩の部屋は、彼の人柄を表すように、少し散らかっているけれど、温かくて居心地が良かった。彼は私を無理に口説くことも、体に触れることもしなかった。ただ、ソファに座る私の隣で、静かに話を聞いてくれた。
「全部、終わらせような」
彼が私の手を握ってくれた時、玄関のドアが激しく叩かれた。
来た。
私は恐怖で震えるどころか、むしろ不思議なくらい冷静だった。これで、終わる。終わらせられる。
ドアを開けた玲央先輩の向こうに、鬼の形相の奏が見えた。彼は私を見て、絶望と怒りに顔を歪めている。
「やめて、奏」
私は、彼の前に立ちはだかった。もう、怯えたままの私じゃない。
「私が、望んだことだから」
自分の口から出た言葉の力強さに、自分でも驚いた。そうだ、これは私の意志だ。誰かに唆されたわけじゃない。
「あなたとの関係は、もう終わり。別れてください」
奏が何か叫んでいる。愛してるとか、裏切りだとか。でも、その言葉はもう、私の心には響かなかった。
「あなたのそれは、愛じゃない。ただの支配欲と独占欲だよ」
今までずっと言えなかった、心の叫び。一度口に出したら、堰を切ったように言葉が溢れ出してきた。彼との日々の息苦しさ。笑顔を許されなかった悲しみ。
「玲央先輩は、違った。彼は、私が笑っていると、一緒に笑ってくれた」
隣に立つ玲央先輩の体温を感じる。彼が、私の最後の砦だった。
「だから、私は玲央先輩を選んだの。自分の意志で」
私の言葉に、奏は完全に言葉を失っていた。彼が信じていた「完璧な世界」が崩壊していくのを、私はただ静かに見つめていた。
「やっと……これで、解放される……」
涙が頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。長年の呪いが解け、やっと自由になれた、安堵の涙だった。
奏が、力なくその場を去っていく。バタン、と閉ざされたドアの音が、古い世界の終わりと、新しい世界の始まりを告げていた。
静寂が戻った部屋で、玲央先輩が私を優しく抱きしめてくれた。彼の腕の中は、温かくて、安心できて、もうどこにも鎖の音は聞こえなかった。
私はこれから、自分の着たい服を着て、会いたい友人に会って、心の底から笑うのだ。そして、私を「私」として愛してくれる人の隣で、本当の人生を歩んでいく。
偽りの空が描かれた、息苦しい檻の中の日々は、もう終わったのだ。




