第三話 浮気現場に突撃したら「やっと解放される」って泣かれたんだが? え、どういうこと?
あの夜、玲央に電話を横取りされて以来、俺の世界は少しずつ、しかし確実に軋みを立て始めていた。
電話口で玲央に「気分が悪い」とまで言われた屈辱。そして、その電話を切った後の美雨の態度。俺が鬼のような形相で電話をかけ直しても、彼女は一度も出なかった。LINEを送っても、返ってくるのは『もうすぐ帰るから』という素っ気ない定型文だけ。
深夜、帰宅した美雨に電話で問い詰めても、彼女は「疲れてるから」の一点張りで、俺の怒りを暖簾に腕押しといった様子で受け流すだけだった。以前のように泣いて謝罪することも、怯えた声を出すこともない。まるで、厚い氷の壁に覆われてしまったかのようだった。
何かがおかしい。
俺の完璧だったはずの美雨が、俺の知らないところで、何者かに変えられてしまった。その元凶が天羽玲央であることは、火を見るより明らかだった。
疑念は、一度芽生えると、毒草のように心を蝕んでいく。
美雨の行動すべてが怪しく見えた。スマホを触っているだけで、玲央と連絡を取り合っているのではないかと疑い、講義で少し帰りが遅くなっただけで、どこかで密会しているのではないかと邪推した。
俺の束縛は、以前にも増して執拗なものになっていった。美雨のスマホにGPS追跡アプリを半ば強制的にインストールさせ、彼女の行動を24時間監視するようになった。彼女がどこで、誰と、何をしているのか。そのすべてを把握しなければ、俺は安心できなかった。
「奏、これ、異常だよ……」
ある日、美雨が力ない声で訴えてきた。
「異常? 何がだ。愛する恋人がどこにいるか知りたいと思うのは、当然の感情だろう」
「でも、これは監視じゃない。私、奏の奴隷じゃないんだよ」
「なんだと?」
俺が睨みつけると、美雨は怯むことなく、まっすぐに俺を見返してきた。その瞳には、かつての怯えの色はなかった。代わりに宿っていたのは、冷たい諦観と、確固たる意志の色だった。
「俺に逆らうのか? あの男に唆されたのか?」
「……もう、疲れたの」
美雨はそう呟くと、それ以上何も言わずに部屋を出て行ってしまった。追いかけようとしたが、なぜか足が動かなかった。彼女のあの目に、俺は初めて、本能的な恐怖を感じていた。
俺たちの関係を繋ぎとめていたはずの鎖が、錆びついて、今にも切れそうになっている。その焦りが、俺をさらなる凶行へと駆り立てた。
その日の深夜、俺はついに禁断の果実に手を出した。
美雨が眠っている隙を見計らい、彼女の部屋に忍び込み、枕元で充電されていたスマホを盗み出したのだ。指紋認証は彼女が眠っている間に解除した。パスコードは俺の誕生日に設定されていることを、俺は知っている。
震える指でLINEのアプリを開く。トーク履歴をスクロールしていくと、俺の心臓は凍りついた。
『天羽玲央』
その名前が、トークリストの上位に固定されていた。恐る恐るその画面をタップする。そこには、俺の知らない美雨がいた。
『玲央先輩、今日もありがとう。先輩と話してると、すごく元気が出る』
『俺もだよ、美雨ちゃん。美雨ちゃんの笑顔が見れるなら、いくらでも話聞くって』
『奏とのこと、もう限界かも……。玲央先輩みたいに、優しくされたいな』
『俺じゃダメかな。彼氏にするの』
『……考えても、いいですか?』
スクロールする指が止まらない。そこには、俺への不満、玲央への思慕、そして、二人の関係が徐々に深まっていく生々しい記録が、克明に記されていた。
そして、俺は決定的なメッセージを見つけてしまった。
『明日の放課後、俺の部屋に来ない? 誰にも邪魔されないところで、ゆっくり話そう』
玲央からの誘いのメッセージ。そして、それに対する美雨の返信。
『はい。行きます』
頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
裏切り。紛れもない、裏切りだ。俺が全身全霊で愛を注いできた彼女が、俺を裏切り、あの不誠実な男と体を重ねようとしている。
許せない。許せるはずがない。
この裏切り者たちには、相応の罰を与えなければならない。社会的に、精神的に、再起不能になるまで叩きのめしてやる。
俺は美雨のスマホを元の場所に戻すと、静かに部屋を後にした。復讐の計画が、頭の中で渦を巻いていた。
翌日の放課後。
俺はGPSアプリで、美雨の位置情報が玲央のアパートで停止したのを確認すると、タクシーを拾い、その住所へと向かった。震える手でスマホを握りしめながら、頭の中ではこれから繰り広げられるであろう修羅場のシミュレーションを繰り返す。
ドアを蹴破り、抱き合っているであろう二人を引き剥がし、玲央を殴りつける。そして、泣きながら許しを乞う美雨を罵倒し、その不貞を友人や大学中に言いふらしてやる。二人がこの街で、二度と顔を上げて歩けないようにしてやるのだ。
目的のアパートに着くと、俺はインターホンも鳴らさずに、乱暴にドアノブを回した。鍵がかかっている。当たり前だ。密会しているのだから。
「開けろ! 美雨! そこにいるのはわかってるんだぞ!」
ドアを叩きつけながら怒鳴る。数秒の沈黙の後、ガチャリと鍵が開く音がした。
「やっぱり来たんだ、奏」
ドアを開けたのは、玲央だった。Tシャツにスウェットというラフな格好で、少しも悪びれる様子もなく、俺を冷静に見下ろしている。その背後には、部屋着姿の美雨が立っていた。髪は少し乱れ、頬は上気しているように見える。最悪の想像が、現実のものとなったことを悟った。
「てめぇ……! 俺の美雨に何しやがった!」
俺は怒りに任せて玲央に掴みかかろうとした。だが、その腕は、意外な人物によって制された。
「やめて、奏」
美雨だった。彼女は俺と玲央の間に割って入ると、俺の腕を掴み、まっすぐに俺の目を見つめてきた。
「私が、望んだことだから」
「……は?」
何を言っているんだ、こいつは。騙されているんだ。この男に、いいように言いくるめられて、無理やり……。
「騙されるな、美雨! こいつはお前を弄んでいるだけだ! 目を覚ませ!」
「騙されてなんかない。私は、自分の意志でここに来たの」
美雨の言葉は、驚くほどはっきりとしていた。
「奏、あなたとの関係は、もう終わり。別れてください」
別れる? 終わり? なぜ? 俺はこんなにもお前を愛しているのに。お前を守るために、すべてを捧げてきたのに。
「ふざけるな! 俺がお前をどれだけ愛してるか、わかってるのか!?」
「愛してる……? あなたのそれは、愛じゃない。ただの支配欲と独占欲だよ」
美雨の声は、氷のように冷たかった。
「毎朝のモーニングコールも、服装のチェックも、GPSでの監視も……全部、息が詰まりそうだった。あなたの言う『愛』は、私にとっては息苦しい檻でしかなかったの」
「違う! 俺は、お前を守りたかっただけで……!」
「守る? 誰から? あなたが作った、架空の敵から? 私が他の誰かと楽しそうに話すだけで、あなたは鬼の形相で私を責め立てた。私が笑顔でいることを、あなたは許してくれなかったじゃない!」
美雨の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。だが、それは俺が今まで見てきた、怯えや謝罪の涙ではなかった。
「玲央先輩は、違った。彼は、私が笑っていると、一緒に笑ってくれた。私が辛い時は、無理に聞き出そうとしないで、ただ隣にいてくれた。私が私でいることを、肯定してくれたの」
玲央が、そっと美雨の肩に手を置いた。美雨は、その手に寄り添うように、身を寄せた。俺の目の前で、俺の知らない二人の世界が完成していく。
「だから、私は玲央先輩を選んだの。自分の意志で」
「……っ!」
言葉が出なかった。俺が信じてきた愛。俺が築き上げてきた完璧な世界。そのすべてが、音を立てて崩れ落ちていく。
俺は、彼女を愛していたんじゃない。自分の理想の恋人という偶像を、彼女に押し付けていただけだったのか。彼女の苦しみに、絶望に、まったく気づかずに。
「やっと……これで、解放される……」
美雨は、泣きながら、そう言った。
その顔は、悲しんでいるようで、でも、どこか安堵しているようにも見えた。まるで、長年の重荷から、ようやく解き放たれたかのように。
浮気現場に乗り込み、裏切り者を断罪するはずだった。泣いて許しを乞う二人を、高みから見下ろすはずだった。
だが、現実はどうだ。
俺は、ただ一人、呆然と立ち尽くしているだけ。
彼女にとって、俺との別れは悲劇ではなく、解放だった。俺という存在そのものが、彼女を苦しめる呪いだったのだ。
俺の信じていた正義が、愛が、根底から覆された瞬間だった。
復讐の炎は、行き場を失い、代わりに冷たい絶望が、俺の心を支配していった。




