第二話 彼女のスマホに知らない男からの通知。まあ、サークルの連絡だろうけど一応釘は刺しておくか
あの一件以来、美雨は目に見えて従順になった。俺の言うことには素直に頷き、俺の決めたルールを忠実に守るようになった。俺が「今日はパンツスタイルにして」と言えば文句も言わず着替え、「帰りは駅まで迎えに行くから待っていろ」と命じれば、たとえ雨の日でも健気に改札の前で立ち尽くしている。
完璧だ。これこそが俺の理想とする恋人関係だった。俺が彼女を導き、彼女は俺の愛に守られて安心してついてくる。先日、校舎裏で彼女を問い詰めたのは正解だったのだ。多少の痛みや恐怖を伴ってでも、道を誤りそうになった恋人を正しい方向へ引き戻してやるのが、本当の優しさというものだろう。
「奏、今日の講義、終わった?」
昼休み、いつもの学食の窓際席。俺が席に着くと、向かいに座っていた美雨が、読んでいた文庫本に栞を挟んで顔を上げた。その表情は穏やかだが、どこか影があるように見える。きっと、先日のことをまだ反省しているのだろう。健気なやつめ。
「ああ、終わった。美雨、今日の午後、サークルに行くのか?」
俺が尋ねると、美雨の肩が微かにこわばった。
「う、うん。今日は練習日だから……」
「……そうか」
正直、面白くない。あの天羽玲央とかいう害虫がいる場所に、俺の美雨を行かせたくはない。いっそ辞めさせてしまおうかとも考えたが、それを言うと美雨が悲しむだろう。友人関係を完全に断ち切らせるのは、さすがにやり過ぎかもしれない。俺はそこまで独裁的な男ではない。あくまで、彼女を守りたいだけなのだ。
「終わったらすぐに連絡しろよ。絶対に寄り道するな。サークルのメンバーとの飲み会なんてもってのほかだ。わかってるな?」
「うん、わかってる。終わったら、すぐに奏のところに電話するから」
「よろしい」
俺は満足して頷くと、テーブルの上に無造作に置かれていた美雨のスマートフォンに手を伸ばした。美雨が「あっ」と小さな声を漏らすが、俺は気にしない。
「どれ、変な連絡が来てないかチェックしてやる」
これは、あの日以来、俺が自分に課した新しい日課だった。彼女の交友関係を俺が完全に把握し、危険な芽を事前に摘み取る。すべては美雨を守るための行為だ。
「奏、やめて……」
「なんでだ? 俺に見られて困るようなものでもあるのか?」
冷たく言い放つと、美雨は唇を噛んで俯いた。ほら見ろ。少しでも油断すると、彼女はすぐに悪い方向に流されてしまう。俺がこうして手綱をしっかりと握っておいてやらねば。
LINEの通知をスクロールする。親友だという花菱沙羅からの他愛ないやりとり。大学のグループ連絡。そして、一番上に表示されている『テニスサークル2年』のグループチャット。俺は眉をひそめながらそのトーク画面を開いた。
『今日の練習後、急だけど駅前の鳥貴族で飲み会やりまーす! 参加できる人スタンプよろしく!』
発言者は、天羽玲央だった。
その名前を見ただけで、腹の底が黒い感情で満たされていく。チャラチャラした文章。馴れ馴れしいスタンプ。こいつは、この飲み会をダシにして、また美雨に近づこうとしているに違いない。
幸い、美雨はそのメッセージを既読スルーしていた。どうやら俺との約束を守る気でいるらしい。少しだけ安心したが、それでも釘を刺しておく必要はあった。
「美雨」
俺はスマホの画面を彼女に見せつける。
「なんだ、これは。飲み会だと? 行かないだろうな」
「行かないよ! 約束したじゃない。練習が終わったら、まっすぐ帰る」
「……本当だろうな。もし嘘をついていたらどうなるか、わかってるよな?」
俺が凄むと、美雨は青い顔でこくこくと何度も頷いた。その怯えた瞳が、俺の支配欲を心地よく満たしていく。
「いい子だ」
俺はスマホを返してやり、彼女の頭を優しく撫でた。美雨はビクッと体を震わせたが、抵抗はしなかった。
「なぁ、朔。恋人同士なら、相手のスマホをチェックするのって普通だよな?」
講義の合間、俺は唯一の友人と言える月白朔に尋ねた。朔は、いつも通り何を考えているのかわからない飄々とした表情で、手元の専門書から顔を上げた。
「さあな。俺は彼女いたことないから知らん」
「だよな。でも、考えてみろよ。愛してるからこそ、相手のすべてを知りたいし、守ってやりたい。そのためには、多少のプライバシーに踏み込むのだって当然の権利だと思うんだ」
「奏の『守る』は、檻に閉じ込めるのと同義に聞こえるけどな」
「なんだよそれ。俺は美雨を思ってやってることだぞ。現に、俺が厳しく管理するようになってから、美雨は他の男の影もなくなったし、俺だけを見てくれるようになった。完璧な関係なんだよ」
俺が熱弁すると、朔はふっと息を漏らし、興味を失ったように再び本に視線を落とした。
「お前がそう思うなら、それでいいんじゃないか。俺には関係ない」
その冷ややかな態度に少しむっとしたが、まあいい。恋愛経験のない朔には、俺のこの深い愛情は理解できないのだろう。俺と美雨の世界は、誰にも理解されなくていい。二人だけの、聖域なのだから。
*
「……で、またスマホ見られたってわけ? 最悪じゃん」
テニスサークルの練習後、更衣室で着替えをしながら、親友の沙羅は呆れ果てたように言った。私、雨宮美雨は、力なく頷くことしかできない。
「LINEのグループトークまで開かれて……玲央先輩が飲み会の告知したの、見られちゃった」
「うわー……。で、また脅されたの?『嘘ついたらどうなるかわかってるよな』って?」
沙羅が奏の口調を真似る。それが恐ろしいほど似ていて、私は思わず身をすくめた。
「なんでわかったの……?」
「あいつのレパートリーなんてそんなもんでしょ。ていうか美雨、あんた本当にそれでいいの? あれは愛情じゃなくてただの支配だよ。DVと一緒だって、何回言えばわかるの」
沙羅の言うことは、痛いほどわかっている。奏との関係は、もうとっくの昔に破綻している。彼が『愛してる』と言うたびに、私の心は冷たく凍りついていく。彼の『優しさ』に触れられるたびに、鳥肌が立つのを必死で堪えている。
別れたい。心の底から、そう願っている。でも。
「もし、別れるって言ったら……何されるかわからないもん……」
奏は、私が少しでも彼の意に沿わない行動をすると、人が変わったように激昂する。あの校舎裏での一件以来、その恐怖は私の体に深く刻み込まれてしまった。彼を刺激することが、何よりも怖い。
「大丈夫だって! 私もついて行ってあげるし、いざとなったら警察呼べばいいんだよ!」
「そんな簡単なことじゃ……」
私が俯くと、沙羅は大きなため息をついた。
「はぁ……。まあ、あんたがそう言うなら仕方ないけどさ。でも、あんたの人生なんだよ? あの男の所有物じゃないんだからね」
沙羅の言葉が、ずしりと心に響く。
わかってる。わかっているけど、動けない。がんじがらめの鎖に繋がれて、一歩も踏み出す勇気がない。
そんな息の詰まる毎日の中で、唯一の光が、このテニスサークルだった。そして、そこにいる天羽玲央先輩の存在だった。
コートに出れば、奏の監視の目から逃れられる。ラケットを振ることに集中している間だけは、あの息苦しさを忘れられた。
「美雨ちゃん、ナイスショット! 今のバックハンド、めっちゃ綺麗に決まってたよ」
練習中、ネットの向こうから玲央先輩が親指を立てて笑いかけてくれる。その屈託のない笑顔を見ると、強張っていた心が少しだけ解けていく気がした。
奏は彼のことを「不誠実な屑」だと言うけれど、本当は全然違う。彼は誰にでも平等に優しくて、特に後輩の面倒見がいい。練習で悩んでいる子がいれば積極的に声をかけるし、場を盛り上げるのも上手い。奏のような、粘着質で独りよがりな優しさとは、まったく別物だった。
「顔色、悪いけど大丈夫? なんか悩み事?」
休憩中、スポーツドリンクを飲んでいると、隣に座った玲央先輩が心配そうに私の顔を覗き込んできた。奏以外の男の人にこんなに近くで顔を見られるなんて、久しぶりのことだった。
「だ、大丈夫です! ちょっと寝不足なだけで……」
慌てて取り繕う私に、玲央先輩は「そっか」とだけ言って、深くは追及してこなかった。でも、その瞳は、何かを察しているように見えた。
「無理すんなよ。なんかあったらいつでも話聞くからさ。俺、口は堅いのが取り柄だから」
そう言って、彼は悪戯っぽく笑った。その軽やかさに、なぜか救われたような気持ちになった。奏なら、「何があったんだ」「誰のせいだ」「全部話せ」と、私が壊れてしまうまで問い詰めてくるだろう。
玲央先輩は、違う。私が話したくないことには、踏み込んでこない。でも、いつでも受け止める準備があることを、さりげなく伝えてくれる。その距離感が、たまらなく心地よかった。
そして、運命の飲み会の日がやってきた。
奏には「絶対に一次会だけで帰る」「二十一時になったら必ず店を出る」と何度も念を押され、GPSで位置情報を共有することを条件に、なんとか参加の許可をもぎ取った。
「美雨ちゃん、参加できてよかったじゃん!」
居酒屋の賑やかな座敷で、玲央先輩がビールジョッキを片手に笑う。
「はい。なんとか……」
「彼氏さん、厳しいんだっけ? まあ、美雨ちゃんみたいに可愛い彼女だったら、心配になる気持ちもわかるけどなー」
からかうような口調だったが、その言葉に私の心はチクリと痛んだ。奏のは、心配なんかじゃない。ただの束縛だ。
飲み会は、サークルの仲間たちとの楽しい時間のはずなのに、私は少しも心から楽しむことができなかった。テーブルの上に置いたスマホの画面が光るたびに、心臓が跳ね上がる。
『今どこだ』
『誰といるんだ。隣は男か?』
『店の名前と、周りの人間の顔がわかる写真を送れ』
『なんで返信しないんだ』
『電話に出ろ』
LNEの通知が、呪いの言葉のように次々と画面を埋め尽くしていく。時刻はまだ二十時半。約束の時間まで、あと三十分もあるというのに。
ブーッ、ブーッ、とテーブルの上のスマホが狂ったように振動を始めた。着信画面には『夜凪奏』の四文字。
周りのみんなが楽しそうに談笑している中で、私だけが血の気を失っていくのがわかった。
「ご、ごめん、ちょっと電話……」
私は震える声で断って、席を立った。この電話に出なければ、後で何が待っているか。想像するだけで、全身の血が凍るようだった。
よろめくようにしてトイレに向かう廊下に出たところで、背後から腕を掴まれた。ビクッと振り返ると、そこにいたのは玲央先輩だった。
「大丈夫か? 顔、真っ青だぞ」
真剣な表情で、玲央先輩が私を見つめている。その手は、奏のように力任せではなく、でも、しっかりと私の腕を支えてくれていた。
「だ、大丈夫です……ちょっと、彼氏に連絡しないと……」
「……また、あの彼氏か」
玲央先輩は吐き捨てるように言うと、私の手から、まだ振動を続けているスマホを優しく取り上げた。そして、躊躇うことなく、緑色の通話ボタンをタップした。
「え、先輩、だめ……!」
私が止める間もなく、玲央先輩はスマホを自分の耳に当てる。
「もしもし、夜凪くん? サークルの先輩の天羽だけど」
彼の口調は、驚くほど落ち着いていた。
「ああ、そう。美雨ちゃん、今みんなと楽しんでるところだからさ。あんまり野暮な連絡してやんなよ。見てるこっちが気分悪いわ」
電話の向こうから、奏の怒鳴り声が微かに聞こえてくる。おそらく、想像を絶する罵詈雑言を浴びせられているのだろう。それなのに、玲央先輩は少しも動じていない。
「は? 関係あるに決まってんだろ。俺のかわいい後輩が、お前のせいで青い顔してんだよ。いい加減にしろ」
玲央先輩はそれだけ言うと、一方的に通話を終了し、赤いボタンを押した。そして、呆然と立ち尽くす私に、スマホを返してくれた。
「ごめんな、勝手なことして。でも、見てられなかった」
静かな廊下に、彼の声が響く。さっきまでの軽薄な雰囲気はどこにもなく、その瞳はまっすぐに私を射抜いていた。
「俺なら」
彼は、一歩、私に近づいた。
「俺なら、君をそんな顔にさせない」
その言葉は、雷のように私の心を撃ち抜いた。
奏とは違う。力で縛り付けるのではなく、ただ、守ってくれるような、力強い優しさ。私がずっと心のどこかで渇望していたもの。
檻の中から、一筋の光が差し込んだような気がした。
この人の手を取れば、私はこの息苦しい牢獄から抜け出せるのかもしれない。
私の心の中で、何かが音を立てて砕け散った。それは、奏への恐怖心か、それとも、諦めという名の最後の枷だったのか。自分でも、よくわからなかった。




