第一話 俺の完璧な彼女(ミューズ)は、今日も俺だけを見て微笑む
スマートフォンのアラームが鳴り響くよりも一瞬早く、優しい振動が枕を揺らした。画面に表示された名前は『愛しの美雨』。俺は眠い目をこすりながら、通話ボタンをスライドさせた。
「もしもし、奏? おはよう」
鼓膜をくすぐる、鈴の音のように可憐な声。それだけで、俺の意識は完全に覚醒する。
「おはよう、美雨。今日もありがとう」
「ううん、奏がちゃんと起きられるようにするのは、彼女の役目だから」
電話の向こうで、美雨がはにかむ気配がした。ああ、なんて健気で可愛いんだろう。この毎朝のモーニングコールは、俺たちが付き合い始めてからずっと続いている、二人だけの神聖な儀式だ。彼女の一日は、俺を起こすことから始まる。そして俺の一日も、彼女の声を聞くことから始まる。完璧な関係。俺は心からの幸福を噛み締めた。
「今日の服、決まった? 写真送って」
「うん、もう着替えたよ。ちょっと待ってて」
数秒後、LINEに新着通知が届く。トーク画面に表示されたのは、白いブラウスに淡い花柄のスカートを合わせた美雨の姿だった。鏡の前で少し照れたように微笑む彼女は、まるで絵画から抜け出してきた妖精のようだ。俺の彼女は、本当に世界で一番可愛い。
でも、少しだけ気になる点があった。
「美雨、そのスカート、少し短くないか?」
「え? そうかな……膝が隠れるくらいの丈だよ?」
「だめだ。他の男にいやらしい目で見られたらどうするんだ。俺は心配なんだよ」
「……わかった。じゃあ、こっちのパンツスタイルにするね」
すぐに送られてきた二枚目の写真。ベージュのワイドパンツに、先ほどと同じブラウス。うん、これなら安心だ。肌の露出も少ないし、体のラインも強調されない。
「うん、そっちのほうがずっといい。すごく似合ってる」
「本当? よかった」
電話口の声が、心なしか沈んだように聞こえたのは気のせいだろう。きっと、俺が真剣に心配していることが伝わって、少し緊張しただけだ。俺がこうして彼女の服装にまで口を出すのは、すべて彼女を愛しているから。他の不純な視線から、俺の美しい美雨を守るためだ。彼女もきっと、その深い愛情を理解してくれているはずだ。
「じゃあ、お昼はいつも通り、学食の中庭が見える窓際の席で」
「うん、わかった。また後でね」
「ああ、愛してるよ、美雨」
「……うん、私も」
少しの間があった気がしたが、きっと照れているんだろう。付き合って一年が経つのに、未だに初々しい反応を見せてくれる彼女が、愛しくてたまらなかった。
大学のキャンパスは、初夏の気配を帯びた学生たちの活気で満ちていた。俺は文学部の講義を終え、経済学部の校舎へと続くレンガ敷きの小道を早足で歩く。美雨は俺より三十分早く講義が終わっているはずだ。いつもなら、俺たちの指定席である学食の窓際で、文庫本を読みながら俺を待っていてくれる。
今日もきっと、少し寂しげな顔で俺の姿を探しているに違いない。そう思うと、自然と口元が緩んだ。彼女が俺以外の誰かに心を許す隙なんて、一秒たりとも与えてはいけない。それが、恋人である俺の義務であり、権利なのだ。
学食のガラス張りの壁の向こう、見慣れた席に美雨の姿はなかった。
一瞬、心臓が冷たい手で掴まれたような感覚に陥る。どこに行ったんだ? トイレか? それとも、俺との約束を忘れたのか? いや、そんなはずはない。美雨が俺との約束を破るなんて、絶対にありえない。
焦燥に駆られながら辺りを見回すと、学食の入口近くにあるテラス席で、見慣れた後ろ姿を見つけた。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、俺の表情はすぐに凍りついた。
美雨は一人ではなかった。彼女の向かいに、男が座っている。
金に近い明るい茶髪に、耳にはピアス。サイズの合っていないような派手な柄シャツを気崩し、やけに馴れ馴れしい仕草で美雨に話しかけている。
天羽玲央。美雨が所属しているテニスサークルの先輩だ。チャラチャラとした見た目と、誰にでも軽薄な態度をとるその男を、俺は心の底から軽蔑していた。
なぜ、美雨が、あんな男と。
しかも、何だあの顔は。俺といる時には見せないような、弾けるような笑顔。楽しそうに声を立てて笑い、身を乗り出して玲央の話に聞き入っている。
俺の完璧なミューズが、得体の知れない道化師に汚されていく。その光景は、俺の腹の底から、どす黒い嫉妬の溶岩を噴出させた。
俺は足音も荒く二人のテーブルに近づくと、何も言わずに美雨の腕を掴んだ。
「えっ、奏? どうしたの……?」
驚いて俺を見上げる美雨の顔。その隣で、玲央が胡散臭い笑みを浮かべて俺を見ていた。
「あれ、夜凪くんじゃん。お迎え? 美雨ちゃん、今日のサーブめっちゃ良かったよな」
馴れ馴れしく話しかけてくる玲央を完全に無視し、俺は掴んだ腕に力を込めて美雨を立たせる。
「行くぞ」
「ちょ、ちょっと待って、奏! 玲央先輩、ごめんなさい、また今度!」
美雨が慌てて玲央に声をかける。その「また今度」という言葉が、俺の逆鱗にさらに触れた。二度と会わせるものか。
俺は美雨の返事も聞かず、ほとんど引きずるようにしてその場を離れた。背後から玲央の「おい、ちょっと!」という声が聞こえたが、振り返ることはしなかった。
学食を出て、人通りの少ない校舎裏まで来ると、俺はようやく足を止めた。
「痛いよ、奏……」
腕を掴まれたまま、美雨が怯えたような声で呟く。俺はハッとして力を緩めたが、心の怒りは収まらない。
「なんであんな男と一緒にいたんだ」
「玲央先輩は、サークルの先輩で……。今日の練習のこととか、話してただけで」
「話す必要なんかないだろう。あいつがどんな男か、お前だってわかってるはずだ。見るからに不誠実で、女なら誰にでも声をかけるような屑だ」
「そんなことないよ! 先輩は、みんなに優しいだけで……」
「優しい? あれが優しさに見えるのか? 下心見え見えの顔で、お前に近づいてきてただけだろうが! なんでそれがわからないんだ!」
俺が声を荒らげると、美雨はビクッと肩を震わせ、俯いてしまった。そのか細い肩が、小刻みに震えている。
しまった、少し強く言い過ぎたか。でも、これも全部、純粋で騙されやすい美雨のためなんだ。俺がこうして守ってやらなければ、彼女はすぐに悪い虫に食い物にされてしまう。
俺は大きく息を吸い込むと、努めて優しい声を作った。
「ごめん、大きな声を出して。でも、俺は心配なんだ。美雨のことが好きだから、他の男に取られたくない。わかるだろ?」
そう言って彼女の肩を抱き寄せると、美雨はこくりと小さく頷いた。やっぱり、彼女は俺の気持ちをわかってくれる。俺の腕の中で、彼女は素直に反省しているようだ。
「もう、俺に黙って他の男と二人で会ったりしないでくれ。約束だ」
「……うん」
「返事は?」
「……はい。ごめんなさい」
か細い声での謝罪。それで十分だった。俺は満足して彼女の頭を優しく撫でる。これでいい。これで、俺たちの完璧な世界は守られたんだ。
その日の夜。
俺は自室のベッドに寝転がりながら、今日の出来事を反芻していた。昼間は美雨の涙(に見えた表情)を見て一度は満足したものの、時間が経つにつれて、再びあの光景が脳裏に蘇ってくる。
美雨が、あの天羽玲央に向けていた笑顔。
あれは、一体なんだったんだ? 俺には決して見せない、心からの笑顔。そう見えたのは、俺の気のせいか? いや、断じて気のせいなどではない。
考えれば考えるほど、腹の底が煮えくり返るような感覚に襲われる。俺という絶対的な恋人がいながら、他の男にあんな顔を見せるなんて。それは裏切りじゃないのか?
昼間の謝罪は、本心からのものだったのだろうか。あの場を収めるためだけの、口先だけの謝罪だったのではないか。疑念が疑念を呼び、俺はいてもたってもいられなくなった。
俺はスマホを手に取り、通話履歴から『愛しの美雨』をタップした。数回のコールの後、少し掠れた声が応える。
「もしもし……奏?」
「俺だ。今、何してた?」
「え? 別に……もう寝ようかなって……」
「嘘つくな。声が違う。誰かと話してたのか?」
「話してないよ! 本当に! ちょっと、本を読んでただけ……」
嘘だ。絶対に何か隠している。俺は確信に近い思いで、本題を切り出した。
「昼間のことだ。あの男と、何を話してたんだ。具体的に教えろ」
「だから、サークルの話だって言ったじゃない……」
「サークルの話だけで、あんなに楽しそうに笑うのか? おかしいだろ。他に何を話した? 俺の悪口でも言ってたのか? それとも、あいつがお前を口説いてたのか?」
矢継ぎ早に問い詰めると、電話の向こうで美雨が息を呑む気配がした。図星か。
「違う……そんなこと……」
「じゃあなんだ! はっきり言えよ! お前、俺に何か隠してるだろ! 正直に言えば許してやるから、全部話せ!」
俺の語気が強くなるにつれて、電話の向こうから、くぐもった声が聞こえ始めた。すすり泣く声だ。
「……っ……う……」
「なんで泣くんだよ。泣けば済むと思ってるのか? 俺は真実が知りたいだけなんだ」
「ごめ……なさ……っ……」
「何に謝ってるんだ。ちゃんと説明しろ、美雨!」
「もう……あんなふうに、話したりしないから……ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
嗚咽交じりに、美雨は何度も謝罪の言葉を繰り返した。男と親しく話したこと。俺に心配をかけたこと。そのすべてを後悔し、泣いて許しを乞うている。
その弱々しい声を聞いているうちに、俺の中で燃え上がっていた嫉妬の炎は、ゆっくりと鎮まっていった。そうだ、これでいい。彼女は俺の知らないところで他の男と笑顔を交わしたことを、こんなにも後悔しているじゃないか。彼女が一番愛しているのは、他の誰でもない、この俺なんだ。
「……わかった。もういい」
俺は、慈悲深い神のような口調で言った。
「もう二度と、俺を不安にさせるようなことはするな。いいね?」
「……はい……っ」
「お前のことを世界で一番愛してるのは、俺だけなんだからな。それを忘れるなよ」
「……うん……」
「じゃあ、もう寝ろ。おやすみ」
一方的に電話を切ると、俺は大きく息を吐いた。手の中のスマートフォンは、少し汗ばんでいる。
少しやり過ぎたかもしれない。だが、これも愛の鞭だ。時々こうして厳しく接することで、二人の絆はより一層強固なものになる。彼女も、俺の深い愛情を再確認できたはずだ。
俺はベッドに身を投げ出し、天井を見上げた。心はすっかり満たされていた。これで明日からもまた、俺と美雨の完璧な日常が続いていく。
俺の腕の中でしか生きられない、可憐な小鳥。それが雨宮美雨だ。俺は満足のため息をつき、ゆっくりと目を閉じた。
その時、奏の腕の中で啜り泣いていたはずの雨宮美雨が、自室のベッドの上で静かに涙を拭い、スマートフォンの画面をタップしていたことなど、彼は知る由もなかった。
『沙羅へ:もう限界かもしれない』
親友である花菱沙羅に送られたその短いメッセージは、奏の知らないところで、歪んだ愛の檻に、静かな亀裂が入った瞬間を告げていた。




