第9話
王都・王城別棟の一室。昼下がりの光が石窓から斜めに差し込み、卓上の地図の端を白く洗っていた。戸口には侍女服の女がひとり。皿に載せた焼き菓子と水差しを音もなく置き、静かに頭を下げる――そして、内側から掛け金をおろし、カーテンの隙間を二指で確認してから、ようやく口を開いた。
「定時報告にございます」
いつもの「彼」ではなく、今日は見事に「彼女」。頬の丸み、足取りの重心、袖から覗く手の角度まで、平凡な侍女の所作が完璧だ。ダリウスとアーラは姿勢を正し、椅子の背もたれから腰を浮かせる。
ダリウスが簡潔に促す。
「遠乗りの一部始終、お願いする」
侍女は裾をわずかに持ち上げ、報告者の立ち位置に滑り込んだ。声は乾きすぎず、湿りすぎず、抑制の利いた中庸。
「まず、馬合わせから始まりました。牝馬の白砂。事前情報通り大人しい気質の名馬。殿下もロシュフォール侯爵令嬢も、首筋と肩の“安心所”を最小の圧で撫でるのが上手で、馬がすぐに呼吸を合わせました。馬の方から頬を擦り寄せる場面もあり、護衛の者が思わず頬の筋肉を緩める程度には、良い導入でした」
「良い導入、ね。なら、そのまま甘い方向へ――」
侍女は小さく咳払い。アーラが小首を傾げる。聞く限り良い入りだ。「また」何かやらかしたのかと、小さな不安が浮かぶ。
「そこからが、いけません。以降は軍の騎乗訓練と変わらず。馬上にて立つ・座る・半立ち、十回ずつ交互。手綱長の調整、鐙穴の確認、鞍の再締結、全て“最短手順”。動作は無駄がなく、声かけも簡潔で、間違いが一切ない……正確に申し上げると、私ども影の局の騎乗細則に照らしても満点です」
「満点、なのに、零点の顔して報告されてるのは何故なの」
「恋愛の基準票では、点が入らないからにございます」
アーラが額を押さえ、侍女は卓上に細い木簡を置いた。そこには端正な字で、時刻と行程が刻まれている。
「橋の上で手綱を結ぶ所作の再確認。ここが驚きでした。侯爵令嬢の手綱裁きが……その……馬寮勤めの者が拍手して採用したくなる水準で」
「……アメリーならやりかねない。文書だけで覚える人じゃないから」
「殿下の捌きも見事でございました。護衛の二名が“技術披露に対する礼節として”自発的に拍手を。問題は――」
「互いに褒めない……頷いて終わり、か」
「はい。実務の確認に終始」
ダリウスの言葉は真実を当てていた。もう慣れた。セイリオスとアメリ―のやり取りは本当に無駄が無い。政務や軍務なら良いけれど、婚約者同士のデートに完璧すぎる手順はいらない。余白は何処へ行った余白は。
侍女は一息。菓子皿の端の蜂蜜菓子を、禮を失さぬ範囲で指の先でずらし、言葉を続けた。
「出発後、二人乗り。殿下が前、侯爵令嬢が後。軽やかに草原を進む――ここまでは絵になります。が、速度が異常でした。風見堂の旗が一段階上がるほどの追い風があったにせよ、二人乗りで伝令兵並み。しかも体幹の崩れゼロ。馬体への負担、ゼロに限りなく近く。護衛の面々、必死で追走。水術士が途中で息を荒げ、弓の者が“殿下は風神に好かれている”と洩らしました」
「兄上は伝令兵ではないのだがな……二人乗りで疾走して、恋が追いつけないとは」
「ええと、その、恋心は風圧で飛ばされておりました」
「表現が鋭いわよ」
アーラが吹き出す。侍女は木簡の次の行を指す。
「目的の丘で昼餉。潮香米のお結び、琥珀大麦の薄餅、蜂蜜とチーズ。献立は温かみがございましたが、配置は野営の最短配置。敷物の四隅に風石、荷の展開は三十秒。食す間も会話は“塩の仕入れ先の安定化策”と“丘陵の風害対策”。行儀よく、手際よく、流れるように完了……休憩したのは護衛ばかりでございます」
「え、護衛の方が休んだの?」
思わずアーラの眉が上がる。当然だ、護衛が護衛対象を差し置いて休む等、本来ならば懲罰ものだ。
けれど侍女は、首を横に振る。それは無慈悲が過ぎると。
「あの速度で馬を走らせれば、普通は馬だけでなく乗り手も疲弊します。本来、護衛達に非はありませんよ。言ったでしょう、伝令兵並みだと。追走出来ただけ偉いのです。本当ならば……まあ、結果が許されないと言うのは解りますが」
酷い話である。二人乗りで疾風のように駆けるなんて誰も思わない。余程、馬の負担を減らす乗り方を維持しなければ実現しない、乗馬の腕だ。
侍女は語る。同情心たっぷりの表情で。
「殿下と侯爵令嬢は“護衛を待つ”ために丘の上で景色をご覧になり、その間にお二人は互いに護衛に向かって“すまない”“ごめんなさい”と、実に丁寧に謝罪を交わされました」
侍女は白いハンカチを取り出し、目頭に軽く当ててみせる。涙は出ていない。演技である。
「護衛の“居た堪れない”顔が、いまだに瞼に」
ダリウスは両手で顔を覆い、机に額をつけた。アーラも同じく。二人の額が木の板にゴンと、音を立てて同時に触れる。
「どうして……どうして毎度、軍務における完璧が、そのまま恋の点数に換算されないのよ……!」
「兄上の人生は等式で出来ているのかもしれない。未知の“余白項”を、まだ導入できていないのだ」
「それ、聞こえはいいけど要するに“恋の変数がゼロ”って意味でしょ」
「うむ」
ダリウスは頷いて……再び机に突っ伏す。頷いている場合では無いのだ。そもそもの作戦名は「キャッキャウフフ大作戦」だ。もっとイチャイチャして貰わねば困る。甘ったるいくらいの方がまだマシである。
どうすればいいのか思い悩み――侍女は、しかし、と小さく手を上げた。
「希望もございました。帰路の選択にて。出立直前、侯爵令嬢が自ら“違う帰り道”を提案。『行きとは別の景色を見たい』と。殿下は一瞬驚かれ——それから、笑って、『解った。婚約者殿』と」
「……言ったのね」
「呼称は相変わらず“婚約者殿”と“第一王子殿下”でしたが、その時に交わされた微笑は、無機質ではございませんでした。風の向きを確かめるような、ごく小さな、しかし正しい微笑」
アーラの声に安堵が混じる。ダリウスはゆっくりと顔を上げ、卓上の地図を見た。西の丘陵から城へ戻る道が幾筋も細い線で描かれている。彼は一本、巡礼路のほうへ伸びる線を指先でなぞった。
「余白の芽、か。小さくとも、本物なら育つ」
「育てるの。恋の炎じゃなくて、二人の“育てる愛”。わたし達は風除けと水やり。時々、日を当てる」
アーラの口元に柔らかな笑みが浮かぶ。
少しづつでもいい。育つものがあるなら、それを見守るだけ。風が吹けば囲いを作り、水が足りなければ水を撒く。
それだけでも「愛」は育つ。恋の種が無くても、開く花はきっとある。
侍女は軽く頷き、報告の末尾を綴じた。
「当面、遠見による見守りで良いと考えます。お二人は不器用ながらも距離を詰めておられる……ただし、近く“逃れられない催事”がございます」
その言葉に、ダリウスとアーラの視線が「王族と貴族」のものに変わる。
二人も解っている。そろそろ“そんな時期”だ。
ダリウスとアーラが同時に言った。
「夜会」
「はい。次節の夜会、出欠の札が各家に回り始めました。今回は国内貴族のみ。お二人が“婚約者同士として”出席なさるのは初。内情を知らなければ、無機質なご様子は“隙”と受け取られます。座を乱す者は出ましょう。席次の狙い、舞踏の申し込み、噂の流通……必ず動きがありましょう。内情を知らぬ者から見れば、挑戦は“合理”に見えてしまうので」
ダリウスとアーラは、同時に眉を顰める。反論したいが出来ない実情。不器用は、王族の恋愛において免罪符にならない。王族の仲睦まじさは、言動ではなく行動で示すのが義務だ。セイリオスとアメリ―は、その行動で国内に示す必要がある。
アーラが言葉を継ぐ。琥珀色の瞳を、鋭い公爵家の色に変えて。
「準備が要るわね。舞踏は“足”だけじゃない。言葉と視線の呼吸が要る」
「兄上の“呼吸”は、いまのうちに合わせ方を教える必要がある。盤上遊戯ではないが、数手先に“甘い手”を置く練習だ」
「衣装合わせと、舞踏の練習会を開きましょう。どの道避けられないことなのだし」
「日程を組んでおく。兄上も夜会の重要性は理解している。此方から誘えば快く参加してくれるだろう」
アーラとダリウスは手早く段取りを組む。無駄なく最短を決める。二人も、やろうと思えば隙の無い工程表を作れる。
影の局員は微笑し、侍女に戻った。皿の配置を整え、水差しに新しい水を足し、扉の掛け金にそっと触れる。
「詳細の策は別紙案にて次回。今は“近い”ことだけ、お伝えに。それと、個人的な感想をひとつだけ。今日、丘の上で。潮香米のお結びを口に運んだ侯爵令嬢が、ほんの一瞬だけ目を細めました。殿下はそれを見て、息を一つだけ、浅く吐いた――あれは、良い予兆です」
部屋に、しばし静けさが落ちた。外では車輪の音、遠い鍛冶の槌音。王都は今日も回っている。
ダリウスが立ち上がる。アーラが手のひらを軽く打ち合わせ、侍女に片目を瞑ってみせる。まだ余白が足りないのなら、今は見守り隊が手を貸そう。見守るだけで済むその日まで。
「やるべき事は、やる。夜会に向け、万端を」
「了解。見守り隊、続行。風は、こっちに吹いてる」
侍女は会釈し、扉を開ける前に、もう一度だけ部屋の全員を見た。目に映るのは、若い王と、公爵家の娘と、素性を偽る影。三者三様の決意が、同じ方向を向いている。
「では――次の報せまで」
扉が無音で閉じた。残された二人は、互いを見て、小さく笑った。苦い笑いではない。手間のかかる苗に朝露がついたのを見つけた、庭師たちの笑いだ。
夜会は近い。だが、焦らない。余白の芽は、いま確かに、光の方へ首を伸ばしていた。




