第7話(セイリオス side)
王都の修練場は、朝の冷え気が石畳から立ちのぼる時間をとうに過ぎ、金槌で叩いたような陽の白さが土埃を薄金色に染めていた。道場の塀越しに風見堂の旗が回り、ヴェントゥラの輪が影を落とす。号令、掛け声、木剣のぶつかる乾いた音、槍の柄が床を抉る鈍い音。水術師の見習いが桶の上で「癒しの雫」を繰り返し、小隊の弓手は風旗の揺れを読みながら射の離れを調整している。鉄の匂いと汗の匂いと、遠く麦湯の香ばしさ。
円形の稽古場の中央に、濃い蒼の全身鎧が一歩進んだ。鎧の青は海の色ではない、鍛えた鋼に夜明けの薄光を重ねたような、王国軍の古い染め色。『蒼き槍無双』。元辺境伯にして老将。家督は息子に譲り、今は王都で新兵を鍛え上げる、王国の矛。
槍の穂は稽古用に丸めてあるが、柄のしなりと重心は実戦そのもの。彼は軽く槍を一回転させて、脇に収めた。
「若、よろしいな」
「願う」
セイリオスは礼を簡潔に交わし、模造剣を肩に引いた。剣は芯に薄鉄を埋めた訓練用。殺さないための剣だが、殺すほどの力はある。彼の足はいつものように正対せず、半身。右足のつま先が砂に短い弧を描き、左足の踵は沈む。胸は静か、肩は落ち、視線は穂先ではなく老将の喉元と腰のつなぎ目に置かれている。退かずに受ける構え。
一拍。空気が静かに引き伸ばされる。
老将の初手はやさしくなかった。踏み込みひとつで間を潰し、穂先がまっすぐ腹を穿つ。突きの直前、槍の柄がほんの指幅だけ揺れ、狙いが半身の肋から臍へと滑る。狙いを読まれにくくする老練の小技。セイリオスは剣を叩きつけない。刃をわずかに傾け、穂先を撫で上げるように斜めへ「流す」。重さの軌跡だけを横へ滑らせ、同時に半身をずらして槍の線から肩を外す。後ろへは退かない。前に一歩。槍の間合いを剣の間合いに変えるための踏み込み——砂が小さく跳ねた。
「おおっ」
周囲から小さく息が漏れる。王都の兵たちは皆、その槍の初手に一度は肝を冷やしている。退いた瞬間、穂先は追ってくる。退かないのが正解と頭で分かっても、身体がそれを許さないのが常だ。それを十七の若さでやってのける王子を、彼らは誇りに思っている。
二の太刀。老将は穂先を止めず、柄を滑らせる。槍は引いて終わりではない。石突きが円弧を描いて跳ね上がり、セイリオスの右肩を打ちにくる。肩を取られれば、利き手が死ぬ。勝負はそこから瓦解する。セイリオスは胸を開かない。左足を軸に体を捻り、剣の腹で石突きを「迎え」、耳障りなきしみと共に軌道を一枚分ずらす。衝撃は受け止めない、流す。石突きが彼の肩を掠めた風が頬を撫で、髪の淡金が一筋跳ねた。
三手目で老将が槍を旋回、柄の長さ全てを使って側面からの払撃。それは槍ではなく棒術の理で、距離を間違えれば骨が折れる。セイリオスは足幅を半歩広げ、腰の落ちをわずかに深くし、払撃の根本側――力のない「柄の近く」に自分を滑り込ませた。剣が入り身で柄に絡む。短い火花と、木が軋む嫌な音。
「ほう」
老将の目が少し細くなる。槍の回転が止まらない。柄の回転を逆回転で殺し、石突きが再び肩を狙う。今度は速い。セイリオスは剣をかぶせる。耳に触るような甲高い悲鳴。次の瞬間、彼の剣身が、刀身の真ん中からぱきりと折れた。
静止。砂埃の粒が陽にきらめく。
セイリオスは折れた半身の剣を見下ろし、吐息で前髪を揺らしてから、苦笑。
「……しまったな。模造剣ということを忘れていた。すまない将軍。俺の負けだ」
老将は破顔して槍を肩に戻す。蒼い鎧がぎしりと鳴った。
「何を仰る、若。儂の槍を最後まで捌ける者がどれほど居るか。折ったのは剣であって、若の胆力ではないわ。――できれば儂の後釜を継いでもらいたいくらいだ」
「ははは……俺が王子じゃなければ、その選択もあったかもしれないな」
軽口に、周囲の兵がどっと笑う。笑いは敬愛の音色だ。どこかで誰かが手を叩き、別の誰かが口笛を吹いた。
二人は稽古場の縁に並んで腰を下ろし、皮袋から麦湯を飲む。琥珀大麦の香りが鼻に抜ける。遠巻きに新兵たちが木剣の型を繰り返し、教官が踵で砂をならす。水術師の見習いは傷薬の瓶を並べ、必要な兵に「癒しの雫」を垂らしていく。矢場では風見旗が二度揺れ、弓手がそれに合わせて射をずらした。
老将が喉を鳴らしてから言う。
「若が巡ってくれてから、街道沿いの斜陽狼〈ダスクウルフ〉は一段落だ。盗賊連中も活動が減少。例の群れ小鬼〈ゴブリン〉はどうだ?」
「明朝、討伐騎士団と合流して刈り番に入る。麦の刈り入れを一日早めたいとの要請だ。ヴェントゥラの追風祭で乾燥が進む見込みだそうだ。農の祭と兵の足並みは揃えねばならない」
「うむ。民の鍬は軍の刃と同じ価値よ」
老将は顎鬚を指先で撫で、視線だけ東南へ送る。ヴァルクス港の方角。
「……で、あの古戦場は?」
セイリオスの表情が少しだけ硬くなる。彼は慢心していない。勝てる戦でも、負けの芽を数える男だ。
ただ、表情が硬くなったのは別の理由。救われぬ魂の話。
「一昨日、死霊〈ワイト〉が三体。骸骨兵〈スケルトン〉が小隊規模。討伐は済んだ。だが一ヶ月もすれば同じ場所でまた立つ。……救えないというのは、苦い」
「悪意の術で生まれたものなら、光で焼き払えるがの。あれらは……“誰か”であった。昔の兵であった。救えぬものを斬るのは、歳を重ねても慣れん」
老将も頷く。彼は長い。若い兵がふざけ半分に骸骨を蹴ったのを見て殴り飛ばした経験を、幾度も持つ男だ。
王国の難敵。アンデッド系(スケルトン・ワイト・亡霊)の存在。遺跡・古戦場に出現するアンデットは退治しても、一定期間の後に復活し、また辺りを徘徊して被害をもたらす。一度討伐すれば1~2週間は姿を消すが……一か月もすれば、再び同じ場所で、無念と怨念を振りまく。
故に、定期的にアンデットの討伐に騎士団や軍が向かうのが常だ。長い年月で、救われず癒されず現世に縛り付けられた哀れな魂を討つ為に。
今も苦しむ死者の魂。彼らに安息の眠りを与えられる方法は、まだ見つかっていない。セイリオスと老将の顔に、慣れぬ痛みが浮かぶ。
セイリオスは麦湯を一口。喉が通ったあと、遠くの青空へ視線を逸らした。
「竜は?」
「近頃は山影に飛竜〈ワイバーン〉が一、二。大きいのは出ておらん。が――若が竜の角を折る姿を、儂は一度でいい、戦場で見たいものよ」
「戦はお遊びではないぞ、将軍」
「わかっておる。わかっておるが……戦でしか見えん“真の器”というものがある。若はそれを持っておる」
言葉は軽いが、声の底は真摯だ。セイリオスは目を細めて笑い返す。その笑みに、兵たちは安心する。王都周辺の魔物退治も賊討伐も、この男と行けば「帰って来られる」と彼らは信じている。人の命を預かる者に必要な、揺れない背筋。それを、彼は持っている。
けれど、今日のセイリオスの眉間には、戦の話とは別の“皺”がひと筋走っていた。老将は気づかぬふりをして、皮袋を渡し、促す。
「飲め」
「……将軍」
老将は長く生き、多くの若者を見て来た。故に悟る、目の前の王子もまた、人並みの悩みを抱えていると。
麦湯の香ばしさを感じながら、喉を潤す。セイリオスは少しの逡巡ののち、率直に言った。
「アメリ―嬢のことを考えていた。どうやれば、あの人と“愛”を育めるのか。国のためにも、俺自身のためにも、間違えたくない」
「儂は若と侯爵令嬢の逢瀬を詳しくは知らぬ。だが若は誘って、エスコートして、紳士の礼を尽くしておろう? 贈り物もしたと聞くぞ」
「ああ、ちゃんとネックレスを贈った。お互いに納得のいく結果だったと思う」
「うむうむ!」
老将はがははと笑って膝を叩いた。そして昔日の顔になった。若い頃、今の女房の気を引くのに心血を注いだ話がつらつらと出てくる。
「儂もな、あちこち連れ回したり、祭の夜店でひやかしたり、時には馬で遠乗りを――そうじゃ若! 馬で遠乗りはどうだ。街中の逢瀬では得られぬ“腹の底から笑う”思い出が作れる。令嬢を背に乗せ、草原を駆ける。風が二人の衣を一つにする。護衛は要る、だが要るからこそ“安全の中の自由”が生きる」
「馬で、遠乗り……いいな。王都西の段々田を抜け、草原を駆け、丘の上で昼をとる。女性を乗せるとなると、なるべく気性の穏やかな馬がいい」
「任せい」
セイリオスの目がほんの僅かに明るくなるのを見て、老将は胸を叩いた。蒼い胸甲がこつんと鳴る。
「儂の厩で〈白砂〉という牝馬が仔を離れたばかりでの、背は低いが体幹がよく、気も優しい。鞍は厚め、鐙は一つ穴を上げる。護衛は槍騎二、弓騎一、水術師一。数は多すぎぬ方が“気”を崩さん。道は西原の葦路を避け、風抜けの良い丘陵へ。昼餉は……お主が作るのはやめよ」
「……ぐ」
セイリオスは観念した顔で笑う。兵たちの間では「若の味付けは敵も味方も等しく沈黙する」と密かに囁かれている。味覚は正しいのに、何故か調味の手が壊滅的なのだ。完璧に見える王子殿下にも弱点はある。
兵たちはちゃんと解っている。セイリオスは温度を持った一人の人間だという事を。だからこそ信頼が生まれる。
「弁は大商郭の惣菜がよかろう。潮香米の握りと、琥珀大麦の薄餅、蜂蜜と熟成チーズ。甘さは必須だ。女は甘味で頬が解ける」
「助かる……頼んで良いか?」
「命じればよい」
老将は、王族だからという甘やかしではない笑みで、わずかに腰を傾けた。そこにあるのは純粋な信頼と、戦友に向ける親愛だ。彼は本気で、この若者が“王”の器であることを信じている。
稽古場の端で木剣の音がリズムを取り戻す。セイリオスは折れた模造剣を見下ろし、立ち上がった。
「将軍、もう一度お願いできるか。——今度は、刀身の限界を思い出しながら」
「望むところよ」
二度目の稽古は、さきほどよりもさらに実戦に近かった。老将は穂先の“見せ”を排し、無駄のない最短距離の打突を重ねる。セイリオスは退かず、しかし“退かないこと”に固執せず、機を見て斜め後ろへ一足だけ砂を払う。剣の面を使い、柄の返しを読む。老将の石突きが再び肩を狙い、今度は刃の腹で受けた瞬間に軸足を入れ替え、肩越しに回り込む。観客の兵の視界から王子の姿が一瞬消え、すぐ老将の死角へ現れる。剣先は喉には行かない。喉に行ける距離で止まる。その“止まる”が、兵の心を最も震わせた。
「よし!」
老将の顔が、獣のように愉悦で歪む。若い兵の歓声に混じって、老兵の喉の奥の唸りが低く響いた。血の匂いのしない戦い方——けれど、命を賭ける場の延長線上にある動き。訓練を真面目にしない者は、実戦で死ぬ。ここにいる者は、その当然を骨で知っている。
二度目の休憩。汗が鎧の縁から滴り、砂に濃い点をつける。セイリオスは息を整えながら、空を仰いだ。白い雲が一つ、風にほどける。
「……遠乗りの計画を立てよう」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。危ないところだ。計画と聞けば、彼はすべてを“完璧”にしたくなる。出発時刻、護衛の配置、昼餉の場所、馬の水分補給、風向き、帰還時刻――それは軍では正しい。しかし、愛においては“余白”が要る。
「余白を……忘れるな」
声に出す。老将が眉を上げる。
「若?」
「いや。自分への戒めだ」
セイリオスは笑って立ち上がった。稽古場の中央へ戻る背中は、いつも通りまっすぐで、しかしどこか軽くなっていた。老将はその背中を見送り、鼻を鳴らす。
「――うむ。良い火加減になってきた」
彼は心の中で、王都の窯焚きに使う言い回しを借りる。イグナリアの火舎の火は、鍛えるべき鉄を焼かず、温めるべき子を焦がさない。火が強すぎれば何もかも炭になる。弱すぎれば芯に通らない。今日の若は、そのあいだを掴みかけている。
稽古場の隅で、槍兵の一人が囁いた。
「若と侯爵令嬢、次はどこへ行くんだろうな」
「知らんが、きっと絵になる。王都の噂は甘い方がいい」
軍部は誰も知らない。二人の“無機質”を。彼らは当然のように信じている。王子は完璧で、その恋もまた甘く美しいと。流石にデートが軍事演習染みているとは夢にも思っていない。思える訳が無い。
そんな周囲の考えはいざ知らず、セイリオスは遠乗りの計画を、頭の中で組み立て始めていた。僅かな余白を添えて。
王国の秩序のためにも、王子自身のためにも……そして何より、婚約者の献身に応える為にも。
老将は思考するセイリオスを穏やかな顔で見守りながら……立ち上がり、槍を手に取った。
「若、もう一手」
「応」
砂がまた、陽に飛ぶ。稽古は続く。戦は今、遠い。だが魔物は近い。賊はいる。〈ワイバーン〉は影を落とし、ヴァルクスの古戦場では、救われぬ者が時折立ち上がる。王都の平穏は、こうして保たれる。
そして、誰にも聞こえない小さなところで、別の“戦”も続いている。数式のように整えすぎた心を、少し崩す戦。余白に火を入れる戦。遠乗りの風は、きっとその火を、いい具合に煽ってくれるだろう。




